絵空事~姉妹のアトリエ~
姉妹愛というテーマを初めて書いてみました。
私の掌編第25作目です。
アルミ製の引き戸を開くと、油絵の具と微かな炭の匂いがした。
締め切られた窓。人の気配はなく、部屋の隅には幾つもの木製のイーゼルが無造作に置かれている。
私は乱れた息を整え、妹の彩矢を連れて美術室に足を踏み入れた。
何とか校門が閉まる前に辿り着くことができた。
ただでさえ運動音痴な私にとって、学校までの距離を走るのは少々辛かったけれど。
すでに日は西の空に傾き、緋色の光が部屋全体を染め上げていた。
昼と夜の境界。
別の世界がこちら側に溶け込んでくるかのような、幻想的な時間。
その光景に魅入られたかのように彩矢はただただ黙りこくる。彼女の横顔を見て、私は思わず溜め息を漏らしてしまう。それは陶磁のように白く、儚げで。夕日を吸い込んだその瞳も、この世のものとは思えないほどに綺麗だった。
「こんな時間になっちゃって……ごめんね」
「いいんだよ。それよりもお姉ちゃん、今日はよろしくね」
同じトーンに少し明るさを加えた声で、彩矢は返してくれる。
でも、これは私のわがまま。
今まで美術部として色んな絵を描いてきたけれど、どうしても今日、彩矢にモデルになってもらいたくて、無理やりな形でここまで付き合わせてしまった。
それに、彼女の顔色はいつもと少し違って見える。ぼんやりと前を向くその顔も、少しずつ緊張しているようだった。
「すぐ終わるから。硬くならないで……」
少しでも彼女の強張りが癒えるようにと、私は彩矢の頬をそっと撫でた。
彩矢に定位置についてもらう。キャンバスの左側からすぐ彼女の顔が見えるようにイーゼルを合わせる。私はそのまま椅子に腰掛け、背筋を意識的に真っ直ぐ伸ばし、鉛筆を目の高さに構えた。
それからしばらく、キャンバスの白地に鉛筆の先を走らせる時間が続く。簡単に形をとり、時に弱く、時に殴るように強く、輪郭に陰影をつける。
筆を進めるごとに、急ぎ足だった私の鼓動も少しずつ落ち着く。それと同時に、絵を――こうして彩矢をモデルに絵を描ける喜びで、私の胸は満たされていった。
彩矢も私も一言も発さず、それぞれの役割に身を委ねる。
手を動かしながらも、時おり彩矢の方へと視線をやる。
少し首を傾げながら虚空を見つめる彩矢を意識するたび、胸の奥がぎゅっと締まった。
心臓がひとつ、トクンと歪なリズムを刻んだ。
いつも明るくて、優しい彩矢。
可愛らしくて、綺麗で……ドキドキする。
この感情は一体何なのか。
私はとうの昔に気づいていた。
私は彩矢に。
実の妹に、
恋をしている――
◇◇
――小さい頃から彩矢は私にべったりで、いわゆるお姉ちゃんっ子だった。
私のおさがりの洋服に着られて、うしろをトコトコとついてくる小さな天使。当時人見知りで友達のいなかった私は、よく彩矢とオママゴトやお人形遊びをして過ごした。
小学校での出来事やありもしない空想事。
人形を通じて、色んな話を彩矢に聞かせる。すると彩矢は大きな瞳をキラキラ輝かせて、別の人形で相づちをうってくれる。このやりとりが楽しくて、私たちは毎日のように人形伝いのお話をした。
そんな風に彩矢と二人で過ごす時間は、私にとって至福そのものだった。
月日が流れ、季節が何度もその表情を変え、彩矢も少女から大人に成長していく。可憐な顔にも色が差し、身体の凹凸も女性らしくなっていく。ちょうどこの頃から、私は彩矢に惹かれはじめたのかもしれない。
私の名を呼ぶ時、ちょんと小首を傾げる癖も。
短く切り揃えられた髪を撫でる時、首の右側から小さなホクロが覗く瞬間も。
彩矢の仕草の全てが、私の心を揺さぶり乱していた。
高校に入り、美術部に入り、外部を遮断するように美術室に入り浸りだった私。そんな私とはまるで正反対に、彩矢は頻繁に友達と遊ぶようになっていた。
明るくてよく気もついて……。そんな彼女がすぐ周囲の人気者になるのは、今思えばごく自然な事だった。
そんなある日。
私は、最大の不安を突きつけられる。
「お姉ちゃん。あたし、彼氏……できたんだ」
伏し目で、照れくさそうに首を傾げて、そう告げられた。
私は目の前が真っ白になった。
彼女はすぐ目の前にいるのに、どこか遠くに行ってしまったかのような感覚がした。
「お姉ちゃんに一番に伝えたくて……へへ」
今までに見た事もない表情で、彩矢は笑う。
その日から、私を慕ってくれていた愛しい妹は、私すら知らない表情を……女の顔をするようになった。
いつも一緒にいた愛しい妹。
私の、私だけの、大事な彩矢。
自分でない他の誰かを想いながら笑う顔なんて見たくない。
――彩矢は他の誰にも渡したくない。
◆◆
だから今日、ここに来た。彩矢を私だけのものにするために。
お姉ちゃんと慕ってくれる彩矢の、その優しい表情を絵に写し、自分の側に置いておくために――
コテリ、と音がする。
キャンバスからその音源へと視線を移すと、彩矢が台の上に片頬を押し当ててこちらを見つめていた。
「……彩矢? どうかしたの?」
どこか悲しげな眼差しに吸い寄せられるように、私は彩矢の方へと歩み寄る。
そして、その夕日に照らされた頬に触れた。
あの艶やかで柔らかな温もりはすでになく、代わりに私の掌が伝えてくるのは、冷たくて硬い感触。
「ああ、彩矢……。もうこんなになったのね……」
時間が経ち過ぎたのか。できるだけ早くとここまで急いできたのに。
せめて表情だけでも描き終えられるようにと、彼女の身体を家に残してまで。
「ごめんね、彩矢。お姉ちゃん、もっと早く描かないといけなかったね……」
「ううん、いいのよ。お姉ちゃん」
同じトーン。少し明るさを加えた声で彩矢は返してくれる。
動かない自分の口の代わりに。
私の口を通して。
まるであの日のお人形遊びのようだと、私は思わず笑みを零した。
「それより、お姉ちゃん。あたし、寒くなってきたよ。温めてほしい……」
「うん、そうだね」
絵を完成させるのは、もう少し後で。
今は彩矢を温めてあげよう。
彼女の強張りが少しでも癒えるように。
「彩矢……。あなたはずっと、私だけの彩矢だよ」
「うん、ずっと一緒にいようね」
足早に光を失っていく美術室の真ん中で、私は冷え切った彩矢の頭を優しく抱きしめた。
ただし非常に歪んだ愛情でした!
あくまでフィクションですが、不快に思われた方いれば申し訳ありません。