消えたポスター
それは突然の出来事だった。
その日の夜、お風呂から上がった或斗が部屋に戻ると、広範囲に渡って、白い壁面に嫌がらせがされていた。ココの特大ポスターが数枚貼り付けられていたのだ。
或斗は絶句して、フェイスタオルを放り投げて五歳年上の姉の部屋に乱入した。
「何だよあれ! 姉貴の仕業だろ!」
姉はソファーの上で体育座りをしてファッション雑誌を見ていた。短大生の彼女は最近になってオシャレに目覚めたようで、バイト料のほとんどが洋服代へと消えているのを或斗は知っている。
姉は母親の血だけを受け継いだかのように、難癖ばかりつける可愛くない性格をしていた。
「つうかアンタ何様? ノックもしないで部屋に入って来ないでよ」
付け睫毛を取った目は実に怖い。昼が向日葵とするならば、夜は食虫植物のハエトリグサだ。周辺を飛び回る煩い蝿をパクリと食べる怪奇な生き物である。
「俺は蝿じゃないッ」
「はぁ? バッカじゃないの」
面倒臭そうに睨み、目を細めて威嚇する。
或斗は姉の視線を避け、咳払いをし、
「とにかく、アレはどういうことだよ!」
と、自分の部屋の方角を指し示した。
「だから何がッ?」
雑誌をテーブルに叩きつけた姉は、ショーパンから伸びる自慢の長い足で仁王立ちした。
「いきなり入ってきて何だって言うの!」
そう怒鳴るハエトリグサの目がキリリと吊り上がったが、据わっている。そうとう怒っていると見える。なんとも奇妙な目だ。
或斗は怯まなかった。母親と言い姉貴と言い、この家では女が強しとされがちだったが本当は昔から不満だったのだ。悪ふざけの悪戯は水に流すなんてできっこない。
「しらばっくれる気か?」
「だから何にも知らないっつうの!」
「ウソつくなよ。じゃあ誰がやるんだよあんなことッ」
オタクしかいないんだよッ。
「何なのもう!」
半ば呆れるように腕を下ろした女子大生は、入り口に立っていた弟の肩を押し退けた。
「どれどれ! 何があるって!?」
踵を鳴らし、或斗の部屋に入って行く。
或斗は姉の後に続いた。
――と、信じられないことに、壁は白一色で、見慣れた無地だけが広がっていた。
或斗は目を瞬かせて一回転するが、どこにもココは見当たらなかった。
今しがた見た光景が幻だったかのように、幼稚な笑顔は紙と共に消えてしまっていた。
「な~んもないじゃん。アンタ、とうとうヤられたんじゃない?」
人差し指でコメカミを指して姉は言う。口端を吊って笑いながらもとても侮辱している様子だ。
「ウソじゃない! ココリュードのココのポスターが貼ってあったんだッ」
「バッカみたい。あんな小学生マンガのポスターをこの私が持ってるとでも思ってんの? 人を犯人扱いしないでよねッ」
姉はそれからベッドを見、顎を突き出した。「それも私のせいにするつもり?」
或斗は姉の言葉を無視してポスターを探した。ないわけがない。
ゴミ箱の中、机の引き出しの中、タンスの中、壊れたベッドの下――隅々まで探したが、どこを探してもココは見当たらなかった。
幻覚か……?
いや、そんなはずはない。この目でハッキリと見た。中には、神崎が飾っていたのと同じポスターもあった。ココが眩しい太陽に照らされて、紺色のスクール水着姿でジャンプしているやつだ。そう、天井に貼られていたデザインのものだ。
あれは絶対、錯覚などではない。
「お詫びとしてビッグバーガー奢ってもらうから」
首を垂らす或斗の肩を姉が叩いた。振り向くと彼女は掌を揺らして待っていた。
或斗は渋々ながらも財布から五百円玉を出した。
「誰が単品って言った?」
間髪いれず姉が冷静に攻めてくる。
クソッと思いながらも口には出さず、五百円玉をしまい、明日の昼食代として取っておいた千円札を取り出した。
その刹那、姉の手が敏捷にお札を捉え、スッと抜き取った。
「今度犯人にしたら十倍だかんねぇ」
陽気に言い放ち、ドアを開けっ放しで自室へと消える鬼女のお尻は笑っていた。
或斗は両肩が下がる思いだった。ズーンと何かがのしかかる。
急な出費が痛いところだが憂鬱に溺れそうになる気持ちはそれだけではない。
ココのポスターだ。なぜ、なぜ消えてるんだッ? あんなに沢山ベタベタと貼られてたじゃないかッ。
或斗は天井を見上げた。
どうしても納得がいかねぇ。
或斗は立ち上がって腕をこまねき、室内を右往左往した。
雨が降っちゃおうと槍が降っちゃおうとあの光景は幻覚なんかじゃないし、窓の鍵はしっかり下ろされている。外からの不審者が侵入したとも想像し難い。
或斗は壁と向かい合ってからしばらく見つめ、撫でるように触った。押した。爪を立てた。耳を押し付けた。匂いをかいだ。
けれど、何一つ不審な点は見つからなかった。
或斗は再び腕を組んだ。
姉貴の犯行じゃないのであれば、母親や父親とも考えられるのかもしれない。けれど、テレビを観て大笑いする父親の笑い声は風呂場まで常に聞こえてきていたし、電話していた母親を風呂に行く途中で見かけていたが、上がった時も同じ体勢で話をしていた。風呂は精々十五分程度だし、あの様子だと一度も中断しないで話していたと思われる。第一、両親は、日曜の早朝に放送されているアニメを知らないし、それを使って悪戯するようなユニーク度は持ち合わせていない。
ではどういうことだ? 誰がどうやってココのポスターを貼り付けて、剥がしたのだ? そしてそいつはどこのどいつだ?
コンコン。
ふいにドアが遠慮がちにノックされた。がしかし、開け放されっぱなしになっているドアの向こうには誰もいなかった。薄暗い廊下が真っ直ぐ伸びている。
或斗の胸がざわりとした。不可思議なことが起こった後の物音はリアルに怖い。廊下の突き当たりにあるトイレのドアが今にも開きそうで――と思ったその時だった。
誰も入っていない消灯されたトイレのドアが、ゆっくりと開いたのだった。
「え……何……?」
或斗の足がその場で凍った。ドアを閉めたくとも身体が言うことを聞かなかった。
トイレの扉は非常に低速で開き続けている。
「ウソだろ……」
心臓が不規則に動き、背筋に氷柱を立てかけられたかのような寒気が走った。
足は地の底まで根が張ったようにビクリともしない。
ついにドアが半分まで開いて、白い便器の一部が見えた。
或斗はグッと目を瞑った。便座に誰か座っていたらと思うと見続けることができなかった。
だが、もし本当に幽霊的な何かが中にいて、こうやって目を閉じている間にも接近して来ていたらどうしよう……。
無音で廊下を伝って、部屋に進入して、目の前まで来ていて、冷たい手で身体を触れられたら……。
或斗の想像していた映像は、もはやホラー映画の山場の一齣だった。
幽霊にお目にかかったことは一度もないけれど、頭の中で描く自画は、幽霊と至近距離で向かい合っている姿だった。酷く怯え震える我が体躯は、今にも気を失ってしまいそうである。
すると、或斗の腕に何かが確実に触れた。豆腐のような、まさに冷たい人肌のような感触だった。
或斗の身体がビクンと反応し、全身にカビが繁殖したかのような衝撃が広がった。
更にもう一度、今度は両腕に指のような物質が触れた。
言葉を発することも思考を巡らすことも不可能で、恐怖の絶頂を軽々と越えてしまった或斗は、凍った悲鳴を口の中に潜めたまま、白目を剥いて後ろにぶっ倒れた。