#02
男に手を挙げられた私は、そのまま無視して通り過ぎる事もできずに、数メートル行ってからウィンカーを点け、路肩に停車した。
後ろのセダンとその後続車は次々と、男と女、そして停車した私の方をそれぞれ見ながら、走り去っていった。
後方の安全を確認してから車を降りると、男は私の方に近づいてきた。
「やぁ、申し訳ありません」
遠目に見ていた時のイメージよりも、声のトーンが高い。どこかのテレビショッピングに出てくる社長の様な感じの声だった。
「事故ですか」
私はわかりきった事を、とりあえず口にしてみる。
「そうなんですよ。信号無視でドン、ですよ。まったくなんて日だ」
男は興奮気味に言いながら、大袈裟に頭を抱えて見せた。
四十代後半もしくは五十代前半だろうか。卵の白身の様に、つるんと禿げ上がってしまったその頭頂部を覆い隠すようにして撫で付けられた細い髪の毛のそれぞれは、抱えた両手に絡みつき、乱れ、その本来の役目を果たせない状態に陥っていた。
時折流れる夏の朝の微風が、それらをゆらゆらと揺らしている。
そう、ゆらゆらと。
私は吹き出しそうになるのを堪える為、頭ではなく首から下へと視線を落とした。
白の半袖ポロシャツに紺色のツータックパンツ。ポロシャツは一番上のボタンまでとめていて、右側の襟だけが何故かピンと上を向いて反っていた。ツータックパンツの方はといえば、既にプレスの折り目は曖昧で、妙なテカリ具合が、その持ち主の頭部とダブってしまい、私はまた笑いを堪える羽目となった。
私はひとつ咳払いをしてから、わざと面倒臭そうな口ぶりで、警察には電話したんですか?と訊ねると、男は「これからです」と答えた。
そうですか、と私がぼんやりとした相槌を打つと、男は
「信号、青でしたよね」と訊いてきた。
青信号。それは間違い無い。
ぼんやりとはしながらも、信号が赤から青に変わった時の事を、私は覚えていた。
そうですね、信号はこちら側が青でしたね。私がそう言うと、男は勝ち誇った様な顔で、その真ん中にある二つの鼻穴を大きく拡げながら「そうですよね、こっちが青でしたよね」と言った。
「なのにあの女、こっちも青だった、とか言いやがって」男は、女の方を振り返ると毒づいた。
ふざけやがってあの女、男はぶつぶつと呟いていたが、やがて何かを思い出した様にして私に言った。
「もしかすると、事故の証言をお願いするかもしれないので、連絡先を教えていただけませんか」
やっぱり。
何と無くそんな気はしていたが予想通りの展開だった。
特にこちらから首を突っ込んだ訳でも無いのに、何故か面倒な事に巻き込まれる。
それでも何か理由をつけて断る事はできないだろうかと私は逡巡していたが、結局上手い理由も思い浮かばず、携帯電話の番号と名前を教える事になった。
男は「杉山」と名乗り、何事もなければ連絡しませんので、と付け足した。
私は面倒事に片足を突っ込んでしまったこの身の不幸を呪いながら、思い出したように軽自動車の女の方に視線を移した。
女は弱々しい表情で私の方を、じっと見ていた。