第2章 1.王の道
第2章 1.王の道
天文時計を見上げる。
年月日を示す文字盤と、12宮と四季の農作業を示す文字盤。
その横でカランカランカランと死神は鐘を鳴らす。
死神の上を12使徒がゆっくりと窓から顔を覗かせては消えていく。
最後の鐘の音の後に、鶏が鳴き10時を告げた。
上下2つの文字盤の針は、昨日と寸分狂わぬ位置を示す。
15世紀に造られたものとは思えぬほど、よくできている。世界に同じものが造られてしまうことが危惧されて、製作者は完成と同時に両目を潰されたらしい。おぞましい話だ。
***
姿を隠し、展望へと上がる。
今日も晴天だ。涼しかった風は徐々に温かくなってきた。
少し強い風が吹き、漆黒の髪と黒のテーラードジャケットをはためかせた。白地に薄い色の縦ストライプ柄のシャツと黒いパンツ姿だ。
黒い瞳が、長く柔らかなウェーブのかかったブラウンの髪の少女を捕らえる。変わらず、膝の上に置いた分厚い百科事典のような本に目を落としていた。
「ナタリア」
少女は顔を上げ、グリーンの瞳をこちらに向ける。白い肌、成長すればその可愛らしさは美しさに変わるに違いないと思える容姿だ。
「おはよう、セージ」
「おはよう」
「いこう」
無表情のまま、ぽつりとそう言って立ち上がり、本を椅子の上に置いて、膝まで隠すスカートを正す。
「待った、行こうってどこに?」
「はしの向こうがわ」
彼女の提案に少し驚く。
「ちょっと待った。ナタリアは僕が何をやっているか知っているんだろう。それに、橋の向こう側ということは、あの2人がいるって君が言っていたじゃないか。危険だよ」
「だいじょうぶ。ぜんぶ観えているから。あぶないところには行かない」
「それは……確かに、観えているナタリアにとっては危ないところが分かるかもしれないけれど、予想外の事態ってのは良くある。魔術師が相手だと特にだ」
「観えていないセージのほうがきけん」
黒とグリーンの瞳が交差する。心配されているのだろうか。
「心配してくれるのは、ありがたいけれど。僕にとっては君の方が心配だ」
「だめ。セージだけだとあっちにも行けない。だいじょうぶ。私をじょうずに使って、セージ」
「あっちに行けない……橋の向こうへ?」
質問には答えず、ナタリアはらせん階段へ向かう。
「いこう」
会って間もないが、この子は結構頑固な面があるように思う。
仕方がないく、後ろを着いて行くことにした。
俺一人ではあちら側に行けないというのはどういう意味なのだろうか。
やはり、別の魔術師に狙われるという意味だろう。
川のこちら側とあちら側は、完全にヴルタヴァ川で分断されている。もしも、敵対するものがあちら側にいるのなら、川を渡るための橋を厳重に守られているかもしれない。
1階へ着く頃にナタリアが振り向く。
「セージ、見えなくなるまほうをかけて。カウンターの人は私のみはり」
見張り。母親として子どもがどこかに行ってしまわないようにという意味なのか、本当の意味での見張りなのか。
ナタリアがこの街の全てを観る貴重な存在であるのなら、この子が所属する組織にとっても貴重な人材だ。そういう意味でも、彼女に見張りがつくことは当たり前なことだ。
「魔術を教えてもらっていないのか?」
「かごのまほうは知っているけれど、消えたりするのは知らない」
「そうか」
もしかすると、加護が働いているかもしれない。この子に悪魔の紋章は効果があるのだろうか。しかし、自分にかける分には問題ないかもしれない。
「ナタリア、指先に魔力を込めて、こう」
「うん」
ハエの王であるバエルの紋章を自分の手のひらに指でなぞる。ナタリアもそれを真似て、右指で左手に描いていく。描き終わると同時に、ナタリアの姿か消えていった。目に力を入れても、わずかに見える程度。
この子の魔力値は俺を遥かに超えているようだ。
左手を握られる。
「いこう」
手を引かれるままに、天文時計のある旧市庁舎を出た。すぐにナタリアが現れる。魔術を解いたようだ。
「もういいのかい?」
「うん。もう、だいじょうぶ。こっち」
ヴルタヴァ川とは逆の方向に引かれる。
「でも、そっちは」
「じゅんばんがあるの」
連れられるままに歩いていく。通りの両側には店がずっと連なっている。しばらく歩くと、旧市街の端にある昔、城壁の門として使われていたところまでたどり着く。門の両側の建物は白いのに対し、門は黒くくすんでおり、重厚な雰囲気を漂わせている。
「もどる」
「え?」
門をくぐり、回れ右してまた同じ道を辿り、天文時計まで戻る。
わけがわからない。
「こっち」
「ナタリア?」
今度は、土産物屋が連なる狭い道を進んでいく。
確か、こっちを進むとヴルタヴァ川にかけられた橋のひとつに出るはずだ。
通りを出ると、川に架かる約500メートルの石橋にたどり着く。ゴシック様式のプラハ最古の橋であり、ヨーロッパで2つ目に作られた石橋だ。橋の両側には、端から端まで等間隔に計30体の聖者の彫像が並んでいる。
橋の入り口である門をくぐる。
10メートルの幅の石橋には、多くの観光客がひしめき合っており、両脇には露店、似顔絵描き、演奏者、大道芸人が思い思いに商いをしている。
「んー……くるしい……」
そんな人混みに揉まれるナタリア。
「はは、大丈夫か」
手を引き、割りあい人の少ないところを縫って歩く。こうして、ナタリアと手を繋いで歩いていると、他人の目からは兄妹に見えるのかなと、ふと思う。
「そうでもないか」
「なに?」
「うん? いや。こうしていると周りからは兄妹に見えるのかなと思ってね」
「きょうだい? おにいちゃん?」
「はは、でもそんなことないね。髪の色も目の色も違うからね」
「うん、ぜんぜんちがう」
ほんの僅かだけれども、初めて、この子が笑ったような気がした。
橋を渡り終え、次はバロック様式の宮殿が立ち並ぶ通りを進んでいく。
「こっち」
大きく二つに分かれる道を左に進む。迷うことなく、決められたとおりに進んでいるようだ。『順番がある』と言っていた。そうか。この道順……。
「……王の道」
「うん。ちゃんとおしろまで行くためのみち。あるくだけで、かごがあたえられるの」
「加護?」
「むかしの王さまがパレードに使っていたみち。400ねんかん、つづいたの。このとおりにあるいていると、おしろまでだれもこうげきできない」
なるほど。だから、わざわざ火薬門まで行ったのか。
この街を『魔法の都』とすら呼ぶ人もいる。歴代の王の中には『魔術王』の異名を持つものもいた。
本当にここは、街全体が魔術と親密なのだと実感させられる。
「ここをのぼると、おしろ」
長い長い石造りの階段坂だ。初めは前を歩いていたナタリアも、次第にペースが落ち、気がつけば少し後ろになっていた。
坂の中間あたりまで登ると、ナタリアははあはあと息を切らす。
「少し休もうか」
「う……ん。でも……もう少しだから」
日差しが強い。それにこの子の細い手足では体力もないのだろう。まだナタリアに会って2日目だから実際は分からないが、いつもあの展望で読書をしているのであれば、日ごろから運動不足なのは間違いない。
ゆっくりするなら、登りきってからの方がいいということで、少し登り中腹にあるカフェで飲み物を買ってあげた。
***
どうなのだろう。昨夜の未来予測の結果は、《やり方を変える》と暗示していた。ナタリアは、一人では城まで辿り着けないといっていた。この子と一緒だったから《王の道》を選んでここまで来た。いや、来ることができたのだろうか。逆に考えると、やはり誰かが俺を狙っているということなのかもしれない。
城まで続く階段坂を登り終えて振り返り、プラハの街並みを見渡す。かつての王が見てきた世界が広がっている。赤い屋根と白い壁、そして天を貫く塔の数々。きれいだ。そう思わない人はきっといない。