夏
夏。
連日の猛暑で古典のおじいちゃん先生が倒れてしまったので、本日の一時間目は自習になっている。
すでに一時限目は5分も過ぎているけど、教室には数人の生徒しかいない。
古典の時間はしばらく自習だと知っていて、マイペースに遅刻してくる生徒ばかりなのだ。
僕は倒れてしまった先生の事を心配しつつも、睡眠時間を得られた幸運に感謝する。
愛用のヘッドホンを装着して。
ノイズキャンセラーを起動して無音をつくり。
カバンから小さなクッションを取り出して机に設置する。
するとどうだ、ちょっと快適な睡眠空間の出来上がりだ。
空調の利いている教室で1時間近く眠ることができるなんて奇跡のようで、今から眠ろうっていうのにちょっと興奮してきてあまりよろしくない。
それでは、おやすみなさい……。
「よう、クロ! さっそく居眠りか!?」
クッションに顔を沈めたところで背中をばんと叩かれた。
ノイズキャンセラーを無視して聞こえてくる大声は、級友の東くんのもの。
彼もこの期に乗じて遅刻してくる組だったようだ。
僕の後ろの席にどかりと座った東くんは、コンビニの紙袋から菓子パンを取り出して勢い良く食べ始める。
東くんはいつも一時限目に堂々と朝食をとるので、よく先生から注意されている。
最近は知恵を付けて教科書の陰で食べる事も覚えたけど、咀嚼音がよく聞こえるのでバレバレだ。
ヘッドホンのおかげでそのうるさい咀嚼音は聞こえてこないけれど、東くんの何か話したそうにしている視線が僕の背中にずびずびと突き刺さって、とてもじゃないけど眠れたものじゃない。
「……東くん、なに?」
眠る体勢を解いて振り返ると、東くんは菓子パンを咀嚼しながら口角を持ち上げて悪魔のような笑みを見せた。
まさか食べながら話し出すんじゃないかと心配だったけれど、東くんは咀嚼スピードを上げて口の中のものを呑み込んでから、顔を若干引き締めるようにして僕の方へ向き直った。
「まあ。聞いてくれよ、クロ。俺ってばよ、ちょっとすごい発見しちまってな?」
たぶんろくな事じゃないんだろうけれど、聞いてあげないと僕が眠れないからしょうがなく聞いてあげる事にする。
ちなみにクロっていうのは、東くんが僕に着けたあだ名だ。
苗字が鉄だからクロって安直なネーミングだけど、級友の殆どがそう呼ぶようになってしまったものだから、声の大きい人の発言は侮りがたい。
重く感じる体を起こして椅子の背もたれに寄り掛かるようにして東くんの方を向くと、彼はコンビニ袋のから眠気覚ましで有名なコーヒー飲料を取り出して、どや顔で僕に押し付けてきた。
しかも2本も。これは、僕を叩き起こしてでも話を聞かせる気だったに違いない。
ため息交じりに1本目の封を切ると、僕の前の席から「おい」と声が掛かった。
「おい、あの字。くの字の仮眠を妨げるな。そいつの目の下のクマを見てみろ。くの字はな、夜な夜な人知れず戦っているんだよ。戦士の休息を邪魔してくれるな」
駅前の本屋さんカバーに包まれた文庫本を閉じてこちらに向き直るのは、前の席の櫻井くんだ。
メガネの奥の鋭い視線は真っ直ぐに東くんを射抜き、上体をわずかにこちらの方へ向けている。
ちなみにあの字とは東くんのあだ名、くの字は僕のあだ名だ。
櫻井くんが「某の字」って古風なあだ名で呼ぶ人は、そうとう気に入っている人だと聞いたことがあるけれど、本当かどうかはよくわからない。
嫌われていないのは確実だから、それだけでもありがたい事だと思う。
それにしてもこの櫻井くん、彼はたまに鋭いところを付いてくるから恐ろしい。
「人知れず戦っている」という部分、実は間違ってはいないのだ。
でもこれは別の話だから、また別の機会にって事で……。
聴者がひとり増えて嬉しそうな顔をするのはもちろん東くんだ。
東くんは得意げに鼻の下を擦ると席から身を乗り出してくる。
「ズッキー、ちょうどお前の意見も聞きたかったところだ。クロと一緒に話を聞いてくれよ」
「ズッキーはやめろ、あの字」
ズッキーとは、東くんが櫻井くんに着けたあだ名だ。
下の名前を聞くと、なるほどって納得してしまうけれど、櫻井くん当人は「ズッキーニみたいで不服だ」って言っていた。
東くんと櫻井くんとに挟まれる形となった僕は、椅子をちょっと窓側に寄せて横向きに座る。
背中を窓に預けながら、直射日光の暑さに辟易する。
どれだけ空調が利いていても、窓から差し込む日光ばかりはカーテンや日傘がないと防げない。
このまま眠ったら汗だくで目覚めるところだったかも、なんて考えているうちに話は進んでいたようで、櫻井くんの「なんだと?」という懐疑的な声で眠りに落ちかけていた意識が戻ってきてしまった。
僕が身じろきしたことで、東くんの非難の視線が刺さる。
「おーい、クロ。聞いてなかったのかよ?」
「ごめん東くん。それで、なんの話なの?」
水を向ければ、東くんは途端に機嫌を直して得意げになる。
「いいか?」と前置きして、東くんは話を切り出した。
「女子の透けブラについてだよ」
東くんの相手を櫻井くんに任せて眠ってしまえばよかったって、今すごい後悔が押し寄せてきた。
◇
得意げな表情の東くん。
彼の話の続きを、僕は半眼で、櫻井くんは鋭い目付きで待つ。
「ふふん。興味を持ってくれたみたいで何よりだ。クロはともかく、ズッキーなら食いついてくれると思っていたぜ?」
「え、僕出汁にされたの? 睡眠時間返してよ」
「まあ、落ち着けよクロ。お前の考えも聞きたいんだよ。ほら、俺なんかはがっつり派で、ズッキーはむっつりで、クロは草食だろ? いい感じにバランスが取れてるんだよ」
「おい、あの字。人を勝手にむっつりにするな。さっさと本題に入れ」
不機嫌そうに先を促す櫻井くんを「まあまあ」といさめた東くんは、こほんと咳払いして話を続ける。
「ところで、お前たちは女子の透けブラ、好きか?」
教室には他の女子もいるのになんて事を聞くんだろう。
僕が答えに窮していると、櫻井くんがうむと、ひとつ頷いた。
「ああ。大好きだが?」
予期していなかったストレートな答えに、僕は思わず櫻井くんを二度見してしまう。
教室の女子たちも一瞬動きを止めるが、すぐに何事もなかったかのように元の動作に戻る。
しかし、彼女たちの耳はこちらの会話に釘付けになってしまった。
櫻井くん、見た目はクールで知的な印象が強いので、一部の女子たちからひそかに人気があるらしいのだ。
そんな櫻井くんが実はむっつりさんだというのだから、彼女たちからすれば心中穏やかではいられないだろう。
僕もさっきまで知らなくて寝耳に水だったけど、ちょっと勝手に親近感がわいてきてしまったよ。
「で、クロはどうよ?」
「え、僕!? いや、き、嫌いじゃないけれどさ……」
言いにくいなって思いながらそう答えると、東くんも櫻井くんも、同じタイミングで同じ方向を、教室の真ん中あたりを見た。
「え、なに?」
僕がふたりの視線を追ってそちらを向く頃には、ふたりはすでに元の体勢に戻っていて、東くんが話を再開するところだった。
釈然としない思いで東くんの話に耳を傾けていると、東くんは透けブラがいかに素晴らしいものであるかを力説し始め、櫻井くんはその意見に同調しつつも持論を展開し始めた。
梅雨と夏の風物詩であるとか。
男のロマンであるとか。
前面から拝めるカップの部分も良いけれど、後ろから見えるホックの部分も捨てがたいとか。
「……けどよ、後ろ派のズッキー。たまーにキャミソールとかでガードしてたりする女子、いるだろ? そういうのは、どうよ?」
「もちろん、それはナイスセーブだとも。貞淑な気がして素晴らしいな。……ナイスセーブ!」
「ナイスセーブ!」
そして、ふたりとも「ナイスセーブ!」と小さく叫んでガッツポーズを取るので、僕も慌てて習ってガッツポーズしておく。
話は僕が付いていけないくらいに飛躍を初めてしまったので、黙り込んで聞き手に徹する事にする。
他の女子たちも聞いているから、あまり変な事は言いたくないのだ。
そんな僕の考えを余所に、話は新しい局面を迎えようとしていた。
「それでだ、ここからが本題だぜ? 俺の、世紀の大発見だ」
東くんが人差し指を立てて言う。
これまでのやり取りですっかり乗り気になってしまった櫻井くんも、「聞こうか」と決め顔で東くんの猥談を待ち受ける。
再びこほんと咳払いした東くんは、悪魔のように表情を引き締めて吐き出す言葉に、僕はもらったコーヒー飲料を飲みながら耳を傾けた。
「お前たち、女子のパンツは好きか?」
僕はむせて、コーヒー飲料をちょっと吐き出してしまった。
両サイドのふたりはさほど心配そうにもせずに、咳き込む僕の背中をさすってくれる。
「大丈夫か」
「大丈夫かよ」
「大丈夫じゃないよ!? なに!? 何でそんなとこに話が飛んだの!?」
声を荒げる僕を、ふたりはどうどうといさめるように掌で制す。
「まあ聞けよ、クロ。すべての話はひとつに繋がるんだ」
自分の席からさらに身を乗り出した東くんは、「で、どうなん?」と返答を求めてくる。
「パンツだと? もちろん、大好物だとも!」
凛とした表情でそう告げた櫻井くんは、東くんと一緒に「で、お前は?」と視線で聞いてくる。
困りながらも好きだと答えると、ふたりはさっきと同じように教室の真ん中の方に視線を向けた。
まただ。そう思って僕も同じ場所を見る頃にはふたりとも視線を戻してしまうので、釈然としないものがお腹の辺りに溜まっていく気分だ。
「うむ、まあ、男子たる者、当然だよな。大いに結構、ってやつだぜ」
「能書きはいい。あの字、女子の透けブラとパンツとが、いったいどう関わってくるというんだ?」
焦れたように早口になった櫻井くんが、長々と語りだそうとする東くんの言葉を遮り、核心へ促そうとする。
東くんはこうして話し出すと長いから、いい判断だと思う。
下手すると、延々能書きだけ口にして、肝心な本題を忘れている事なんて日常茶飯事なのだ。
そうして急かされる東くんだけど、特に気分を損ねる事もなく、余裕の表情を持ってついに核心に迫る。
「この季節、俺たちは簡単に女子のパンツの色を知る事ができる、って話さ?」
人差し指を立ててもったいぶるようにそう告げる東くん。
クラス中の女子たちの非難の視線が僕らに突き刺さる。
櫻井くんは的になっていないので、正確には東くんひとり。余波は僕にも来ているけれど。
「――なるほど。それで、透けブラ、か」
顎に手を当てた櫻井くんが、納得したという風に頷いて見せる。
意味がわからない僕は、得意げな東くんと決め顔の櫻井くんとを交互に見る。
どういう事なのさと小声で聞けば、東くんは僕の肩を組んでこちらも小声でどういう事か説明してくれる。
「なあ、クロよ。女子の下着ってよ、上下ワンセットじゃん? だから、透けブラの色はな、イコールパンツの色って事なんだよ……!!」
「……ええ!?」
僕は思わず、クラス中を見渡してしまった。
返ってくるのは男子からの驚愕の視線と、女子からの非難の視線だ。
「サイテー」と小声で呟く声も少なくはない。
なんて話に付き合っていたんだろう、僕は。
顔に火が付いたように熱を持ってきて、じんわりと背中や掌に汗がにじんでくる。
俯いて視線から逃れようとする僕の背中を、東くんは軽快にぱしぱしと叩く。
「ふっふっふ。えろすの世界へようこそ、クロ」
「ようこそじゃないよ。女子の顔まともに見れなくなったじゃないか……!」
僕の非難の言葉を意に介さず得意げに笑っている東くんに軽い殺意がわいてきたところで、今まで沈思黙考していた櫻井くんが一声挙げた。
「しかしだ、あの字。キミの意見は正鵠を射ているようだが、確実とは言い難いぞ?」
櫻井くんはこんな話でも至極真面目そうな顔で反論を返してくる。
東くんは櫻井くんの事をむっつりだと言っていたけれど、結構がっつりさんに思えるんだ。
「へえ。どういう事だよ、ズッキー」
「簡単な話さ、あの字。そもそも、女子のブラとパンツとの色がイコールであるという前提が、間違っているという事だ」
僕、もう寝てもいいかな。
◇
教室は水を打ったように静まり返ってしまった。
当然だ。僕の知る限り、櫻井くんはこんな猥談を大声で言うような人じゃなかったはずだ。
もしかしたら東くんとふたりの時は、こんな風に楽しげに猥談していたのかもしれない。
では、なぜ教室で、しかもみんなのいる前でこんな話を?
たぶん、夏だからだ。
夏のせいにしよう……。
「俺の前提が間違っているだって? ズッキー」
東くんは得意げな表情を崩さずに櫻井くんを睥睨する。
自分の説に余程自信があるようだ。
「ふむ。では、根拠を示そう。その前に……、あの字、くの字。キミたちには姉か妹か、どちらかいるか?」
櫻井くんの問いに、僕も東くんも首を横に振る。
妹じゃなくて、遠い親戚の女の子なら同居しているけれど、それはたぶんノーカウントだよね。
「そうか。俺の示す根拠は、うちの妹さ」
メガネの位置を直しつつ櫻井くんは告げる。
嫌な予感がしてきた。
妹さんのそういった事情を、こんな馬鹿話のネタにしていいのだろうか。
櫻井くんの話を止めようとする僕を押しのけるようにして、東くんが身を乗り出してくる。
興味津々を軽く通り越して、目がぎらついていて怖い。
「その話、詳しく」
「ああ。うちの妹、家では結構だらしない有り様でな。下着姿で家の中をうろうろする事も少なくはないんだ」
淡々と語る櫻井くんに対して、東くんの鼻息は荒い。
あと、僕にのし掛かってまで身を乗り出すのはやめてほしい。
なんなら席代わるよ。
「俺もその都度注意して正座させて説教するんだが、3日もすればきれいに忘れてしまってな。まあ、そんなところで妹の下着姿なぞ見慣れてしまったのだが……。うちの妹はなんと、3回に1回の割合で上下の色が合っていなかったんだ」
ため息交じりに告げる櫻井くんは、メガネをはずして拭きはじめる。
眉間を押さえて頭痛をこらえるような様子を見るに、件の妹さんに相当手を焼いているのだろう。
対して東くんはというと、ようやく乗り出していた体を席に戻して一息といった心地だ。
聞いた話があまりにも生々しかったのか、ショックを受けたように口元を押さえて考え込んでいる。
女子に関するファンタジーをひとつブレイクして大人になった、そんな顔をしていた。
この微妙な空気、どうするのさ……。
困り果てた僕は救いを求めて教室中に視線を巡らせるけれど、ほとんどみんな目をそらしてしまう。
目が合ったのは教室の真ん中の席に着いてる勾坂さんただひとりだけで、それもすぐに真っ赤な顔で顔を背けられてしまった。
一連の話を勾坂さんも聞いていただろうし、もしかしなくても嫌われちゃったかな……。
でも、これで馬鹿話が終わりなら、僕はもう何事もなかったかのように眠ってしまっても、いいよね。
そんな名案を思い付いた、その時だ。
不意に、櫻井くんの席隣の窓が開く音が聞こえてきて、何か硬いもので人の頭を打ち据えたような鈍い音が響き渡ったのだ。
僕と東くんとが音の方を見れば、櫻井くんが頭を押さえて自分の席に突っ伏したところだった。
何者かが窓を開けて、鈍器のようなもので櫻井くんの頭を殴打したのだ。
僕らが見た時には窓は閉まった後で、犯人の姿を見た者はいない。
教室のみんな方に問いかけるような視線を向けても、「見てない」と、首を横にふる答えがちらほら返るだけだ。
けれど、僕も東くんも犯人の正体に心当たりが有りすぎて、互いに顔を見合わせて頷き合ってしまった。
犯人の正体、櫻井くんの妹さんだよ。
ただ、どうやってこの馬鹿話を聞き付けたのか、そして3階の高さにあるこの教室にどうやって上り詰めたのか。謎は深まるばかりだ。
「……すまない、見苦しいところを見せたな」
そのまま机に突っ伏していれば良かったのに、櫻井くんは果敢にも復帰を果たした。
鈍器らしきもので殴打された部分をさすりながら、メガネの位置を直して会話に復帰する。
「櫻井くん、その……。大丈夫、なの?」
「心配はいらないぞ、くの字。陸上競技用のスパイクで殴られなかっただけマシだ。あれは痛いからな……」
妹に陸上競技用のスパイクで殴られた事があるんだ、櫻井くん。
「さて。さっきはああ言ったが、俺が本当に言いたかったのは、そういう事もあるという可能性だ」
気まずそうに咳払いして、櫻井くんはそう告げる。
可能性の問題。つまり、下着の上下の色が合っていないかもしれないし、そうじゃないかもしれないって事。
結局スカートの中身なんてわからないって言いたいのだ。
「あの字。キミの論に穴はあるが、概ね正しいだろう。しかし、これでは『想像の幅が広がる』以上の事は言えてないぞ」
「論に深みがないって事かよ?」
櫻井くんの諭すような言葉に、悔しそうに口元を歪める東くん。
くだらない話を真面目に議論し始めて、僕にはもう何がなんだか。
できればこのまま話が空中分解して消え失せてほしいのだけれど、このふたりの今までの様子を見るに、さらにひどい事になりそうな気がしてきた。
「論に身を持たせるには、検証するしかないな」
メガネの位置を直して櫻井くんが言う。
朝9時台の陽光が彼のメガネに反射して、どことなく怪しさを増したような気がしてくる。
「検証? どういう事だ、櫻井」
「実際に確かめてみるという事だよ、あの字。女子の下着、その上下の色が合っているかどうかを、確かめるんだ」
うん、話がとてもまずい方向に流れ出した。
心なしか教室中ざわざわと落ち着きがない雰囲気に包まれてきている気がする。
このふたり、何かやらかす気ではあるまいな、って。
実際、東くんは恋多き人でよく女の子とトラブルになっているけれど、櫻井くんはそういった話はほとんど聞かない。
だからと言って、彼なら大丈夫だという根拠ない確信は、今までの話を聞いてすでに崩れ去っている。
今のふたりなら、なにかまずい事を仕出かすかもしれないのだ。
僕が、やめた方がいいよと言うより早く、ふやたりは勢いよく席から立ち上がって虚空を睨みつけた。
今から戦いに臨む戦士のようなかっこいい表情をされても、考えている事がただの猥談の延長だから台無しだ。
「……けどよ、櫻井。こうしてやる気満々で立ち上がっちまったが、具体的には何をどうするんだ?」
「そうだな。統計を取るためには、調査対象は多い方がいい。しかしだ」
櫻井くんが教室の女子たちに視線を向けると、みんなびくりと肩を震わせて後ずさった。
今回の件で、櫻井くんは完全に変態認定されたと思うよ。
見てよ。女子たちの、あの幻滅した表情や、汚いものを見る目。
でも、怯えたりドン引きしてる中にも顔を紅潮させてハアハア言ってる子もいるくらいだから、櫻井くん侮りがたしだよね。
「しかし、なんだよ?」
「うむ。至極当然の事だが、そう易々と自分の下着を見せてくれるような女子は、いないだろう。普通」
ふたりは、戦いに挑む直前のようなかっこいい表情で虚空を睨みながら、音もなく静かに着席して、元の馬鹿話をする体勢に戻った。
危機は去ったのだろうか。
着席したふたりは腕組みをしたり口元に手を当てたりして、眉間にしわを寄せて黙考している。
全然終わっていない。このふたりはまだ馬鹿な考えを実行に移せないものかと知恵を絞っている最中なのだ。
「……もうやめようよ、ふたりとも」
声を掛けづらいけれど、級友ふたりがこのまま停学処分に進まんとしているのを、ただ見ているわけにはいかない。
僕にだって、悪の道へ進まんとしている友を救おうとする義侠心くらいはあるのだ。
……義侠心は言い過ぎたよ、義理でいいや。
思考の海から浮上したふたりが、きょとんと、僕を見つめる。
「想像の幅が広がる、だけでもいいんじゃないかな。無理に真実を追わなくても、夢は夢のままでも、いいんじゃないかな」
たいして考えもせずに告げた言葉だったけれど、よくわからないスイッチが入ったままのふたりには、ちょうど程良く染み渡ったみたいだ。
偉大な先人の残した言葉に感銘を受けたように驚いて、幾度か頷いて、何度も自分の中でその言葉を反芻しているようだった。
「……確かに。確かにそうだよ、くの字。夢は夢のままでいい。わざわざ確認するような行為は、ひどく無粋だ」
「ああ。粋じゃねえよな、そういうの。見える範囲でいい、想像するだけでいいんだよ」
なにかを吹っ切った清々しい顔つきになるふたりを見て、ようやく危機は去ったんだと実感がわいてくる。
教室のみんなも、ふたりの鎮静化にほっと胸を撫で下ろす心地だったろう。特に女子が。
これで僕も心置きなく眠れるよ。
気が付くと、もう一限目も半分過ぎてしまっている。
せっかく一限目フルタイムで眠れると思っていたのに、そう思うと残念でならない。
休み時間も含めると、これからあとどのくらい眠っていられるだろうと考えていると、教室の後ろの扉が大きな音を立てて開いた。
何気なく、入ってきた人物を視界の端に捉えた瞬間、僕の心臓が早鐘を打ち始めた。
「おっはろー。……え? なになに? どしたのみんな、この微妙な雰囲気はさ?」
若干無気力な挨拶とともに教室に入ってきた人物に、教室中の視線が注がれる。
一限目も半ばを過ぎようというこの時間に登校してきたのは、クラスいちのグラマラスボディの持ち主と名高い蘭堂さんだ。
ゆるくウェーブのかかった茶髪を両サイドで括った髪型、顔には薄化粧、胸元を大きく開けたワイシャツと丈の短いスカート、腕や胸元にはアクセサリー類と、校則的には概ねアウトな彼女だ。
気さくで取っ付きやすい性格なので、男子女子ともに友達が多い。
内心だから正直に言うけれど、僕は彼女の事が苦手だ。
蘭堂さんの席は、いま東くんが我が物顔で座っている僕の真後ろの席だ。
僕の後ろの席なのをいい事に、休み時間に全力で居眠りする僕に全力で悪戯してくるのだ。
それで、シャープペンでつついて来たり、ヘッドホンを外して耳に息を吹きかけられたり、髪を三つ編みにされたり、写メ取られたり……。
他にも、目を覚ますと周りがくすくす笑っていたり、なぜか羨ましがられたりしているので、僕の認識している範囲外でも結構悪戯されているのかもしれない。足の裏に落書きされたりとか。
これでは僕の安眠は保障されないではないか、なんて落胆したのも一瞬の事で、たった今鎮静化したばかりの最悪の展開が思い出されて、ぞくりと冷や汗が滲んでくる。
僕の両隣、すっくと音もなく、東くんと櫻井くんは立ち上がっていたのだ。
「なあ、ズッキー。蘭姉ちゃんなら、もしかしたら……」
「そうだな、あの字。彼女なら、あるいは……」
決意というか、確信に満ちたふたりの表情は、僕の予想通りのものだった。
「じゃあ、ズッキー?」
「ああ、交渉開始だ」
たった今断念した検証とやらを、蘭堂さんに頼みに行こうとしているのだ。
僕はふたりを止めるのを放棄して、机に設置したクッションに顔を沈めた。
今のうちに眠ってしまうのも手だと、そう思ったのだ。
◇
……しかし、僕はそのまま眠ってしまう事が出来なかった。
級友の行く末が心配だった、というよりは、東くんのコーヒー飲料のせいで微妙に目が冴えてしまったというのが大きい。
クッションに頭を埋めつつ、横向きになった視界で事の成り行きを見守る。
蘭堂さんはきょとんとした顔で、ふたりの説明を頷きながら聞いていた。
やがて、説明を終えたふたりが腰を折るお辞儀をして嘆願すると、蘭堂さんは幾度かうんうんと頷いて、にっこりと笑みを見せた。
これは脈ありかと顔を上げて表情を輝かせたふたりだったが、次の瞬間、蘭堂さんが放った膝蹴りを股間に受けて、くぐもった悲鳴を上げて前のめりに倒れ伏した。
クラス中の男子が顔を青くして前傾姿勢になる中、蘭堂さんは涼しい顔で悠々と自分の席、僕の後ろの席へと歩いてくる。
ああ、これは寝たふりに限るよ。
そう思って顔を背けようとする頃には、僕の目はきっちりと、僕を見てにんまりと笑む藤さんの表情を捉えていた。
逃げられない。目を逸らしたら、やられる。
全身からぶわりと冷や汗が噴き出る中、蘭堂さんはゆっくりと歩み寄って来る。
そして、僕の席の前で立ち止まった。
思わず蘭堂さんの顔を見上げてしまうと、にんまりとした笑みの彼女としっかり目が合ってしまう。
これは絶対何かを企んでいる顔だ。絶対ろくでもない事だ。
「クロっちぃ、見ーたいぃ?」
何が、とは聞けなかった。怖すぎるよ。
目を逸らそうとしてもできない。
目を逸らした瞬間、なんか、やられる気がする。
……さっきもおんなじ事言った気がするけど、それくらいやばいんだ。
ヘビに睨まれたカエルのように微動だにできない僕を満足そうに見つめる蘭堂さんは、なんと自分のスカートの前をたくし上げて見せたのだ。
クラス中が呆然として息を詰め見守る中、蘭堂さんはにんまりと笑んでいる。
「ふふふ、なーんつってな。クロっちはやっぱり反応が面白いなあ。……あれ? クロっち?」
僕の様子に気付いた蘭堂さんはきょとんと表情を変える。
それはそうだろう。
その時僕は、すでに気を失ってしまっていたのだから……。
◇
くの字が失神した事は、少し距離があったがしっかりと確認する事が出来た。
視点があの有様では物語が進まない。
ここは急遽、俺こと櫻井が話の顛末を見届け、語るとしよう。
まだ股間に受けた攻撃がしびれとして残っているが、立ち上がれないほどではない。
あらかじめ来るとわかりきっていれば、ダメージを軽減するのは容易い。
未だに股間をおさえて悶絶しているあの字を捨て置き、蘭堂さんのところに向かう。
すると、彼女の表情が変化している事に気付いた。
彼女の言葉形容するなら「やべえ、やっちまった」といったところだろうか。
傍目から見てもいつも楽しそうにくの字をからかっている蘭堂さんだ。
くの字が気絶してしまったくらいで動じる彼女ではないはずなのだが……。
「蘭堂さん、くの字はなぜ気を失ってしまったんだい? まさか、それほど過激なものを履いていたとでも?」
「え? いやあ、そういうわけじゃ、ないんだけどねー……」
俺の失礼な問いに、藤さんはうーんと曖昧な反応をする。
僭越ながら、見たところ蘭堂さんの付けているブラは透けているようには見えない。
おそらく透過対策にベージュ色のものを着用しているのだろう。
あの字こと東理論で言うのならば「下もベージュ色」という事になる。
なるほど。俺は合点がいってメガネの位置を直した。
くの字は蘭堂さんが見せたパンツの色がベージュ色だったため、“何も履いていない”と錯覚してしまったのだろう。
あの字が進めてくる水着グラビアでさえ顔を真っ赤にしてしまうくの字の事だ、目の前の現実を受け入れる事が出来ず、意識を手放してしまったのだろう。
うぶなものだなと、俺が勝手に結論付けてしまった後で、蘭堂さんがぼそりと呟いた言葉は、あまりにも衝撃的過ぎた。
「やっべえ、履き忘れてた……」
予想外の言葉を、俺はしばらくの間、理解する事が出来なかった。
そうして俺が思考と動作とを凍結させている間に、くの字のところに駆け寄ってきた勾坂さん(目の下にクマがある美少女だ)が彼を抱えて保健室に連れて行こうとして、蘭堂さんが申し訳なさそうな顔でそれを手伝って……。
3人が教室を後にするまで、俺は自分の制御を取り戻す事が出来なかった。
その直後、俺は鼻から流血して気絶して、くの字の後を追う形で保健室に運ばれる事になったらしい。
保健室のベッドで意識を取り戻した時、羨ましげな視線と文句とをぶつけてくるあの字と、頭まで布団を被り悶々としているくの字とを見て、ふと、夏だな、などと考えてしまった。