誰かの夢
それから色んな話をした。神社に来る虫の種類とか、近所の子供と一緒になって遊んだ思い出とか、学校のことや家族のこと、お昼近くになったらヒカルに連れられて近所の駄菓子屋さんに行ってお菓子とカップラーメンを買って、二人で並んでお腹一杯になるまで食べた。
初めての経験ばかりだった。くたくたになるまで走り回ったのも、汚れを気にせずに草の上に寝転んだのも、何種類ものお菓子を一度に食べたのも、疲れるくらい笑ったのも、全部初めてだった。
「もう夕方だね」
「そうだね」
「帰んなきゃ」
楽しい時間はあっという間に終わる。
「でも、帰りたくないよ」
ヒカルは笑いながら私の頭をくしゃくしゃに撫でた。
「じゃあ、また明日ってことで。ね?」
「うん」
また明日。その言葉に期待しながら私はヒカルの背中に手を振った。
見えなくなるまで、ずっと。
一人きりの帰り道は案外寂しくないもので、それはきっと今日一日遊んだ余韻が残っているからだと思った。
誰ともすれ違わない帰り道。夕焼け色の世界は少しだけ好きになれるかもしれない。ちょっぴりロマンチックな空気を吸い込んだ。
でも、我が家が目に入ると足が止まった。
「学校……サボっちゃった」
お母さんに怒られちゃう。どうしよう。突然引き戻された現実が私のお腹を目一杯握りしめる。
解決策なんて思いつかない。何も無い振りしたってどうせバレてる。うちの玄関は目と鼻の先なのに、次の一歩が踏み出せなかった。
その時、バタンと大きな音を立ててドアが閉じた。
「あ、ヤコ。おかえりー」
「ナギお姉ちゃん」
お姉ちゃんは真っ直ぐに私に向かってきた。
「ヤコ、あんた学校サボったってホント?」
「えっと……」言葉が詰まった。何て言っても怒られちゃうに決まってるよ。
「良いよ」
「えっ?」
「ヤコも大人に近付いてるってことよ。お母さんには私が何とでも言ってあげる。だから、ほら帰っておいで」
お姉ちゃんは優しく微笑んで私の肩にそっと手を添えてくれた。
「今お母さんは買い物に行ってるから家には居ないし、帰るなら今のうちだよ」
「お母さん、怒ってなかった?」
「うん? 怒るってよりは心配してたよ。『ヤコが誘拐されたー!』って、もうてんやわんやで大変だったよ」まるで他人事みたいにお姉ちゃんが笑う。「でも、ちゃんと帰ってきたんだからもう心配要らないね」
「……ごめんなさい」
「偉い偉い」そう言ってお姉ちゃんは私の頭を撫でた。「じゃあ、あとでお母さんにもちゃんと言うんだよ?」
「うん」
お姉ちゃんは凄い。お仕事も出来るし美人だし御洒落だし恋人だっているし、こんなダメダメな妹にも優しく接してくれる。
凄く憧れる。だけど、凄く遠い存在に思える。実の姉妹なのに、私もあと六年したらこうなれるのかな。
「はい、それじゃしばらくは部屋に居てね。お母さんが帰ってきて話が終わったら呼びに行くからね」
「うん」
促されるままに部屋に戻った。扉を開けるといつもと同じ部屋。でも今日は少し違って見えて、とっても広く見える。
「今度模様替えでもしようかな」
汚れた服から着替えてベッドに腰掛ける。今日の疲れが一気にやってきたようで、もう立ち上がるのすら億劫だった。
「服は、あとで持っていけばいいや……」
倒れるようにベッドに横になった。急激な眠気に逆らえないまま、私は眠りに落ちた。
深く深い暗闇の中に、ゆっくりと落ちていった。
夢の中の世界はとても不思議。目が覚めるといつもすぐに忘れちゃう。何かをしていた記憶はあるのに、そこにあった記憶はほとんど現実へは持ち越せない。
空を飛んだって、モテモテになったって、魔法が使えたって、お嬢様になったって、現実には何も持ち越せない。
時たま思うんだ。「このままずっと眠っていたい。ずっと夢の中の私でいたい」って。
そしたらきっと自分のことを今よりは好きになれるから。
でも、それは現実とは違い過ぎる妄想のお話。理想とすらも呼べないほどに御粗末な空想。それでも、私は夢を見る。少しずつ息が深くスローに変われば、心はもう夢の中に飛び込んでいるんだ。
「――私はライオット。せっかくだからあなたを選んであげるわ」
開いた目蓋の正面。それは私の顔を覗き込んでいた。
「うわぁっ!」
驚いて声が出た。それは存在するはずの無い生き物。もう忘れかけていた不思議な「ライオット」。
「あ、あなた一体なんなの?」
「だから、『ライオット』だよ」
「ら、ライオットって何ですか?」
私、会話してる。生き物なのかも良く解っていないそれと。
「うーん。難しい質問だなぁ」
「そうなんですか?」
「あなただって『人間って何ですか?』って言われたら答えづらいでしょ?」
「確かに……」妙に納得してしまった。
ライオットはまるで滑るように宙を移動して私の肩に乗っかった。
「大丈夫。噛んだりしないよ」
慌てふためく私を諭すようにライオットは優しい口調で語りかける。そこで初めて気が付いた。
「ナギお姉ちゃんの声……」
ライオットの声はお姉ちゃんの声とそっくり。多分誰が聞いても間違えるくらいにそっくりだった。
それが私に一つの結論を導いた。
「そっかぁ、夢なんだこれ。だよね、だよね」
腕を組んで自分に言い聞かせる。現実ではこんなこと有り得ない。だけど夢の中なら納得できる。
「不思議な夢だなぁ」
夢だと思うと急にライオットが可愛らしく見える。何だか本当に小動物のペットみたい。
「私、小学生の頃は猫が欲しかったんだ」
「ふうん。でも私は猫じゃないけど、って聞いてないね」
ライオットの喉を指で撫でるとまるで猫みたいに私の指に頬ずりをした。
「ライちゃんは可愛いなー」
「ライちゃん?」
「うん、今名付けたの」
「ライちゃんか。良いね、格好良くて」
「えー? 格好良くないよ。可愛いんだよ!」
「ま、まあ……どっちでも良いよ、この際」
ライちゃんの存在にばかり気を取られていたけれど、落ち着いてみるとここは私の住んでるマンションの玄関ホールの前。辺りは真っ暗なのに、どうしてこんな所にいるのだろう。
「でも、どうして飛び降りなんてしたの?」
ライちゃんの一言に全てが止まる。ぞわぞわと鳥肌が立った。そうだ。私は屋上から飛び降りて、そしたら急にゆっくりになって、目の前にライちゃんが居たんだ。
「これは夢、だよね? そうだよ。夢を見てるだけ、なんだよ」
汗が溢れ出した。地面に膝を突いて両手で顔を覆い隠す。力が入っていて立った爪が少し痛いけど、どうにも出来ない。
息が荒くなって肩が何度も上下する。落ち着かなきゃ、夢なんだよ。夢だから、でも、どっちが夢なの。
もしかしてヒカルと過ごした一日が全部夢で、私は本当は……
「違うよ! 違う! 絶対違うんだ……」
「そうだよ」
「え……」
「これは夢だよ。でも、どこから夢なのかは私には解らない。だけど、私は夢の中にしか居られないの。だから、これは夢だよ。私があなたのお姉ちゃんの声なのは、きっとあなたが一番好きな声だからだよ」
「夢……」
その言葉に凄く救われた。ヒカルは現実に居るんだ。その安心感から涙が一つ頬を流れる。
そしてもう一つ聞き覚えのある声が聴こえた。
「そしてこの夢を終わらせるための少女を探している存在。それが『ライオット』」
「ヒカルちゃん!」
ヒカルはそっと私の頭に手を置いた。
「ヒカルちゃん、それって」
「ああ、これ? あたしにもライオットが居るんだよ。こいつはヤコのと同じ白のライオットだね」
「『白のライオット』?」
「ライオットにはそれぞれの色があるんだ。その声は主にしか聴こえないけれどね。でも、同じ色のライオットが居るなんて知らなかったな」
ヒカルは慣れた手付きでライちゃんを撫でる。
「この人はずっとこの夢の中にいるみたいだね」
ライちゃんの言葉をそのままヒカルに伝えた。
「もう四ヶ月になるよ。夜になるとここに来るンだ。あたし達が普段過ごしている世界とそっくりだけど全く違う夢の世界に。ここには朝が来ない。夢を見ている限りずっと真っ暗な夜が続いてる。例え現実の昼間に眠ったってここに来たら夜なンだ。全くもう時間感覚が狂っちゃうよ」
ヒカルは笑っていたけど、もうこの夢を四ヶ月も見続けている。確かにそう言った。
同じ夢が四ヶ月も続くなんて。そんなことがあるなんて。
「この夢は誰かの見ている夢なンだ。あたしやヤコじゃない誰かの夢。ライオットはその人が夢の中で生み出した生き物で、その人の夢を終わらせることが出来る人を探して夢の中へ連れて来るンだ」
私の肩の上でライちゃんが頷く。
ここは誰かの夢。そしてライオットはその夢を終えるためにいて、私達はライオットから選ばれた。終わらない夢を終わらせるために。