#04
指定された喫茶店は、駅前の商店街から一本裏手に入った場所にあった。
喫茶「ローゼス」。
入口に置かれたその看板には、店の名前そのままに、二本の紅い薔薇が描かれていた。
からん、という音を立てて扉を開けると、店の奥から、いらっしゃいませと意外にも若い女の声がした。
いかにも時代がかった、センス溢れる店の名前とその佇まいとは裏腹に、マスターとおぼしきその若い女がカウンターの中で微笑んだのを見て、私は思わず目を逸らしてしまった。
店の中は、入り口から向かって右側がカウンター席で、左側には4つ、テーブル席が並んでいた。店内にはカウンターに一人、テーブル席に一人、それぞれ客が居た。私は店内を見渡すと、杉山がまだ来ていない事を確認し、一番奥のテーブル席に腰をおろした。時計を見ると約束の時間まであと5分あった。
店内で流れている曲には聴き覚えがあった。邦楽のロックバンドが奏でるブルースは、黒を主体とした落ち着いた店内のイメージと相まって不思議な心地良さを生み出していた。
カウンター奥の棚にはぎっしりと、かなりの数のCDが収まっている様だった。
「いらっしゃいませ」
女がおしぼりとお冷をテーブルに置きながら声をかけた。先程カウンターにいた女が持ってきたという事は、一人でやっている店なのだろうか。マスター兼ウェイトレス。まぁこういう小さな店ではよくある事だ。
アイスコーヒー、私がそう言うと、軽く会釈をしてカウンターの向こう側に行った。まだ二十代ではないだろうか、私はこの一風変わった喫茶店とそのマスターである彼女に興味を惹かれた。どんな紆余曲折を経て、こんな場所でこんな店を。そして今に至っているのだろうか。
そんな事を考えながら、汗ばんだ顔を冷たいおしぼりで拭いている内に、扉が、からん、と音を立てた。充分汗を吸ったであろうハンカチと、端の破けた扇子を手にした杉山だった。
テーブルに運ばれてきたお冷を一気に飲み干した杉山は、まだ六月だというのに今年は随分と暑いですね、などと他愛も無い世間話を交わしてから、本題を切り出した。
「実はですね、お願いがありまして」
お願い、とは。ここまで来てわからないというのも、変な話だなと自分自身思いながら私は前回同様、わざと杉山に話の水を向けた。
「いや、最初にお願いしていたとおり、やっぱり事故の証人をお願いしたいんです」
やはりそうか。キョウコ先生は居なくても、結局私はこういう事態に巻き込まれる事になってしまうらしい。とぼけているのもわざとらしいので、私はいきなり核心をついた。
「何で今頃になって証人が必要なんですか?」
杉山から電話がかかってきた時点で、十中八九こういう話だと思ってはいたが、それにしても事故から二週間も経ってから、証人が必要になる、という事が果たしてあるのだろうか。
「実は、当初警察を間に入れた時のやり取りの中では、あの女、素直に自分の非を認めていたんですね。ところがここ最近になって、急に証言を変えてきたんですよ。やっぱり自分は信号無視はしていない。あなたの方こそ信号無視だったんじゃないの?とか言い出しまして。こっちとしては驚きを通り越してもう呆れる次第ですよ。恐らく、恐らくですよ、周りにいる誰かが入れ知恵したんじゃないかと、私は思っているんです」
入れ知恵。確かに世間にはこういった事をする人がいる。本人は良かれと思ってやっているのかもしれないが、結果としては話を更にややこしくするだけ、だというのに。
既にややこしくなり始めている。私は胸の奥底で色を濃くしつつある憂鬱な想いを、杉山にぶつけた。
「でも、実際、私には関係ない事なんですよね」
私の精一杯の抵抗に対して、杉山は扇子片手に笑いながらこう言った。
「目撃者ですから、無関係じゃないですよネ」
やはりというか、最後のネが無性に不愉快だった。
一筆書いてもらうだけですから、杉山はそう言い、あらかじめプリントしてきた紙とペンを差し出すと「事故当時の様子をわかる範囲で書いてありますので、相違なければ一番下に、日付と名前をお願いします」と言った。
渋々中身に目を通すと、事故のあった日時、場所から、事故に至るまでの流れが事細かく書かれていた。もし私の記憶と違う点があれば、ここが違うと指摘してサインはしない、そんな作戦も実はあったのだが、残念ながらというべきか、最初から最後まで私の見る限りでは、私自身の記憶と相違する点はひとつも無かった。
どうするか悩んだものの、ここに至っては腹を括ってサインするしかなかった。
私が証人になる事で、このややこしい事態にピリオドを打つ。これで良い。私は奥底で渦巻く嫌な予感には目を逸らしながら、鳴り響くサイレンに耳を塞ぎ、日付と名前を書いた。
杉山は嬉しそうに、助かりました、と言い、扇子をぱちんと閉じた。
「それでは、私はこれで。あ、ここのお支払いは私が」
杉山はそう言い軽く頭を下げると、そそくさと席を立った。
私は、残り半分になったアイスコーヒーを一気に飲み干した。
汗をかいたグラスから零れ落ちた水滴が、コルクのコースターにゆっくりと染み込んでいく。
溶けたグラスの氷が、からんと音を立てるのと、杉山が店を出るときに扉の上の鈴が、からん、と鳴ったのはほとんど同時だった。