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#05

数日後、携帯電話が鳴った。

登録していない、私の知らない携帯電話からの着信だった。


誰だろうと訝りながら電話に出ると女の声だった。

見知らぬ女の声。

女は「桜井」と名乗った。


失礼ですがどこかで、と私が訊ねると、女は「杉山さんと接触事故で」と言った。私は思わず「あの時の」と言うと女は一瞬、間を置いてから「実は折り入ってご相談したい事があるんです」と言った。

困ります、そう即答した私に女は消え入りそうな声で、お願いします、お時間は取らせませんから、と言った。私は何度も、困ります、と断ったが、女は何度も何度も、お願いします、と半分うわ言の様に繰り返した。


女は予想以上に食い下がり、同じやり取りを何度も何度も繰り返し、結局私は根負けした。

会って話を聞くだけですからね、と私が自分自身への言い訳のように言うと、女は何度も礼を言い、待ち合わせの場所と時間を私に告げた。

女が指定したのは、あのローゼスだった。


数日ぶりにあの扉を開けると、店内には数日前と同じ様に若い女のマスターが一人いて、いらっしゃいませ、と私に笑顔で声をかけた。

店内にはカウンターに一人、客がいた。私は数日前と同じ奥のテーブル席に腰を降ろすと、マスターはお冷とおしぼりをテーブルに置きながら「いつもどうも」と言った。

まだ二回目なのに、いつもどうも、とは、何だか気恥ずかしい気もしたが、常連の様に扱ってもらうのは、客としては悪い気はしない。

店内に流れていたのは小気味良いドラムのビートに乗ったエッジの効いた、カッティングギターサウンド。そういえば、この前来た時もこのバンドだったな、そう思っていると、扉が、からん、と鳴った。



昨日電話で話したのは、消え入りそうな声で懇願する、事故の現場で見た最初の印象同様の弱々しい女だった。だが、今、テーブルを挟んで向かい合う桜井は、身じろぎもせずに、ただ私の目をじっと見つめている。

あの日事故の現場でちらっと見た時の弱々しい印象とは随分と違う。

もしかしたら昨日の電話の声は演技だったのかもしれないと私は思い始めていた。だがその反面、今にも切れそうな糸が辛うじて桜井を支えている。そんな風にも見えた。

ぴん、と張り詰めた細い糸。


私は、とりあえず話の主導権を握るため先に口を開いた。


「ご相談、というのは」

私の問いに対して、桜井は一瞬だけ目を伏せると、少し潤んだ瞳で顔を上げた。


「証人にはならない、と杉山さんに言ってもらえませんか」


嫌な予感はしていた。知らず知らず面倒に巻き込まれる。いくら避けようとしても結局この通りだ。

冗談じゃない、なんでそんな事を、そう言おうとした矢先、桜井は私にこう言った。


「実は、この前の事故以来、杉山さんに脅されているんです」


私は思わず耳を疑った。

杉山さんが?

あなたを?

私の問いに対して、桜井は静かに頷いた。


「何故、杉山さんがあなたを脅す必要があるのですか?」

私は当然といえば当然の質問を桜井にぶつけてみた。


「実は、私あの時、免許停止だったんです。だから、交通事故を起こしたのがバレると大変な事になると思って」


「免停だったんですか」


「はい、それで、警察には届けないで欲しいと、私、杉山さんにお願いしました。最初は杉山さんもそれでは自分も困る、と言ってたんですが、何度もお願いしている内に、交換条件だったら良い、と言ってきて」


「交換条件・・」

私には、どういった交換条件だったのか、想像がついた。

杉山という男の第一印象から、その内容が頭に浮んだ。

そしてその想像は間違ってはいなかった。


杉山は警察に届けないで欲しいと懇願した桜井にこう言ったのだ。

「私の言う事を何でも聞いてくれるなら、私もあなたの言う事を聞きますよ」


何でも言う事を聞く。杉山はその日の内に桜井をホテルに連れて行き、従順な奴隷としての誓約をさせた。

何でも、という言葉は、杉山の嗜虐性のスイッチを入れ、それに桜井は従わざるを得なかった。

杉山は様々な行為を要求し、桜井はその全てを受け入れていった。


何でも好きにしていい女という究極の玩具を得た杉山の性欲は、たった二週間で極限までエスカレートしていった。

最終的にはスワッピングのパートナーとして交換パーティに連れて行くと言った。

桜井はさすがにそこまでは許して欲しいと懇願した。

だが、杉山はその要求を断った。

そこで桜井は遂に開き直った。


そもそも二週間も経った今、証拠も何も無い交通事故で私を脅すのは止めてほしい、と。


その時、どんな顔をして杉山が笑ったのか、想像するのも気分が悪い。要は、私の書いた書面がここで登場するわけだ。

「これが証拠だからネ」

撫で付けた髪を乱しながら杉山は桜井の身体を舐めまわし、こねくり、奥の奥まで蹂躙した。


最後は零れる涙を拭おうとせず、桜井は私の目を見ていた。零れ落ちた涙はひとつひとつテーブルの上を濡らしていった。


「お願いします。杉山さんに、証人にはならない、と言ってもらえませんか」


私は困惑していた。今更、証人にはならない、なんて言えるのだろうか。

第一、あの書面の効力はいくら私自身が否定しても、自書である限り、覆す事など出来ないのではないか。

私はなんという愚かな事をしたのか。

ようやく気が付いた。

あの日、キョウコ先生が私に聞いてみたら?と言った時だって、間違いなく、どちらかは嘘をついていたのだから。

いつもそうだった。

答えはいつもどこかにあったのに、巻き込まれた、と常に被害者の立ち位置で冷ややかな目で世界を見ていた。そんな私の安易な行動が一人の人間を追い詰めている。


外れてしまった箍を元に戻せるとすれば、関係者である私しかいない。

今更自分で書いたものを否定する事は難しいかもしれないが、まずは、杉山に会い、きちんとした形で決着をつけさせる。それがかかわってしまった私の責任だろう。


「わかりました。近日中に杉山さんに連絡を取って、話をします。恐喝はれっきとした犯罪行為です。これからの対処を含めて話をしてきます」


私の言葉に、桜井は人目もはばからず泣きだした。

張り詰め続けていた糸が、切れる直前でようやく緩んだ、そんなところだろうか。


堰を切った様に涙を流す桜井。

私は不思議な充足感で満たされていた。

ふと、気になってカウンターの方に視線を移すと、マスターは何事も無かったかの様にグラスを磨いていた。


桜井は何度も、ありがとうございました、と私に頭を下げ、夕暮れの商店街の街並みへと消えていった。

私が、駅前の駐車場から車を出した頃には、腕時計の針は七時をまわっていた。


ふと、車内に置きっぱなしにしていた携帯電話に目をやる。イルミネーションの黄色の点滅は着信を意味していた。

信号が赤に変わり、車列が停止したのを見計らって、私は手に取った携帯を開いた。

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