鏡の波紋
少年が仰向けになったその顔を覗く小さな女の子は、フーッと息をこぼし、床にペタリとお尻をつけた。
「あらら。気絶してしまいました。意外と怖がりさんですな。特別指令幻想団体の一員に抜擢されたことも知らないようだし。何よりも自分を天使さんじゃないかなんて言うような男子さんときましたですか。こんな人とパートナーなんて大丈夫ですかな?」
その声はどこかとぼけたようでいて、まだまだ母親を恋しがる幼さである。
「自分の幻力が強力であることを知らないんですな。上島の存在も、上島の現状が予想外に大荒れしてしまってることも知らないんでしょうな。このまま連れて行ったら目覚めた時の景色に腰を抜かしちゃうかもですなぁ。ま、仕方ないです。時間もないし、いつ目を覚ますか分からないから説明は後回しとするです」
小さな手が、床の上でのびている或斗の瞼を覆った。
「それにしても自分がココを呼んでおいてお出迎えもしてくれないなんて。酷い殿方です」
ココと言う少女は、開く気配のない瞼の上で掌を回すように動かした。そしてもう片方の手で、首から胸に提げている円形のペンダントを掴んだ。古い青銅を細工したようなとても地味な装飾品である。大小さまざまな針が秒針のように動いていて見た目は煩く、時計と言うより時計の仕掛けの方に似ている。回転速度や方向など、どれも不規則に針は動いている。
ココが少年の瞼の上で掌を動かすたび、ペンダントの一番長い針が緑色に光った。
「うん。残力は十分ありますな。軽い想像ばかりしていたのが功と出たみたいです。上の国に行っても簡単にインバースを黙らせることできます」
さ、早々と出発するです。と彼女は立ち上がって全身鏡に歩み寄った。映る自分の姿を見つめる。
「う~ん。その前にこの格好はチョット困るですな。どうして殿はスクール水着なんか想像したですか」
大の字の顔を睨むように振り返ってから、少女はクローゼットを無遠慮に漁った。
引っこ抜いたのは唯一女性っぽい赤い無地のTシャツと茶色い皮のベルトだった。
水着の上からTシャツを被り、ミニのワンピースに見立てるようにベルトでウエストを縛る。ベルトも大きくて穴が足りないためにリボンのように結ぶ方法しか取れないのだった。最後に、ペンダントをシャツの外側に出した。
「大きいけど仕方ないです。靴は……罰としてあっちで殿に買ってもらうです」
ニッと白い歯を見せて笑ったココは、クローゼットを閉め、浮き立つ足取りで鏡の前に戻った。
「さ。準備は良しです」
口をキュッと閉めると、ペンダントの裏側を鏡に向けた。
しばらくすると少女を映す鏡からその姿が消え、ガラスが溶けたかのような波が浮かび上がった。
それは瞬く間に細かな波紋となって、一つの大きな円となった。まるで水の中で大きな鉄のリングを映しているような光景である。
ココは、今度はペンダントを或斗の方へと向けた。
少女が青銅を上方へクイと向けると、或斗の身体が僅かに浮く。続いて少女が鏡の方へ腕を動かすと、或斗の身体は鏡に吸い込まれるようにスーッと動いた。
或斗の姿が完全に飲み込まれるまでココは青銅を下ろさなかった。
その後、自ら鏡の中に潜り込んだココをも飲み込んだリングは、何事もなかったかのように従来のスタイルへと復した。
或斗が消えてから数分後、自室から出てきた姉は、弟の部屋のドアが開きっぱなしなのに気づき、「だらしない。閉めなさいよ」と小言を吐きながら何気ない様子で室内を見た。が、当然そこには或斗の姿はなく、電気だけが無意味の明かりを落としていた。
――あくる朝、冴森家に一通の封書が届いた。差出人は「未来推進省」と名乗る組織で、その名から国の行政機関のようだと思われる。しかし一家は、これまでに聞いたこともない奇妙な名称に不信感を抱きながらも、長男がいなくなった事実との関連性を認めざるを得なかった。
文書によると、或斗には、「幻力」とやら能力が一般レベルよりも超越してるとのことで、極秘に進められてきた新日本国の研究と進展に貢献すべき「特別指令幻想団体」に任命され、現在の「仮日本」なる「娯楽園」へと長期派遣されたということだった。
何のことを言っているのか全く理解できない一家は、同封されていた約束手形の金額を見て腰を抜かしそうになった。
団体の任務は、無期限で尚且つ生命に危機を及ぼすとても過酷な内容であるため、一員に選任された時点で一人につき「五千万円」の報酬、そして万が一の場合には最高で「三億円」の賠償金が家族に支払われることが規約の一つとされていた。
手形を透かすように見た長女は、もしかしたら詐欺の一種かもしれないと言って冴森家の主に確認の電話をかけるよう命じた。
素直に応じた父だったがしかし、えらく丁寧な女性の説明は受けるだけ無駄だった。手紙の内容と同じことしか語られなかったのだ。だが、詐欺の疑いを訴えると、後日、担当大臣が手形の期日前に挨拶に伺うことになっていると言われ、そしてあちらでは、まるで或斗がノーベル賞受賞者であるかのような扱いであったのには、息子が消えた現状をそっちのけにしてでも、父は顔をほころばずにはいられなかったのだった。