3. 伯爵子息の提案
エリーゼは客間のソファーに腰を下ろして紅茶を飲んでいた。きっとあと五分もしないうちにノックの音がするはずよ。
そう予測してすぐに扉が静かに叩かれた。
「エリーゼ様、お連れいたしました」
「どうぞ」
エリーゼが応じると、真新しい黒いフロックコートを身につけた男が遠慮がちに入ってきた。
一緒に入ってきたメイドに紅茶を淹れ直すように言い、メイドが去ると、エリーゼは腰に手を当てて男を睨んだ。
「やっとおでましね。私がどれだけ待ったと思っているの、グラン?」
名前を呼ばれた彼は、気まずい表情を浮かべて帽子を取った。
「……入れなかったんだ。爵位も地位もない身分で、用事もないのに由緒ある伯爵の屋敷を訪れるなんて無理だ」
「用事もないだなんて、私があなたを呼んだんじゃないの!私のお友達として堂々として入ればいいのよ」
「お、お友達なんて、あんた正気か?俺は造船所で働いている労働者なんだぞ」
「あら、造船所で働くことにしたのね!働き口が見つかってよかったじゃない」
エリーゼのあっけらかんとした物言いにグランは返す言葉がなかった。
その時扉がノックされて、新しく淹れ直された紅茶とともに、グランの送った花々が花瓶に生けられて運ばれてきた。
「とってもきれい」
エリーゼはテーブルに置かれた花を眺めて、うっとりとつぶやいた。
「ありがとう。お花をもらうなんて初めてだったから、嬉しいわ」
グランは眉を潜めた。
「伯爵令嬢が初めてなわけがないだろう。理由がなんであれ、男が女に贈り物をするのはあたりまえの社交辞令のはずだ」
エリーゼは罰が悪いような顔をして言った。
「その……ほんとうに初めてなの。私はちゃんと舞踏会や茶会に出ていないから、存在をあまり人に知られていないのよ。だから友人も少なくて……」
グランは目を瞬かせた。
社交界で存在を知られていないだとーー?
そんなことがあるはずはなかった。ドルセット伯爵の地位はゆるぎなく、社交界でも知らない人間はいない。舞踏会に参加せずとも、その名前だけで贈り物をする者は大勢いるにちがいない。とすると、伯爵あるいは彼女に執心の誰かがそれらのものをすべて阻み、彼女に知らせていないのではないだろうか。
そういう考えに至ると、グランはぞっとした。俺は花を送ってしまった。それどころか今、彼女の屋敷の客間に腰を下ろしている。そしてメイドが控えているとはいえ、部屋には二人だ。これは非常にまずい状況なのではないか。ここへ突然伯爵が顔を出してしまえば、自分が無事でいられる保証はどこにもなかった。
メイドがグランの前のカップに茶を入れ終わると、グランは一気にそれをあおり、腰を上げた。喉がひりひりするのもかまわなかった。
「それじゃあ俺はこれで」
エリーゼはカップを口に近づけていた手を止めた。
「え?冗談でしょう」
「用事を思い出したんだ、こんなところで茶を飲んでいる場合じゃない」
エリーゼは呆れたようにカップを置いた。
「そんな言い訳が通用すると思っているの?友達より大事な用事っていったい何よ」
「戸締りだ。家を出ていくときに鍵を開けっぱなしにしていたことを思い出した」
嘘ではなかった。しかし、有り金は全部所持しているので、盗まれて困る物はなかった。そもそも家とは、ただのねぐらとして使っている掘っ立て小屋にすぎず、泥棒が入るような場所でもないのだ。そんなことより、早くこの部屋からーー屋敷から出なければ。
グランの焦りをよそに、エリーゼは目を細めて皮肉気に言った。
「なんともまあ、今思いついたような用事ですこと。どちらにせよ、今まで何の音沙汰もなかった分、今日の午後はずっと私に付き合ってもらうから」
「な、なんだと、勝手に決めるな!俺はもう帰ると言っているんだ!」
グランはそう言って客間の扉の前までずんずん歩み寄ると、勢いよく開け放ちーー扉の向こうに男が立っていたのに思わずのけぞって驚きの声をあげた。
グランと同じほどのーーあるいはいくらか若い青年のようだった。廊下から客間の扉を開けようとしていたところを、グランが勢いよく開け放ったことに驚いていたようだったが、すぐに微笑を浮かべて落ち着いたトーンで言った。
「私もまだ帰るのは早いと思いますよ。来たばかりではありませんか」
その声に、グランよりも早くエリーゼの方が反応し、腰を上げた。
「あら、お兄様!」
お兄様?グランは目の前の青年をまじまじと見た。
エリーゼと同じ栗色の髪に青い瞳が光っている。まさか、彼がドルセット伯爵の嫡男なのか!?
「とんだご無礼を!」
慌てて頭を下げたグランに、伯爵子息は柔らかい口調で言った。
「いえ、頭を上げてください。私の方もノックすればよかったんだ。エリーゼのご友人だときいて挨拶をと思いまして」
グランは頭を上げても恐縮したように述べた。
「ゆ、友人だなんて恐れ多い。身分をわきまえず大変失礼を……。もうここへは二度と足を踏み入れませんので」
とたんにエリーゼが眉を吊り上げた。
「そんなのいやよ!あなたは私のお友達だって言ったでしょう、言い訳はいいからこっちに座りなさい!」
「エリーゼ、友達だというわりには、命令しているように聞こえるぞ」
兄が笑いながらたしなめたのに、彼女は肩をすくめた。
「だって私は散々待たされたのよ……グラン、早く戻って。お兄様もどうぞ」
グランは伯爵子息に帰りたいと目で訴えたが、彼はにっこりと微笑んでソファーに座るよう促すだけなので、結局部屋を退出することは叶わなくなってしまった。
「ご存知でしょうが、私はアンドレ・ドゥ・ジレ・ドルセット、エリーゼの兄です」
にこやかに差し出された手を戸惑いながらグランは握り、恐る恐る名を名乗った。
「私はその……グラン、グラン・ラグレーンです」
グランは怯えた様子でアンドレの顔を窺ったが、伯爵子息はにっこりと微笑んだ。
「ええ、存じ上げておりますよ。妹があなたに執心だということで、失礼を承知で調べさせていただきました。今までの所業を少しばかり」
その言葉にエリーゼは驚きの声を上げた。
「なんですって!?お兄様、なぜそんな……!」
「お前がこの前の舞踏会で名前も名乗らない男と親しそうにしていたとサロンできいたからな。めずらしいこともあるものだと思ってね」
「あの場で名を明かしたつもりはありませんでしたが。よく私だとお分かりになられましたね」
グランの言葉にアンドレは目を瞬かせて答えた。
「おや、ご存知ない?社交界では、あなたはちょっとした有名人ですよ。新聞にさえ載ったんですからね……仮面舞踏会ではないのだし、あなたの顔がわかる者だってもちろん存在する」
グランは暗い表情で頷いた。
「そう……でしたか」
もう社交界に堂々と出るようなことは難しいのだ。それだけの事を犯してきたと、じわじわと今さらになって身に染みてくるのを感じた。
そんな暗い顔のグランとは対照的に、アンドレは朗らかに言った。
「ただ、私の妹は社交界に出たがらないから、あなたより知名度は低いのですよ。家族がらみの知人から"エリーゼが見知らぬ男と親しそうにしていた"とは聞いたものの、一般的に大きな噂として知られているのは"あのラグレーンが社交界では知られていない絶世の美女ときつく抱き合っていた"という方だ」
「だっ……!」
グランは瞬時に顔を赤らめて口に手を当てたが、エリーゼの方は面倒そうに目を細めて息を吐いた。
「ほんと、これだから社交界は嫌いなのよ。余計なところだけ強調されて伝わっていくんだから」
「それで?実際はどうなんだ、エリーゼ。君たちの関係は」
アンドレの微笑みながらも問い詰めるような目つきにグランは怯んだが、エリーゼは再び大きなため息を吐くと、臆することなく肩をすくめて言った。
「別に公言できないような関係ではないわ。私が躓いたのを彼が支えてくれただけ。噂が大げさなのよ」
エリーゼの言葉に、グランは心でほっとため息をついた。まさか彼女がグランの復讐計画を話すとは思っていなかったが、それでもその勢いをつかせるほどにアンドレの笑顔は恐ろしかったのだ。
アンドレはしばらく妹の気だるげな顔を厳しい目で見つめていたが、やがて息をつき優しい目に戻って緩く微笑んだ。
「そうか」
なぜか納得したようなアンドレに、グランは小さく驚いたが、同時にぞっとした。
恐らくこの社交に内向きなエリーゼから男の影を遠ざけていたのは十中八九彼であろう。彼らの父親である伯爵にこそ会ったことはないが、このアンドレは社交界の全てを握っているような余裕さえ感じた。
グランはおずおずと口を開いた。
「……あなたやドルセット伯爵家の名誉を汚してしまったのでしたら、お詫び致します。もう金輪際、このお屋敷には近づきませんし、エリーゼ殿とも……」
「ちょっと!そんな事、この私が許さないわよ!やっと手に入れた友人を手放したりするものですか!」
エリーゼが慌てて口を挟み、兄に申し立てた。
「ねえお兄様、かまわないでしょう?確かに彼は牢獄に入っていたけど、でも彼にだってやり直す権利はあるわ。お兄様がだめだって言っても、私は彼から離れたりしないんだから!」
こぶしを握って言い切る妹の方を指し、アンドレはグランに肩をすくめてみせた。
「この通り、妹はずいぶんあなたに入れ込んでいるようだ。私が介入する余地もない」
困ったように笑う伯爵子息に、グランは何も言えずに、兄の隣に座って口先を尖らせているエリーゼと見比べる。妹はわかりやすい性格をしているが、兄の方は謎めいた笑みを浮かべるだけで、全く心が読めない。これはあまり深入りしない方がよさそうだ。庇ってくれるエリーゼには悪いが、今後ドルセット一家と関わりを持つのは避けよう。そう結論づけていたグランだったが、アンドレは思いがけないことを話題にしてきた。
「ところで、ラグレーン殿。あなたは昔からずっと数字を仕事にしてきたと伺っています。銀行家になるまでには山ほどの帳簿をつけてきたのでしょうね」
グランは目を瞬かせ、不思議そうな顔を浮かべて頷いた。
「え、ええ、まあ。経理はそれこそ10代の頃からやっていましたが……それがなにか?」
アンドレはにっこりと微笑んだ。
「実は私が所有している商会がいくつかありまして、その一つの経理係が私用で辞めてしまいましてね。誰かいないかと探していたんですが、ラグレーン殿、あなたはいかがでしょうか?」
グランはぽかんとした。今彼は何と言ったのだろうか。伯爵家の所有する商会の経理係を?この俺が?驚きのあまりグランはすぐに言葉を発することができず、変わりにエリーゼが声を上げた。
「お兄様?一体何を企んでいらっしゃるの?」
妹の怪しむ目に、アンドレは笑って両手を上げてみせた。
「企んでいるつもりはないよ。ラグレーン殿にはそういう仕事の経験がおありだろう。その才能を造船所で葬るなんて真似はするべきではないと思っている」
グランは首を振った。
「私に才能なんてありません。銀行家になったのだって、ご存知の通り、運が良かったのと……不正を行っていたからです。確かに昔から帳簿を仕事にしていたから、その辺の経理士より正確にこなすことはできますが……」
「昔、船上で帳簿をつけていた時は、真面目にやっていたと伺っています。それだけで十分かまわない。銀行家になれとは言いませんよ。……もちろん、不正を再び行おうとは考えていないでしょうし」
グランは、目の前の男に何もかも見透かされているようで背筋が寒くなるのを感じた。そのくせ相手の考えていることは何一つわからない。完全にこちらが不利だ。もはやこの屋敷から無事に帰ることができるのかどうかさえ危ういように思えてきた。追い打ちをかけるようにアンドレは笑みを深めて言った。
「伯爵子息の申し出を断れるとは、まさかお思いではありませんよね?」
結局グランはアンドレの"提案"に同意し、アンドレの持つ商会の一つ、紅茶商会の経理を担うと契約書にサインをした。
それが済むと、アンドレは満足したようで、グランに軽く挨拶をするともう用は済んだとばかりに客間を出て行ってしまった。
グランはぐったりとしたように息を吐いた。
その様子をエリーゼが申し訳なさそうに見ていた。
「あの……グラン?思いがけない事になったわね」
「……思いがけない?不意打ちにも程があるだろう。一体君の兄上は何を考えているんだ、俺は……俺には前科があるんだぞ?」
「ええ、お兄様の考えは私にもさっぱりわからないけど……でも、あなたを陥れる事は絶対しないはずだわ」
「そうであることを願う」
前のテーブルに手を伸ばして脱力していたグランをじっと見ていたが、エリーゼはその手にそっと自分の手を置いた。
「もし何かあっても、私があなたを守るわ。それだけは約束する」
グランは驚いたように顔を上げてエリーゼの真剣な眼差しを見つめた。
「本当か?あんたのお兄さんと敵対する形になっても?」
「お兄様に限って私の言い分を捻じ曲げることはないとは思うけど、もしそうなったとしたら、私はこの伯爵家に反旗を翻すわ」
「なぜ……?なぜそこまで?」
エリーゼは兄とどこか似ているようで、全く似ていない相手を安心させるような自然な微笑みを浮かべた。
「私はあの舞踏会の夜からあなたの味方なのよ。忘れないで」
その貴族らしくない魅力的な笑顔に、グランも気づかないうちに自然に笑みを返していた。




