上島の地
声がする。
「別れるなんて言わないで……」
切なく泳ぐそよ風のような女性の声だった。
「ずっと一緒にいて」
或斗はその声を知っていた。
葵恵……。
透き通るように艶やかな白い肌と、緩く編み込まれた柔らかい黒髪の彼女は、学校の中でも群を抜いて目立つ美人だ。鼻筋が通っていて、決して大きくはないけれど女性らしい温もりのある瞳は、実に純な日本美人そのもので、まるで白い百合のような雰囲気を持っている――愛流川葵恵は、数日前まで或斗の恋人だった。
「どこにも行かないで」
葵恵の声は近い。耳の傍をフッと横切る。
葵恵……。
見えない彼女を探すため手を伸ばそうとするが、自分の身体すらどこにあるのか判然としなかった。腕の感覚はあるのに、自由に操ることが出来ない。
「もう一人にしないで」
或斗は、声の尻尾を追いかけるように顔を向けた。
手がダメなら瞳で彼女の存在を認めるしかなかった。
けれど、どんなに目を皿にしても、見えるのは真っ白な靄だけだった。
葵恵、どこだ?
或斗は靄をかき分けるように歩いた。感覚しかない足と手をひたすら動かし、歩いた。
果たして進んでいるのかもがいているのか分からない状況で、或斗はふと、やはり自分は彼女を求めているのだと痛感し、立ち止まった。
葵恵との間にあんなショックな出来事があったというのに、彼女のことはどう頑張っても嫌いになどなれない。むしろ以前よりも彼女の笑顔を見ていたいとすら思うようになっていた。
だがその願望も、今では果てしなく続く夢のようであり、底の無い暗闇のようでもある。
以前のように密着するように寄り添って、笑い合う日がもうないのかと思うと、それだけで十年は歳を取ったような気分に陥る。
自分は情けない。男なのに、辛い現状から逃げているだけのような気がする。
彼女のためを思って別れを切り出したはずだった。それなのに今振り返ってみると、あの選択は自分自身に対する擁護だったのかもしれない。後に訪れる悲劇から逃げたい一心で、彼女から遠ざかったのかもしれない――最低だ。
悔しさのあまり奥歯に力が入る。
今さら後悔するなら、こんなに辛いことはない……。
「或斗――殿」
ほぼ反射的に腕を伸ばした指先に、冷たい人肌が不意に触れた。
或斗は咄嗟にそれを掴んだ。人の腕であることが分かった。
「葵恵……」
顔は見えないけれど、靄の奥に彼女がいるような予感がした。
「殿――殿?」
そう呼ばれ、或斗は今まさに掴んでいる腕をグッと引いた。
「痛いッ」
声は聞こえるのに、どんなに引っ張っても葵恵の白い腕は現れなかった。
しかしここで放してしまったら彼女には一生会えないような気がして、或斗は何度も繰り返し強く引いた。
「痛い痛い痛い。痛いですってば!」
この時、苛立つように叫ぶ声が、そよ風でないことに気づいた。
葵恵じゃない。
「起きてくださいッ。こんな所にいつまでも寝てられないです」
――子供だ。キンキン響く子供の声がする。
何かが狂ったようだ。葵恵はこんな下品な口調をしていない。
或斗は靄の奥に集中して耳を澄まし、改めて葵恵の声を探した。
すると、「起きろぉぉぉぉ!」
鼓膜が破れんばかりの金切声に心臓が反応し、或斗は飛び起きた。
「な、何だ……?」
辺りを見渡すまでもなく、或斗の傍にちょこなんと座っている赤い服を着た女の子と目が合った。
「あ……え……は?」
誰だ? この子は、誰だ? と言うか、どこかで見たことがあるような気がする……。
女の子の目が低く据わった。
「その顔は、覚えていないってことですな」
「いや……あ~~~」
或斗は瞳をグルリと回した。
覚えていないと言うか何と言うか、そんなことよりも、自分はここで何をしているのだ? むしろここはどこだ?
或斗は首と眼球を動かして辺りを見た。
――分からない。自分のいる場所の判断がつかない。ただ、完全に乾き切った芝の上に座っていることと、その芝がどこまでも続いていることと、真正面には土手が左右に続いていることと、青い空が広がっていることと、遠くで細長い煙突から黒煙が上がっていることだけが見て取れた。肌に感じるのは乾燥した常温の外気だけだ。
どうしたものか。こんな寂れた場所、来た覚えも記憶もない。
ふと見ると、女の子は或斗を睨み続けていた。
名前を聞くべきかどうか迷った末、或斗はとりあえず微笑んでみた。が、彼女には少しも通じなかった。
どうしたものか。葵恵の夢を見ていた記憶はきちんとある。あれは確実に夢であった。
途中から子供の声が聞こえて、突然耳元で叫ばれて、その衝撃で目が覚めた。
が、このとおり、覚めても夢の中にいるってことは、実際は夢から覚醒していないってことだろうか? いやちょっと待て。そうなると実際の自分は寝ているということになるのだが、それは感覚的に少し違うような気がする。
或斗は自分の身なりを探った。ボロボロの寝間着姿に裸足だ。おまけに髪の毛は湿っている。夢であるならもう少しオシャレであって欲しかったものだ。
或斗は試しに自分の頬をつねってみた――とても痛かった。
「何度も起こしたです」
女の子は跳ねつけるようにそう言った。
女の子の顔を見る限り小学校低学年と思われる。金髪を頭の上の方で二つに分けて結び、桃色のリボンをつけている。垂れたウサギの耳のような束は少し動いただけで揺れた。
肌は白く、頬が仄かに赤い。太ったどんぐりのように黒くて丸い瞳は頻繁に瞬きされる。頬の山との距離が狭いのは幼い証である。
――やはりどこかで会ったことがあるような気がする。ごく最近で。
「どうでも良いですが」
女の子は唇を突き出した。「これ、放してくださいな。痛いですッ」
「え? あッ、悪い」
或斗は握っていた左手を開いた。彼女の腕を強く掴んでいたようで、その部分が赤くなっている。やっと掴んだと思った手はこの子のだったというわけだ。どうりで葵恵の姿が見えないわけだ。
いやいや待て。だからあれは夢で、これも夢なんだろ? 建造物が煙突しか見えないこの奇妙な風景も非現実的だし、目の前の女の子もどことなく人間離れしているように見える。皮膚はあっても指紋がないような、汗が流れても毛穴がないような、どことなく人形っぽいというか、等身大フィギュアが動いているような、そんな感覚だ。
「夢じゃありませんです!」
腕を擦りながらそう叫んだ少女は、「殿にココの靴を買ってもらうです!」
或斗はこの瞬間、神崎登の部屋を思い出した。アニメポスターが無駄に貼られたあの部屋だ。
そうだ。ココリュードのココ!
彼女の風采は神崎が愛して止まないココとそっくりじゃないかッ。と言うより、たった今、彼女の口からココであると名乗られたばかりだ。
いやしかし……こんなことがあるわけがない。やはりこれは夢だ。アニメのキャラクターが現実にいるわけがない。それともコスプレか? 仮装パーティーでもあるのか? この場所はゲームの中を見立てて作った壮大なパーティー会場か?
そう思うとおかしくてならなかった。笑いが込み上げる。
バカな夢だな。
ケラケラ笑っていると、ココが或斗の頬をギュッと抓んだ。
「イデデデデッ」
頬を強く引っ張られて抵抗できない或斗は、されるがままに従うしかなかった。その時、少女の胸で揺れるペンダントが目に入った。
「これ以上ふざけないで下さいな。じゃないと、ビッグバーガー奢ってもらうですよ。単品じゃなくてセットのやつです」
ハッとした。姉貴のしたり顔が思い出される。
「ほ(ど)うしてそれほ(を)!?」
痛みが目に染みて涙が滲む。ちっちゃい割に力が尋常じゃない。
「ココは殿の頭が生んだ物質です。何でも分かるですよ」
そう言うと、彼女は満足そうに笑った。