段々日が昇ってくる
毎日の日課として、朝日が出ると共に家の外に出て空が燃える様を眺めるというものがある。
意識が高いのだ。
特にこの空が燃えるなんて表現、意識の高さがチョモランマを越えている。越えに越え過ぎて意識の上層部は酸欠気味だ。
つまり高い意識の大半は酸欠で朦朧としており外界に表出している僕という人間が周囲に見せている意識はそのほとんどが酸素をたっぷりを吸った元気で強い低い意識であると言えるのだけど、ここまで難しい言葉をたくさん使って長々と話せている辺りその説は信憑性に欠ける。
ので、僕の意識は高い。
高いと言えばこの街には毎朝毎昼毎晩凄く高い位置に熱気球が浮いている。
何かを観測しているという話を聞いたことがあるけれどそれが何かと知らされることは少なからず僕ら一般市民にはなかった。ただ熱気球から赤い光が放たれたら気を付けろとだけチラシで説明されただけだった。
でも、放たれることは滅多にないということだ。それよりも僕が気にするべきは今朝の朝ご飯をライ麦パンにするか小麦パンにするか、珈琲にどれだけ砂糖を入れようか入れまいか、服はどうしようかということだ。
そうだ、パンはライ麦で珈琲はブラック、服は先週買った二万コゼニーするマントが映えるような服にしよう。
そう決めてろくすっぽ眺めてなかった朝日に別れを告げて踵を返すと、僕の家が赤く染まった。
家だけではない、家の周りの芝生も、花も、僕の体も少し赤っぽい。
ふと、もう一度踵を返すと気球から赤い光を孕んだ照明弾が絶え間なく煌々と発射されていた。