6. 舞踏会
商会もある程度軌道に乗り、部下達も仕事に慣れてきた頃、グランは得意先のダカン侯爵に思いがけないことを提案された。
「次に王都の宮殿で開かれる舞踏会に、君も来るといい。大きな催しだから、地方からも集まる。私の知り合いを君に紹介する事もできるぞ」
「……え?私が?」
「そうとも。宮殿の舞踏会の時だけでも王都に来るといい。ドルセット伯爵家の名なら新たな招待状をもらうことぐらい容易いだろう。それが難しければ、私が王家に頼む事もできるが」
グランは目を丸くさせた。
宮殿の舞踏会。久しく聞いていなかった単語に、グランは耳を疑った。
自分が宮殿に出向くなど許されるのか。ほんとうにそんなことが可能なのだろうか。
「とにかく、友人達には舞踏会で君を紹介すると手紙で約束してしまうから、そのつもりでいてくれたまえよ」
「は、はい、もちろんです」
グランは頷くしかなかった。
困ったグランはドルセット伯爵邸を訪れた。エリーゼは珍しく不在で、アンドレが出迎えてくれた。
「ダカン侯爵は顔が広く、素晴らしく寛大なお方です。宮殿の舞踏会に参加すれば確実に顧客の増加に繋がるでしょうね。しかし……」
アンドレは難しい顔をした。
「以前申し上げた通り、あなたはとても有名だ……悪い意味で。最近は商人として良い噂もきくことはありますが、やはり世間の記憶は薄れない」
グランは俯いた。
「……そうでしょうね。実際のところ、私は商会の表舞台に立とうとは思っておりません。そんなことをすれば、商会の印象も伯爵家の印象さえも悪くなる。あの若い部下二人を社交界に出しても恥ずかしくないような人間に育てて……」
アンドレは首を振った。
「いいえ。私が心配しているのは、あなたです」
「え?」
グランは目を瞬かせた。アンドレは言った。
「あなたは商会の柱であるお方だ。いずれは社交界の中を渡り歩いていただかなければなりません。あなたのせいで私の商会の評判や質が下がるとは全く思っておりませんよ。……ただ、宮殿という大きさになると、多くの階層の人間が集まる。あなたに酷い言葉を浴びせる人間が少なからずいるでしょう。そうだな、ここは侯爵に頼んで……、いや侯爵よりもいっそ王子に……」
グランは伯爵子息の顔をまじまじと見つめた。
彼は俺の心配をしてくれているのか?アンドレは苦い顔をしながら、グランを守ろうとする方法を思案してくれているようだった。
あの時のエリーゼと同じだ、とグランは思った。初めて会った時のエリーゼも、自分が無作法だと囁かれるのに気にも止めないで、全力で自分の復讐を止めようとした。
自身の評判ではなく、自分の配下を気にかける。これも、彼らの誇り高い貴族らしさなのだろう。
グランはアンドレの提案に首を振った。もう不安な表情は浮かべていなかった。
「いいえ、これまでの誹謗中傷は自分の自業自得。舞踏会でのそれらの被害は甘んじて受け入れましょう。商会のためにも、アンドレ殿が許可してくださるなら、ぜひとも宮殿へ行かせていただきたい」
はっきりと決意したようなグランだったが、アンドレは心配そうな顔で言った。
「私はその日、父と地方へ視察に行っているので、参加できないのです。何もなければ良いのですが……」
「ご安心ください。私はこれでも小さな経理係から名を馳せるほどの銀行家になった成り上がり者です。悪口や嫌がらせに負けていたら、今生きていませんよ」
グランは自信たっぷりに言ってみせた。
アンドレのはからいで、グランの元に宮殿からの正式な舞踏会の招待状が届いた。王都へ発つ日が近づくと、いつも服を注文している店の仕立屋がにこにこした顔で上等な仕着せを持ってきた。
「この日のために仕立てておいたんですよ!ラグレーン様はいつもうちを利用してくださっていますからね……ぜひこれをお召しになってください」
仕事用の新しい服を着るつもりだったグランは驚いたが、用意された夜会用の仕着せを着てみるとなるほど、自分の陰気な顔さえ華やいで見えるほどに上等な服だった。
王都行きの馬車に揺られながらグランは舞踏会で会うだろう顧客達の顔と名前を思い浮かべていた。久しぶりの舞踏会。最後に出向いたのは半年ほど前だ。グランが短剣で復讐を企てていたが、エリーゼに全力で止められた、あの夜だった。
そういえば、部下の面接を行って以来、彼女とは会っていない。舞踏会の件以降で伯爵邸を訪ねた時もいつも留守にしていた。「暇で仕方ないの」と愚痴をこぼして屋敷に引きこもり、空を眺めるという毎日はもう卒業したのだろうか。それならば、もしやこの夜会に参加していたり……?
そこまで考えて首を振った。いいや、彼女は心底社交界が嫌いだと言っていた。半年前に舞踏会にいたのは、親戚の招待だったからだろう。
いずれにせよ、彼女はドルセット伯爵令嬢だ。舞踏会にいたとしても貴公子達が彼女を放っておくはずがない。自分はダカン侯爵と会って、顧客達に商会の説明さえできればいい。そのために出席を許されたのだとグランは自分に言い聞かせた。
王都に着く頃にはもうすっかり日が暮れていた。今日はホテルに泊まり、明日の舞踏会に参加し、次の日の朝に王都を出るという予定であった。王都ではあまり良い思い出はなかったので、長居するつもりはなかったし、何より商会を部下達に任せきりにすることもできない。グランのハードスケジュールはすべて商会を中心として動いていた。
翌日の夜。グランは例の仕着せを着て、ホテルの前で辻馬車を捕まえると宮殿へ向かった。
馬車の窓から懐かしい華やかな街路が見え、グランは目を細めた。この通りに、かつての自分は屋敷を構えていたのだ。それは遠い昔のことのように思えた。
宮殿の入り口付近にはすでに多くの人が集まっていた。辻馬車を降りたグランは、前回のブリュノー家での件があったので、少し緊張しながら招待状をドアマンに差し出したが、ドアマンはにこやかに彼を出迎え、すんなりと会場へ通してくれた。
宮殿はほんとうに久しぶりだった。
富と権力を兼ね揃えていた銀行家の時は頻繁に通っていたが、荘厳な建物の中に入る時は、前と変わらず心が打ち震えた。
大きなホールは飾り立てた客達でひしめき合っていた。音楽が流れ、ダンスをしたり談笑したりする人で溢れている。慣れない人間には、この中から特定の人物を探すのに骨が折れることであったが、グランはそれを得意としていた。しかし、ホールにはまだダカン侯爵は来ていないようだ。グランの他の顧客もまだ到着していないようだったが、出入り口からはどんどん客達が入ってくる。
侯爵が来るまで何か食べて待っていよう。グランは宮廷料理の並んだテーブルに近づいた。
ドルセット伯爵邸での晩餐も目を見張らせたが、宮殿の物は数が違った。あらゆる種類の食材が使われ、富を惜しみなく誇示するかのような贅沢な料理ばかりだった。色鮮やかな野菜のオードブルや子羊の煮込み、様々な種類のチーズが銀色のトレーに乗って並んでいた。
それらをつまんでいると喉が渇いたので、ワインはないかときょろきょろ見回していた。と、その時、グランに声がかけられた。
「ワインをお探しですか?」
振り返ると、宝石の並ぶ煌びやかな深紅のドレスの黒髪の若い女性が、にっこりと艶麗な笑みを浮かべて、赤のワイングラスをこちらに差し出してくれている。
初めて見る女性に知り合いだっただろうかと目をぱちくりさせたが、グランは「これは、どうも……」と受け取ろうとした。が、グランがグラスを持つ前に女性はすぐにグラスを手放したので、グラスは彼の足元に落ちてしまい、ワインは飛び散りグラスはパリンと音を立てて割れてしまった。ワインはグランの足のズボンに少しかかってしまった。
「きゃあ!ごめんなさい、私ったら……!」
女性が悲鳴を上げたので、グランは「大丈夫です」と言おうと彼女の顔を見て、静止した。
女性は手を口元にやって笑っていたのだ。
グランは信じられず目を丸くさせた。なんだ、この女は。
「あら、どうかして?」
女は笑みを浮かべたまま全く悪びれる風もなく小首を傾げ、グランは言葉を出せずにいた。
そこへ新たな声がかかった。
「おやおや、バレティーヌ。一体どうしたんだい?」
彼女に声をかけて歩み寄ってきたのは、焦げ茶の短髪を整え、上等な仕着せに身を包んだ、いかにも王都の伊達男と言えるような人物だった。
バレティーヌと呼ばれた女性は笑みを浮かべたままで答えた。
「ワイングラスをこの人に渡そうとして落としてしまったの。私がいけなかったのよ、ジャン」
そう言って少し眉尻を下げたが、やはり口元は笑っていた。ジャンという男はグランの方を向いてきれいな笑顔で言った。
「彼女が大変失礼致しました。服の方は大丈夫ですか……おや、ずいぶん質の高い仕着せを着ていらっしゃいますね」
グランはこの男の笑顔の裏には何かあると勘づいた。
「え、ええ。ありがとうございます……」
「お詫びにお飲み物をご一緒させてください。あちらのテーブルへ」
「いや、私は……」
「そう言わずに!王室で保存されたワインは今しか飲めません、さあさあ……」
そう言って、ジャンはグランの背中に手をやって、強引に誘っていこうとするので、グランは「いいえ、けっこうです」と言って彼から離れようと後ずさりした。
しかしその瞬間、グランは何かに足を引っ掛け、倒れそうになり、とっさに後ろのテーブルに手をつこうとした。その手をつこうとした場所には、まるで用意されたかのように、銀の水差しと数種類あるオードブル、そしてソースのたっぷりかかった子羊の煮込みの大鍋が乗った銀の長いトレーが、テーブルからはみ出るように置かれてあるではないか。グランがそこに体重をかけた瞬間、オードブル料理と鍋は宙を舞い、尻もちをついたグランは文字通り、料理を頭から被ることになった。
途端に会場には、まるで道化を見ているような大きな笑い声が広がった。いつのまにか、大勢の人に囲まれていた。
嵌められたのだ。最初から、この目の前で高らかに笑っている赤いドレスの女に声をかけられたときから、罠だったのだ。そして今つまづいたのは、彼女が足を出してグランを引っ掛けたのだろう。
彼女は笑いながら言った。
「いやだこの人、身体に料理を浴びたいほど食べたかったんだわ!」
それに応えるようにジャンも笑いながら頷いた。
「卑しい身分で宮殿なんかに来るからいけないのさ。馬子にも衣装とは確かに言えたが!しかし、これで身に染みただろう」
近くで笑っている彼らの取り巻きの連中達からも笑い声とともに声が上がった。
「あれがあのラグレーン?」
「罪人のくせに、よくこんなところへ来れたもんだ」
「牢獄の匂いがまだするわ」
「あんな格好じゃ、ダカン侯爵に顔向けできないだろう」
「顧客に見つかる前に早く帰りなさいな!」
グランは驚きのあまり尻もちをついたまま立ち上がる事もできず、ソースと水の滴る髪の毛の間から、その笑うだけの者達をぼんやりと眺めることしかできなかった。周りにいる人間以外でも、遠くの方でひそひそと話す者達が見えたが、誰もこちらに手を差し伸べようとはしなかった。
そうだ、これが社交界だ。グランはかつての世間の冷たさが再び、いやかつて以上に身体に刺さるのを感じていた。
と、その時である。
グランの目の前に、空色のドレスの裾が現れた。グランのこぼしたソースや水、料理で足元が汚れるのも構わずに誰かが歩み寄ってきたのだ。
誰だ、とグランが顔を上げた先にいたのはーー天井に飾られたシャンデリアの灯りをバックに立っているのは、エリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットに他ならなかった。
グランは目を見張らせた。
夜会服に身を包み、いつにも増して美しい彼女は、心配そうな表情を浮かべてグランを見下ろしている。
「グラン……?」
ソースと水でびしょびしょになった髪の毛から覗くグランの目をじっと見つめるエリーゼの目は、彼を心底案じている色を宿していた。エリーゼは気遣うように小首を傾げながらすっとグランに手を差し伸べた。グランはその暖かさに胸が熱くなるのを感じた。
「……大丈夫?」
そうしたエリーゼの行動に、周りで大きく響いていた笑い声がふっと消えた。あの名門貴族ドルセット伯爵令嬢が、前科持ちの笑い者の男に手を差し伸べている。その場を見ていた者たちはみな硬直した。
それを知ってか知らずか、エリーゼは戸惑うグランにずっと手を伸ばしてくれている。
「立てる?」
痛いほど刺さる視線の中、グランは小さく頷くと、おそるおそるその白くきれいな手袋をはめたエリーゼの手に、自分のソースで汚れた手袋の手を重ねて立ち上がった。
立ち上がったグランは、怪我こそしていなかったが、目も当てられぬ格好をしていた。髪からは水とソースが滴り落ちているし、仕立屋が用意してくれた仕着せはオードブルと煮込み料理でベトベトになってしまっている。白かったシャツはところどころ茶色に染まっていた。
エリーゼは眉を下げてグランの顔を見上げると、不恰好に彼の頬についた茶色のソースを、グランと手を重ねていないきれいな方の手袋の手で拭った。グランは明らかに親密と思わせるその行動に固まった。
「エ、エリーゼ……!何をしているのかわかっているのか」
エリーゼはしーっと言って彼の言葉を遮ると、微笑みを浮かべて小さな声で言った。
「今は私に従ってちょうだい。とても素敵な服が台無しになってしまって残念ね……。でも大丈夫、ここは宮殿よ。着替えがあるはずだわ、行きましょう」
そう言って、彼をホール外の廊下へ導こうとするエリーゼに、あのジャンという伊達男が声をかけた。
「お待ちください、ドルセット伯爵令嬢。ご存知ないのですか、この男は罪人なのですよ。あなたがお味方する価値もない……」
「言葉にお気をつけなさい、ジャン・ポール・ドゥ・レセット子爵。彼の悪口は私が許しませんよ」
エリーゼから突然放たれた冷たく尖った声に、グランを含めその場に居た者達は、びくっとした。
「し、しかし!」
ジャンもそれに怯んだが、どもりながら尋ねた。
「彼はあなたの何なのですか、あなたのような方が……」
エリーゼはちらりと振り向くと、睨むようにジャンを見て言い放った。
「彼は、私の恋人です。それだけで十分な理由でしょう」
その驚くべき言葉に皆が息をのんだが、エリーゼはもう用はないとグランの手を引いてホールを出ていった。
ホールの外の廊下は蝋燭でところどころ灯されていたが、薄暗く静かだった。グランを引っ張ってきたエリーゼは、向こうからやってくる女官に声をかけた。
「ちょっといいかしら」
「はい、いかがされましたか……ああ、これはこれは、ドルセット伯爵令嬢様!一体どうされたんです?」
女官はエリーゼと面識があったらしく、少し打ち解けたような様子になった。
エリーゼも女官に微笑んだが、グランの方を見て困ったように言った。
「彼がテーブルの近くで転んで料理を被ってしまったの、着替えはあるかしら」
女官はエリーゼの後ろに立つグランに気づいて目を凝らした。
「ああ、これはひどいですね。上等なお仕着せなのにもったいない……!着替えはもちろんありますが、ううん、一度浴室に行かれてしまった方が良いでしょうね……こちらへ」
女官は少し考えた後、二人を階段の上へと連れて行き、エリーゼを小さな部屋で待機させ、戸惑うグランをそのまま浴室に連れて行った。
浴室では別の女官達が控えており、グランが抵抗する間もなく身ぐるみ剥がされると、浴槽に放り込まれ、ごしごしと洗われた。
グランが洗濯物のようになっている間、エリーゼはドレスの裾についた汚れを先ほどの女官に取ってもらっていた。
「さあ、これで大丈夫ですね、手袋も新しい物をご用意しましょう」
手際の良い女官に、エリーゼは嬉しそうに礼を言った。
「ありがとう、さすが宮殿の女官ね。頼り甲斐があるわ」
女官は、その美しい微笑みに顔を赤らめた。
「お、お役に立てて光栄です」
それから半時ほど経って、エリーゼの待機していた部屋の扉がノックされた。
「失礼いたします」
先ほどの女官に連れられて、すっかりきれいになったグランが入ってきた。
宮殿で用意された服は、先ほど着ていた服よりもさらに上質の物だった。まず着心地が違う。
女官が言った。
「お召しになっていた服はこちらで洗濯いたしますね。お帰りの時にお声かけいただければと思います……それでは、私はこれで。ホールまでの行き方はわかりますね?」
「ええ、大丈夫よ。ほんとうにありがとう」
エリーゼがお礼を言うと、女官は部屋を後にした。
エリーゼはその閉められた扉を見つめたままだった。グランは何から言おうかと考えあぐねていたが、まずは礼を言った方がいいだろうと口を開いた。
「さっきは……」
「こめんなさい!」
と、エリーゼが突然こちらを向いて頭を下げた。グランは目を瞬かせた。
「な、なんで謝るんだ……?」
エリーゼは頭を上げ、ちらちらとグランを見ながら答えた。
「だって……だって、私ったらとんでもないことを言ってしまったじゃない?あ、あなたが、私の、こここ、恋人だって……」
ああ、なんだそんなことか。グランは苦笑いを浮かべた。
エリーゼは続けた。
「友達なんだから、友達って言えばよかったのよね、それはわかっているんだけど、どうしても、その……」
言葉を紡げずに困るエリーゼだったが、グランは言った。
「俺が、君と友達だろうと恋人だろうと、どちらにせよ一緒のことだ……君の評判には確実に傷がついた。伯爵家の名にも」
エリーゼはぽかんとした表情を浮かべた後、そんなこと、と肩をすくめた。
「あれくらいでドルセット家は揺るがないわ。あなたが気にする必要は全くなくてよ」
それから彼女は眉を寄せて言った。
「それよりも、ひどいことをする人達がいたものね。貴族という名を名乗るのも腹立たしいわ。何が、子爵よ。相も変わらず、社交界の人間は卑劣なことを考えるわね」
グランは、そういえばとずっと頭に抱いていた疑問を言った。
「エリーゼ、君はなぜここにいるんだ?舞踏会は苦手だと言っていただろう?王都まで出てきて、用事でもあったのか?誰と来た?」
エリーゼは、照れくさそうにして舌を出した。
「私はマリーおば様と一緒に来たの、ほらブリュノー家を覚えているでしょう?彼女の王都の屋敷にここ一ヶ月ほど滞留させてもらっているのよ。それと、今夜の宮殿の舞踏会は来ると決めていたの……その、あなたが出席するってお兄様が言っていたから」
ああ、なるほど。グランは頷いた。
「君の兄上は出席できないときいていた。それで、兄上に言われて君が来たのか」
グランはそう結論づけたが、エリーゼは首を振って思いがけないことを言った。
「いいえ、お兄様は私に何が起こるかわからないから舞踏会には行くなと言ったわ。でも私は行くと決めていたの。だって、あなたと敵対する人間は絶対にあなたを貶めようとするでしょう。だから、私がお兄様のように守れたらって思ったの」
「君が兄上のようにって、だが、君は……」
エリーゼは笑って肩をすくめた。
「ええ、そう。私はあまり外に出ていないから、突然当日に舞踏会に行ったところで、顔の広いお兄様みたいに社交界の人達に影響を与えることはできないし、ブローチをしていたって、瞬時にドルセット家の人間だって認識してもらうことはできないわ。あなたを守るには、みんなに私を知ってもらう必要があった。だからーーこのひと月、王都でのお茶会、舞踏会に毎日のように参加して、多くの人達に私の顔と名前を覚えてもらったの。元々、マリーおば様からずっと王都へのお誘いは受けていたので、ただお受けしたに過ぎないのだけど。さっきの子爵もそのおかげで私のことを知っていたのよ。宮殿の女官まで覚えていてくれたことは嬉しかったけど」
グランは言葉を失った。それでは何か。彼女は今日の舞踏会の参加者に自分の存在を認識させるために、苦手だというお茶会や舞踏会に参加し続けたのか。しばらくの間、顔を見なかったのは、全部……全部、俺を守るために……?
呆然としているグランに、エリーゼは続けた。
「これから下に降りていって、みんなの前で踊りましょうよ!そうしたら、あなたを否定するということは、ドルセット家を敵に回すことになるって、みんなわかるわ。あんなひどい目に二度と合わせるものですか。それからダカン侯爵のところへ行きましょう。そろそろ彼が来ているーー」
と、そこで、エリーゼは言葉を途切らせたーーグランに抱きしめられたのだ。
「グ、グラン……?」
呼ばれた彼はしばらく黙ったままそうしていたが、やがて苦しそうな声を出した。
「どうして……どうして君は、俺のためにそんなことまでやってくれるんだ。商会は預かっているが、俺のものじゃない。俺が君に返してやれるものは何もないんだぞ……俺には、富も、地位も、名誉もないんだから」
抱きしめたまま震える声で問うグランに、エリーゼは優しい声で答えた。
「私は富も地位も、もう持っているもの。あなたに何かを求めてるわけじゃない、私がーー私があなたを好きだからやっているだけ。それだけの理由よ」
エリーゼの言葉はとてもしっかりとした返事だったが、グランはその理由がとても脆いものだと思った。
「それは……君が俺に興味がなくなったら、俺のために何かをしようとは思わないということか」
「うーん、そうね。確かにその通りだけど」
エリーゼは少し考えてから、がばっと体を離してグランの顔を見上げ、笑顔で言った。
「でも安心して。あなたから興味がなくなるなんて、絶対ならないから」
グランはその可愛らしい微笑みに、顔がかっと熱くなるのを感じて、エリーゼからよろよろと後ずさり顔を背けた。
わからなかった。彼女の考える事も、それが貴族の遊びなのかも、自分の飛び跳ねる心臓も。ただ一つ言わなければならないことがあった。グランは顔を赤らめたまま、しっかりエリーゼの方を向いた。
「……ありがとう、エリーゼ」
エリーゼはその言葉に嬉しそうに微笑んだ。
「いいのよ、私もああいう連中にはぎゃふんと言わせたかったの!……さあ、下へ行きましょう」
「その、エリーゼ」
扉を開けようと取っ手に手をかけた彼女に、グランは目を合わせずに言った。
「俺のことは……名目上恋人でもいい」
エリーゼはたちまち満面の笑みに包まれて、彼の腕に抱きついた。
ホールは一番のピークを迎えていた。先ほどよりももっと大勢の客で埋め尽くされていた。二人がホールに現れると、先ほどの騒ぎを知っている者たちの目が一斉に集まった。
「痛いほどの視線だな」
グランの居心地悪そうな様子に、エリーゼは涼しい顔をしてみせた。
「ちょうどいいくらいよ。さあ、踊りましょう」
そうして二人は会場の真ん中まで行くと、手を取り合って優雅に踊り始めた。エリーゼは王都に滅多に来ないとは思わせないほど洗練されたように美しく、彼女の気品は皆の注目を集めた。対してグランの方は初めの方こそ緊張した顔をしていたが、彼女のきらきらした笑顔でそのうちに表情が柔らかくなり優しく微笑み返していた。
この決定的な二人の仲睦まじい様子に、グランの過去の悪い噂を公然とすることは、伯爵家を貶すことだと多くの人間が理解した。
ダンスを終えてホールの中央から抜けようとした時、グランは突然固まったように足を止めた。
「どうしたの?」
エリーゼが彼の視線を辿ると、その先には大勢の人達に囲まれて楽しそうに談笑している男女の姿があった。
知り合いなのかしら。と、少し考えてエリーゼははっとした。大勢の人に囲まれている男女二人。前にも見た光景だ。まさか……?
エリーゼはおそるおそる彼を見上げた。しかし、彼の顔は強張ってはいたが、前のような憎しみの色は浮かんでいなかった。それどころか何か恐れを抱いているのか、腕が震えているようだ。
グランは目を見開いていた。少し離れているが、人の集まった中心にいるあの人物、あれは間違いなく、自分が陥れた……そして自分から全てを奪って復讐を果たしたあの男に違いなかった。
しかし、グランの心を占めていたのは以前のような激しい憎しみではなく、恐れだった。
今すぐにでも彼の元へ駆け出してひれ伏すか、あるいは、彼のいるこの会場から逃げ出して部屋に閉じこもりたい、そういう思いが込み上げて来て、どうしようもなく身体が動かなくなってしまったのだ。
と、その時だ。
「グラン?……大丈夫?」
エリーゼがぎゅっと彼の腕に自分の腕を絡めてぎゅっと握った。グランは我に返ったように、心配そうな顔のエリーゼを見下ろした。
そうだ、今は彼女が隣にいるのだ。その存在になぜだか心からほっとして、グランは小さく笑みを浮かべてみせた。
「悪い、なんでもないんだ」
そう言うグランを、エリーゼは少し不安げに見つめていたが、やがて優しく微笑み返して頷いた。
そうして微笑み合っている二人の元に、壮年の男がにこやかに笑いながら歩み寄ってきた。
「いやいやいや、ダンスが上手だとは知らなかったよ、ラグレーン君」
「ダカン侯爵!」
グランはすっと居住まいを正してきちんとした礼を取った。
「ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
「安心したまえ、私は今来たところなんだ。家内が支度に手間取ってね。ところで……」
ダカン侯爵はにこやかに言うと、グランの少し後ろで控えているエリーゼに視線を移した。
「君と踊っていたこちらの美しいご令嬢は?もしやあなたが、ドルセット伯爵のご息女だろうか?」
エリーゼはにっこりと美しい笑みを浮かべ、貴族の娘らしく上品なお辞儀をした。
「はい。お初にお目にかかります、エリーゼ・ドゥ・ジレ・ドルセットです。お目にかかれて光栄ですわ。父や兄からダカン侯爵様のお話は少し伺っておりますの」
ダカン侯爵も彼女の手を取って挨拶をした。
「こちらこそ、はじめまして。ほう、そうでしたか。しかし……ドルセット伯爵が、こんなに美しいご令嬢を隠していらっしゃったとは」
エリーゼはくすりと笑みを漏らした。
「いいえ、私が屋敷に引きこもっているだけですわ。社交界は苦手ですから」
ダカン侯爵は笑い声をあげた。
「ははっ!私もですよ。今夜はラグレーン君に会うために来たようなものです。おお、そうだ、ラグレーン君。向こうで友人達を待たせているのですよ、ぜひとも商いの話をしてやってください。エリーゼ嬢も良ければご一緒にどうぞ」
そう言うと、ダカン侯爵は身を翻してホールの人だかりの中を歩みだした。
グランとエリーゼも侯爵の後ろについて行った。出入り口付近の方に何人かの男達が楽しそうに談笑している。
グランは思い出したように上着の内ポケットに手をやってごそごそ探ったが、さっと青い顔になった。顧客の名前や注文内容を書き留めておくために準備した紙とペンを、先ほど女官に託した服に入れたままにしてしまったのだ。グランはちらっと侯爵の先にいる男達の人数を確認した。6人。それもおそらく全員貴族だ。絶望したような表情を浮かべたグランだったが、横からその様子を見ていたエリーゼは小さい声で彼に耳打ちした。
「大丈夫、彼らのことなら私が知っているわ。あなたは顔とファーストネーム、それから仕事の内容だけ覚えておいて」
その言葉に驚いてグランはエリーゼを凝視した。
エリーゼは得意そうに笑顔で頷いてみせた。さすがは貴族の娘だ。
その様子にいくらか救われ、グランは心でほっと息をつき、すぐに気合を入れた。貴族の長い名前を覚えなくていいのであれば、あとは自分の得意分野だ。
グランは自信有り気にダカン侯爵の友人達との話に臨んだ。
「それでは、私はそろそろこの辺でお暇させていただきますわ」
一通り商いの話を終えて世間話に入った時、エリーゼの言った言葉に、グランははっとした。彼女が傍らにいることも忘れ、ダカン侯爵やその友人達との話に夢中になり、彼女に見向きもせず、気遣いひとつ見せなかったからである。彼女を棒立ちにさせたまま、1時間以上過ごしていた。
ダカン侯爵が言った。
「おお、これは失礼、マドモアゼル。少々仕事の話をしすぎてしまったようだ」
「いいえ、私は全くかまいませんのよ。ただ、親戚の者と約束した時間になる頃なので、私はこれで失礼致します。皆さん、良い夜をお過ごしください」
エリーゼは笑顔でそう言うとお辞儀をして身を翻した。
「エ、エリーゼ、待ってくれ!」
グランが慌てて追いかけ、エリーゼの腕を掴んだ。
「す、すまなかった、俺は……!」
エリーゼは目をぱちくりさせてから、笑顔をグランに向けた。
「何言ってるのよ、あなたは彼らと会うためにここに来たのでしょう。私のことは気にしないで。親戚の話はほんとうよ、そろそろマリーおば様の馬車のところへいかなきゃ。ああ、彼らの正式名は今夜中にリストにして、明日の朝一番に港町の事務所宛に送るわ。安心してちょうだい」
グランは首を振った。
「それは……それはありがたいが、そんなことじゃない、俺は君を長いこと放って……」
エリーゼは微笑んで、グランの頬に手を当てた。グランの頬も手袋ももう汚れていなかった。
「いいのよ、ほんとうに。今夜はいい夜をありがとう。おやすみなさい」
そう言うと、エリーゼは優雅にホールを出て行った。グランはその後ろ姿を申し訳ない気持ちで見送っていた。と、すぐ後ろから声がした。
「いやいやいや!ラグレーン君、君も隅に置けんな!」
振り返ると、ダカン侯爵がにやにやとした笑いを浮かべている。
「私自身は、君が罪を犯した人間でも、改心して真面目に商いを行い、我々顧客の事を真剣に考えてくれている真摯な態度を買っている。しかし、どうやってあの高嶺の花の関心を得ることができたのかな?」
グランは小さく首を振り、視線を落とした。
「……わからないんです、私にも」
馬車の中では、マリー奥方がいびきをかいて寝ていた。待機していた侍女が、やってきたエリーゼに、ほっと息を吐いてから言った。
「お嬢様!いつもよりずっと遅いので心配いたしましたよ。マリー様は疲れて眠ってしまっていますよ」
エリーゼは舌を出した。
「ごめんなさい、でも、今夜はとっても素敵な夜だったわ」
「はいはい、わかりましたから、早く乗ってください。すっかり遅くなってしまいましたよ」
そうして馬車は侍女とマリー奥方、そしてエリーゼを乗せて走り出した。
エリーゼはほうっとため息を吐いた。ほんとうに、素敵な夜だったわ。
先ほどグランは、彼女を放っておいたまま仕事の話ばかりをして、長い間待たせてしまったとすまなそうにしていたが、エリーゼの方は全く怒りを感じていなかった。いいや、彼女は待っていたのではなかった。グランをずっと見ていたのである。
自己紹介の時、彼は緊張していたようだったが、商いの話となると一変した。貴族達にわかりやすいように言葉を砕き、熱心に商売の説明し始めたのだ。原産地の話、季節によって変化する栽培事情の話、割高の話、損得の話。エリーゼでもわかるような易しい説明だった。そしてなにより、彼自身が陰気だと気にしている顔が、生き生きと輝き、自信に満ち溢れていた。仕事の話をするグランはなんて魅力的なのかしら……!
うっとりと見つめるばかりであったエリーゼは、たとえグランに話しかけられても、すぐには返せなかっただろう。
エリーゼは馬車に揺られてそんなことを考えていたのだった。
後日、エリーゼが王都を後にしてから、エリーゼとラグレーンの噂をきいたマリー奥方は、悲鳴を上げることとなる。
「な、な、なんですって……!?」
エリーゼがあの新聞沙汰になったラグレーンという男と!?信じがたい話にマリー奥方はガタッと椅子から崩れ落ちそうになった。
ドルセット伯爵家とマリー奥方のブリュノー家は遠い親戚であり、かかわりも薄いものであったが、マリー奥方には恐れるものがあった。
「伯爵に……ベルナール様に、何と言われるかしら……ああ、私が同席していながら!私の信用が失われてしまうわ」
まさか疲れてさっさと馬車に戻り、眠りこけていたとは言えない。
「と、とにかく、噂が悪い形になって伯爵の耳に入る前に、私から手紙で伝えておかなければ……!」
マリー奥方は急いでペンを取った。