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5. グランの商い

グランは今月の収益を割り出したリストを完成させて息を吐いた。

顧客も少しずつであるが増え、懇意にしてくれる貴族まで出てきた。この調子だと来月はもう少し大きな収益が期待できるかもしれない。


「一区切りしたようね、お茶をどうぞ」


グランは顔を上げて、机にお茶を置いたエリーゼを見上げた。


「ほんとうにお茶を淹れに来たんだな」


エリーゼは笑って肩をすくめた。


「他にやることがないんだもの。邪魔はしていないでしょ?」


「まあ……そうだが。正直、茶を淹れる暇がないから助かる」


グランはそう言ってカップに口をつけて、リストに再び目を落とした。エリーゼは腰に手を当てた。


「だめよ、少しは休まなきゃ。お昼の前からここで見ていたけど、あなたはちっとも休憩を取らないのね。それじゃあ身体を壊してしまうわ」


「そんなことで身体を壊しているようじゃあ、商人なんかやってられないだろう。特に今日はあんたの兄上に今月の集計を出すんだ。見直しは細かく行わなければならない」


「そう……。手伝えたらよかったんだけど、申し訳ない事に私は計算が大嫌いなの。数字を見るだけで吐いちゃう」


冗談めかした言い方にグランは吹き出し、片眉を上げて言った。


「舞踏会に茶会に計算。嫌いな物が多いお嬢さんだな」


「あら、好きなものだってあるわよ。お花や音楽、絵画や本を読むのは好き。誰かとこうしておしゃべりするのも」


「おしゃべりに付き合っているほど、俺は暇じゃ……」


と、グランは見直していたリストの途中でふと目を止めた。

書き留めてある購入された商品の数と金額が合っていないことに気づいたのだ。

素早く計算し直すと、ダリューという男爵が一回りほど多く支払っているようだった。これでは紅茶どころか、家財が買えてしまう金額だ。

ダリュー男爵といえば、肥沃な土地を買ったために今飛ぶ鳥を落とすような勢いで名を馳せている新興貴族だ。きっと高額な物を購入する際に、こちらの茶葉の金額を間違えてしまったのだろう。何も請求してこないということは、本人が気づいていないということだ。

グランは金額の大きさに黒い考えが過ぎった。アンドレに提出する前に、このリストからその金額を差し引いてしまえば、その大金はグランの手元にとどめることができる。

アンドレには絶対気づかれないし、資産家になりつつあるダリュー男爵からしても、そこまでの痛手ではないはずだ。

グランはごくりとつばを飲み、その数字をじっと見つめていた。

と、その時だ。


「グラン?どうかしたの?」


はっとして顔を上げると、エリーゼが心配そうにこちらを見つめている。


「なんだか顔色が悪いわ。やっぱり具合が悪いんじゃないの?」


エリーゼはグランの顔色を確かめようとぐっと顔を近づけてきた。グランは、彼女のその気遣うような目からそらすことができなかった。

何を迷う必要がある?彼女には関係ない。本来の俺の目的はなんだ。貴族でもない俺には財を築くためには必要なことだ。せっかくめぐってきたチャンスじゃないか。どうにかしてごまかせるはずだ。

ほんの数秒であったが、グランには何時間も心の中で葛藤していたように感じられた。

やがて何か小さく呟いたが、思いを振り払うかのように首を振った。


「いや……なんでもない。見つけただけだ……計算のミスを。悪いが、そこに置いてある紙を……便箋を取ってくれないか」


「え?ええ……これかしら」


グランは便箋を受け取ってそれを見つめていたが、ふっと笑みを浮かべた。先ほど見せていた翳りは失せていた。


「エリーゼ」


「なあに?」


グランは便箋に"ダリュー男爵様"と書きながら言った。


「……信頼は小さな事から積み重ねなければならないんだな」


「いきなりなんなの?」


眉を寄せたエリーゼに、グランは小さく笑って「いや、なんでもない」と首を振った。






グラン・ラグレーンの仕事が伯爵家の商会一本になってから、それまでこの辺り一帯を占めていた紅茶の相場に大きな変化が起きた。北国の輸入品ではなく、自国の貴族が商売を始めたことで、皆が驚きの声をあげたのである。革命が過ぎてからしばらく経ったこの時代、貴族の中でも、借金が重なり爵位を返上する者や、貧しさを防ぐために大商人と政略結婚を結ぶことで生き長らえる一族もいたが、自ら営む商会で利益を得る貴族はほとんどいなかった。

ドルセット伯爵現当主のベルナールは、辺境の領地で知らせを聞いた。まさか国王から爵位を賜った者が平民よろしく商いを始めるとは、落ちた貴族もいるものだと思っていたが、それが自分の息子だときいて、飛ぶようにして戻ってきたのだ。


「アンドレ!一体どういうつもりだ!貴族の生まれで商売をするような男など息子とは認めんぞ!」


帰宅早々、アンドレのいる客間に踏み込み顔を真っ赤にして怒鳴りつける父に、アンドレはため息をついて言った。


「父上、落ち着いてください。ご自分の心臓に悪いですよ」


「黙れ!誰のせいだと思っておる!今すぐ商売から手を引け!」


「お父様、とにかく落ち着いて……さあお水を飲んで」


エリーゼが優しい声で差し出した水を一気に飲み干すと、伯爵はいくらか落ち着きを取り戻した。


「ありがとう、エリーゼ……とにかく、アンドレ。すぐにやめる手続きをしろ」


「申し訳ありませんが、それはできません」


アンドレは眉を下げて困ったように言った。


「父上は、私がなぜ商いを始めたかきこうとはなさらないのですね。まあ理由はご存知でしょうが」


「え?そうでしたの?」


目を丸くして父を見つめるエリーゼだったが、ベルナールは答えずに、眉を寄せた。


「……エリーゼ、席を外せ」


「いいえ、父上」


アンドレが止めた。


「彼女はもう成人している。それにドルセット伯爵家を名乗る者として知るべきことですよ」


「……一体理由ってなんなの、お兄様、お父様」


ベルナールは目を細めたまま何も言わなかった。アンドレは言った。


「エリーゼ、利益のあるなしに関わらず、私がいくつかの商会を持っていることは知っているね?」


「ええ、前にきいたわ。全部興味本位か、お父様に対する嫌がらせだと思っていたけど、理由があるの?」


「嫌がらせ……!そうなのか、そうだったのか、アンドレ?!」


アンドレは父親の言葉を聞き流して妹に真剣な表情で切り出した。


「実はね……この伯爵家の財産は、底をつき始めているんだよ」


「え?」


エリーゼは目を開いて驚きの声をあげた。


「お金がないの……?」


ベルナールは大声を出して否定した。


「な、ないわけではない!少なくとも次の世代までは余裕があるし、それ以降も領地を手放せばずいぶん楽に……!」


「手放してどうするんです?それで生活できても、困ったら今度は別の何かを手放すんですか?そんなことを繰り返していてはいずれ爵位は名ばかりになってしまいますよ」


父親の言葉を遮ってアンドレははっきりと言った。


「持っている物を売るだけでは失うばかりです。それより、自分で利益を出すべきなんだ。商いをしているからって、我々貴族の誇りは消えませんよ。商会は国王からの許可も得ています。これからは貴族も商いをしていく時代なんですよ」


ベルナールは苦い顔をして黙ったままだった。エリーゼはそんな父を見つめていたが、兄に視線を移した。


「私の……私のせいね?私が条件の良い家に嫁がないからいけないのだわ」


アンドレは微笑み首を振った。


「それは違う、エリーゼ。さっきも言ったが、一時的に何かを犠牲にして資金を得ても、長持ちはしないんだ。私は失わずして得ることができる方法こそ、商いだと思っている」


アンドレは大きな手を妹の頭に優しく置いた。


「そして必ず成功する見込みのある、才能ある人間をお前が見つけてくれた」


そう言われてエリーゼは小さく微笑み返した。アンドレはそれを見て満足すると、父親に向き直った。


「あともう何年も経たないうちに、安定した収入が期待できます。それが失敗したのなら、私は銀行家の娘と結婚するし、領地だって売ってくださって結構です」


ベルナールは苦い表情のままそれをきいていたが、やがて口を開いた。


「ほんとうに期待できる収入額なんだろうな?」


アンドレは緊張した顔で頷いた。


「ええ、信じてください」


伯爵は息子の目をじっと見ていたが、小さく息を吐くと小さな声で「わかった」と言った。


「生活に困っているわけではない。ただ将来の事を視野に入れなければならないことは忘れるな……それから、変な商売に手をつけたら、それこそ縁を切るぞ」


アンドレは頷いた。


「肝に銘じます」


ベルナールはそれを聞いてゆっくりと立ち上がると、部屋を出て行った。

アンドレは妹と二人になると、張り詰めていた空気を溶かすようにふうっと息を吐いた。


「これでラグレーン殿には確実に成功してもらわないとならなくなったな」


「お兄様……」


エリーゼは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。


「私……私、何も知らなかったわ」


「教えなかったからだよ。余計な心配をさせたくなくて、一生懸命隠していた」


アンドレは優しく微笑んだ。


「だからお前がラグレーン殿と友人だときいて、びっくりしたんだ。まさかお前にうちの事情を知られてしまったのかと思ってね」


「そんなの知るわけないわよ……。でもこれで、彼に商いだけに専念してもらうようにお願いした理由がわかったわ」


エリーゼの言葉に、アンドレは目をぱちくりさせた。


「おや、確かに家の繁栄のためという理由もあるが、前にも言った通りお前が彼に会いやすくなるというのも事実だぞ。貴族の娘とただの平民の男なんて主従じゃない限り、顔を合わせないからな。お前は社交界に出向かないし」


エリーゼは肩をすくめた。


「社交界にいる男性は貴族だろうと平民だろうと苦手だわ」


「ラグレーン殿は大丈夫なのか?」


兄のいたずらっぽい微笑みに、エリーゼはツンと上を向いた。


「彼は他の人とは違うもの」


「お前が関心を示す人間もいたんだな。思いのほか、落ちるところまで落ちた男だったが。あそこまでの人間は他にはなかなかいないだろう。まあ、もうあれ以上落ちる場所はないだろうが」


エリーゼは兄を睨みつけたが、彼のことを思い浮かべると優しい表情になった。


「グランは……心から安心できるもの、頼れるものがなかったのよ。裏を読む人たちの間で生きてきたから、信じることをとても恐れている。だから、前はお金がすべてだったのだわ。彼には、心から信頼できる拠り所が必要だと思うの。真摯に彼に接すればきっとお兄様のことも……」


「まあ私は所詮、彼の上司であり、お前の兄に過ぎない。彼のことはお前を頼りにしている。今の我々の状況で不正なんか起こされたらたまったものではないからな。今の伯爵家を支えているのは何より世間からの信頼だ」


エリーゼは眉をよせた。


「彼は不正なんかしないわ。私が絶対にさせない」





アンドレの読み通り、彼の紅茶商会はさらに有名になり、顧客が増えたことでいくらか利益を出すようになった。

グランからすれば、ただ正直に取引を行い、注文された品を売買する際に他の品を薦めていただけに過ぎなかったが、金銭に余裕がありそこまで詳しい知識のない貴族たちは、グランの事細かな説明に、満足して購入していった。

しかしグランはラグレーンの名前を明かすことを恐れ、ただ「ドルセット伯爵子息の紅茶商会 経理係」という名で動いていた。その方が利益にも影響はないと考えていたし、実際その通りだった。

そのうち規模の広がった商会は、グラン一人で動かすことが困難になった。しかし、誰かを雇うとなると、彼の正体が世間に知れ渡ることは確かであった。






「そんなのいずれわかってしまうことじゃない。今さら何を迷う必要があるの?」


事務所にドルセット兄妹がやって来たので、グランは人手不足とその問題を申し訳なさそうに述べた。アンドレが口を開く前に、エリーゼは眉を寄せて言った。


「わからないのか?お……私の名前を出せば、顧客はいなくなってしまうんだぞ」


「でも、提供はお兄様なのよ?値段の面でも、品質の面でも何にも劣らないはずだわ。それに、一番その顧客と関わってきたのはあなた自身じゃない。あなたがきちんとした対応をしてくれるから、紅茶を買ってくれるのではなくて?」


「そうかもしれないが……。アンドレ殿、あなたは私の名前が知れ渡ることで客がいなくなることはおわかりでしょう?私には前科があるんです……やはり、無理な話だったんだ」


グランは頭を抱えて下を向いていたが、やがて苦しそうな顔をしながらペンを走らせ始めた。


「……私は元の生活に戻ります。世間に出しても恥ずかしくない、もっと信用のある新しい人間を見つけてください。ここに商会の説明書きを残しておきますから、それを見せて……」


と、その書きかけの紙をアンドレは取り上げると、くしゃくしゃに丸めてしまった。


「アンドレ殿、何を!」


「お兄様……!」


アンドレは丸めてしまった紙をくずかごに入れると、グランに、例の背すじを凍らせるような微笑みを向けた。


「私はね、ラグレーン殿。人を見る目はないんですよ」


その言葉にエリーゼもグランも眉を潜めたが、アンドレは続けた。


「あなたも最初に思ったでしょう、この商会を一番最初に任せていた貴族の子息は、全く商いに向いていなかった。私は人選びには向いていないのです」


グランは遠慮がちに頷いた。それは全くその通りだと思ったのである。

アンドレはさらに続けた。


「しかし、妹は違います。エリーゼは様々な陰謀が繰り広げられている社交界で、いとも簡単に悪人を割り出せる。そういう人間には関わろうとしないのです」


エリーゼは肩をすくめた。


「あんなところで何も考えていない人間はなかなかいないと思うけど」


アンドレは笑った。


「確かにそうだ。だが、エリーゼは自分に害をなす人間には近づかない。小さい時から見てきた私にはそれがよくわかるのです。そして、ラグレーン殿、あなたは妹が友人として認めた数少ないうちの一人だ」


「数少ないってやめてほしいわ、確かに友達が多いとは言えないけど……」


エリーゼの横槍を全く無視して、アンドレは言った。


「だから、私はあなたを信用しています。あなたは商会を正確に運営させ、大きくしてくれた。私の商会に貢献してくれている人間を、妹が信用している人間を、前科があるという理由で切り捨てるつもりはありません。元よりその覚悟で持ち出した話です。ですから申し訳ありませんが、あなたを辞めさせるわけにはいかないのです」


グランは、真剣に訴えるような目で言うアンドレの言葉を、心が震える思いで聞いていた。

裏がある、罠があるといつも考えていた。しかしこの目の前の青年は、妹を信頼し、そしてこの自分さえも信じて味方になってくれているのだ。

俺は……彼を信じていいのだろうか?

グランが何も言えないでいると、アンドレが柔らかい表情になって言った。


「まず、私と一緒に一軒ずつ顧客を訪ねて話しましょう。あなたの名前を明かして、取引できないと言われたらそれまでです。断られるところもあるかもしれませんが、あなたの商いの真摯な態度に、購入し続けてくれる客も必ずいるはずです」


グランはその言葉にまじまじとアンドレを見ていたが、がばっと頭を下げて絞り出すような声を出した。


「ありがとうございます……!」


「さすがお兄様だわ!大好き!」


エリーゼが兄に抱きつくと、アンドレは彼女の頭を優しく撫でた。


「エリーゼのためにも、がんばらないとな。ラグレーン殿、そういうわけで、新しい人員を雇うのは顧客に確認してからにしましょう」


「ええ……その……もしかしたら、顧客が減って人手不足が解消されるかもしれませんが」


グランは後ろ向きに言った。


「グランったら!仮にもドルセット伯爵家が後ろについているのよ?」


エリーゼの言葉にアンドレも同調した。


「そうです。我々一族を甘くみないでください。あなたの汚名だって返上させることができるかもしれない」


グランは改めてアンドレという男から強い力を感じた。根っからの貴族とは彼のことをいうのかもしれない。ぼんやりそう考えていると、エリーゼがいつのまにかそばに来て、グランの手を握ると元気づけるように微笑んだ。


「大丈夫よ、グラン」


グランはその優しげな目に、なんとも言えない感情が胸に湧き上がるのを感じ、戸惑うようにただ頷いた。

アンドレはその様子を微笑ましげに見つめていた。





結果的に言えば、グラン・ラグレーンの汚名よりも、国王の信頼厚い名門ドルセット伯爵家の名前の方が強い力を持っていた。顧客を誰一人として失うことはなかったのである。

最初こそラグレーンの名前をきいて驚き戸惑っていたのは確かだが、「ドルセット伯爵家の元、心を入れ替えて一からやり直している」と述べると、それはあっさりと受け入れられた。


「私のリストに載せた顧客はみな、先祖の代から我々一族を信頼している思いやり深い人達なのです。社交界となると、また話は違ってくるのですが」


アンドレは誇らしげにそう言った。

グランは、世間からのドルセット家の信頼の厚さに、驚きで言葉もなかった。エリーゼが誇りにしていたのはこれか。貴族という立場の気高さにグランは自分の力が到底及ばない気がした。

この信頼は絶対に崩してはならない。そう決意したグランは、ますます真面目に商いに励んだ。



商会の範囲は変わらず広がる一方なので、グランの補佐として事務員を二人を雇うことになった。面接には、グランとアンドレ、そして「妹にも判断をしてもらいたい」とアンドレが強く望んだので、エリーゼまでが立ち会った。

前科持ちの上司の元とはいえ、名門ドルセット伯爵家の商会の肩書きに、数十人の応募が殺到した。その中で、グランは的確に数字を扱えるか、アンドレは表に出してもかまわないような最低限の礼儀を備えているか、エリーゼは悪事を考えている人間かどうかを判断する役目を果たした。

最終的に、的確な人物が二人打ち出された。ジャスマン・コートとエミール・アルノーという、どちらも若く純粋な青年だ。商いで必要なことは一通り学んでおり、面接で尋ね試験を行ったところ解答はすべて完璧で、グランはそこで決定打を下した。アンドレが調べた家族事情としては、コート家もアルノー家も中産階級で後ろ盾が弱いがきちんとした家庭であり、話し方も所作も態度もわきまえていた。何より、エリーゼが推したのは彼らの純粋さだった。家族のためにまっすぐ生きているその姿に偽りはなく、信頼に値する者たちだと確信できたのだ。

彼らのその真面目な仕事ぶりは、大いに商会の力となった。大事な数字の管理はもっぱらグラン自身が行ったが、商品の揃えや顧客への対応などは少しずつ二人に任せられるようになっていった。

グランの言うことをなんでもきき、彼の望む通りに育っていく若い部下達に、グランは昔の記憶を蘇らせた。

仕事にあくせく励む姿で連想するのは、自分の姿ではなく、かつて自分の同僚だった男だった。人当たりも良く一生懸命に仕事をする彼は、上司にも気に入られ出世の道へと進みつつあった。

新人二人の何でも吸収していこうとする姿勢は、あの男そっくりだった。今では、かつての上司があの男を可愛がり、信頼を寄せていた理由がわかる気がした。

しかし過去の自分はどうだ。自分が人に好かれないような陰気な性格をしていることから、明るく無邪気な彼を恨み妬んで、彼を罠に嵌めた。何の罪もない彼を絶望の淵へと追いやったのだ。

部下を持つことで初めてグランはかつての自分を省みて今更ながらに悔恨の念を抱くようになった。

結局のところあの同僚の男は、自分を嵌めたグランから何もかも取り上げてどん底へ落とし、復讐を果たしたわけだが、純粋だった彼はすっかり変わってしまった。このジャスマン・コートとエミール・アルノーのように無邪気な青年であったのに、裏を探って復讐に燃えるような人間になってしまった。そして彼をそのように変えてしまったのは自分なのだ。




ガチャンと牢獄の鍵が開け放たれる音が地下をこだまする。


「……出ろ。そして今後私の前に現れることは許さない」


牢獄で死刑をひたすらに待つばかりだと思っていた自分に、男はこちらを見ずに冷たく響く声で言い放った。

なぜだ。なぜ殺さずに牢から出した?あの時抱いた疑問は今でもわからない。しかし、彼にとっては苦渋の決断だったのだろうということが、今思い出すと彼の声から強く感じられたーー。




「ラグレーンさん?あの……きいていらっしゃいますか?」


ふとグランは思い出から現実に引き戻された。

エミール・アルノーが、困ったように書類を差し出している。その後ろにはジャスマン・コートが封筒をいくつか持って眉尻を下げてこちらを見ていた。グランが険しい顔をしているので、少し怯えているようだった。


「……ああ、悪い。もう一度言ってくれるか」


微笑むような柔らかい表情を浮かべて言った。エミールはほっとしたようにジャスマンと顔を見合わせると、安心した様子で話し出した。


「一週間前に話が出ていたクレマン様の件ですが、購入する茶葉の種類の数を……」


真面目な顔で上司を頼りにするその二人を見ながら、彼らは絶対に自分が守らなければならない存在だと強く思うグランなのであった。





「……アンドレ殿、大変恐縮ですが、あなたの家を出る許可をいただけますか」


商品の発注の確認のため事務所にやってきた伯爵子息に、グランが突然言った。


「え?家を移るのですか?」


アンドレはきょとんとした。


「はい。いつまでもアンドレ殿の私用の家を使わせていただくわけには参りません。部下二人もできて、私自身の収入も安定してきましたので、やはり自身の力で衣食住を立てたく思います」


「……もちろんかまいませんが、よろしいのですか?どこに住むおつもりなのです?」


「初めは事務所に住もうかと考えていましたが、隣に空き家があったので、そこを借りようと思っています」


「あの小さな住まいに……!?せ、生活はできるのですか?」


貴族であるアンドレは信じられないと首を振ったが、グランは苦笑いを浮かべた。


「造船所で働いていた時の掘っ立て小屋よりずっとましな家ですよ。……私は貴族ではない。見栄を張りたいとは思わないし、今の仕事にふさわしい十分な家に住みたいんです。自分への牽制のためにも。もちろんあの時、あなたが投資だと言って生活の糧を与えてくれたことには感謝しています。造船所での労働は私には向いていませんでしたから」


アンドレは意外そうな顔でグランを見つめていたが、にっこりと笑みを浮かべた。


「わかりました。あなたの意見を尊重しましょう」


グランもほっとしたような笑みを浮かべた。アンドレはそのまま書類に目を落とそうとしたが、すっとグランに厳しい視線を戻した。


「ラグレーン殿、ひとつ伺ってもよろしいですか」


「なんでしょう」


「あなたは……まだ財を築くことが目標なのですか」


アンドレの問いにグランはきょとんとした。

アンドレは続けた。


「以前のあなたは多大な富を持ち、財を築くことを目標としていたはずです。今もそれは変わらないのですか?」


それはアンドレが一番気にかけている問いだった。ドルセット伯爵家の保護下を抜けて、また新たに自分の財を築こうと考えているのだろうか。

しかし、グランは目を瞬かせ、少し考えてから答えた。


「ええ、確かに財は築きたいとは思っていますが……今は自分のためではなく、伯爵家の商会のためですね。今の私はアンドレ殿の商会があるからこそ商人として仕事ができるのですから。とにかく今の目標は商会を広げることと、部下達を育てること。この二点でしょうか」


それは表面的な答えではなく、グランの率直な思いだった。いつのまにか、グランはアンドレに大きな信頼を寄せてくれていたのである。

アンドレは驚いたような表情を浮かべていたが、やがて心から安堵しように嬉しそうに微笑んだ。


「そうでしたか。どうやらいらぬ心配だったようですね……妹も喜ぶでしょう」

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