御子小百合は神様を信じない
朝の空気には、まだ夜の冷たさが残っていた。
山の麓に建つ御神寺の境内には、薄い霧が漂っている。
長い石畳の両脇には古い石灯籠が並び、その向こうには樹齢数百年とも言われる大きな杉の木が何本も立っていた。
朝日が山の向こうから顔を出す。
瓦屋根の本堂が淡い光に照らされ、軒先から吊るされた風鈴が、春の風に小さく鳴った。
チリン。
境内の奥には、住職一家が暮らす古い木造の家がある。
寺の静かな雰囲気とは裏腹に、その家の中では――。
「小百合ー! 起きてるー!」
「起きてるー」
「じゃあ降りてきなさい! 朝ご飯冷めるわよ!」
「今行く!」
ごく普通の朝が始まっていた。
階段を降りてきた少女が、眠そうに目をこすりながら居間へ入る。
御神小百合。
今日から高校一年生になる少女だ。
黒髪はまだ少し寝癖が残っている。
「おはよう」
「おはよう。顔洗った?」
「まだ」
「先に洗ってきなさい」
「はい…」
「小百合こらちゃんとご飯食べないさい」
「……行ってきます」
「戻ってきてから食べるの?」
「うん」
「もうまったくほら時間なくなるよ」
「時間なんて概念は人間が勝手に作ったものだから」
「朝から何言ってるの」
洗面所へ向かう娘の背中を見送り、母親は小さくため息をついた。
「……高校生になったら、もう少し普通になってくれないかしら」
「そう言う年頃なんだろ」
新聞を読んでいた父が答えた。
小百合の父親だった。
五十代くらいの、いかにも職人といった風貌の男である。
頭には白いハチマキ。
朝食の席に座っていても、その格好だけは仕事場と変わらない。
「お父さんも何で朝からハチマキなのよ」
「気合いだ」
「昨日も聞いた」
「今日も気合いだ」
「毎日気合い入れてるの?」
「職人だからな」
父親は味噌汁をすすった。
「それに今日はめでてぇ日だ」
「何が?」
「娘が高校生になる日だろうが」
「……」
小百合が戻ってきた。
「何の話?」
「お前の話だ」
「私?」
「今日から高校生だろ」
「そうね」
「だったら、しっかりやれ」
「何を?」
「全部だ」
「曖昧だね」
「細けぇことはいいんだ」
母親が笑う。
「あなた、そういうところ昔から変わらないわね」
「何だ?」
「大事なことほど雑」
「雑じゃねぇ。簡潔なんだ」
「同じじゃない?」
「違う」
小百合は二人の会話を眺めながら、味噌汁を飲む。
窓の外では、朝の光が境内を照らしていた。
寺の屋根。
石灯籠。
古い杉。
そして、境内を掃除するために立てかけられた竹箒。
何百年も変わらないような景色の中で、御神家だけは妙に騒がしい。
「小百合」
「何?」
「今日、学校で変なこと言うんじゃねぇぞ」
「変なこと?」
「神がどうとか、人間がどうとか」
「……」
小百合は箸を置いた。
「お父さん」
「あ?」
「この世に神はいないわ」
「朝飯食ってる最中に宣戦布告すんな!」
「宣戦布告じゃない。事実よ」
「事実じゃねぇ!」
「じゃあ、証明してみて」
「何で俺が神の存在を証明しなきゃならねぇんだ!」
「ほら、お父さんも証明できない」
「屁理屈だ!」
母親が額を押さえる。
「高校初日なのに、どうして朝から宗教論争してるのよ……」
小百合は涼しい顔でご飯を食べ続けた。
その横で父親が叫ぶ。
「とにかく! 学校では普通にしろ!」
「善処する」
「その言い方は絶対しねぇ奴の言い方だ!」
御神家の朝は、今日も騒がしい。
◆◆◆
家を出ると、空気が一変した。
寺の門を抜けると、坂道の先に住宅街が広がっている。
春の通学路には桜が並び、淡い桃色の花びらが道路の上を風に乗って転がっていた。
遠くからは同じ制服を着た生徒たちの声が聞こえる。
入学式の日。
新しい鞄を持った生徒。
家族と歩く新入生。
友達と写真を撮る女子。
どこを見ても、新しい生活の始まりを感じさせる光景だった。
その中を、小百合は一人で歩いていた。
新品の制服。
新品の革靴。
そして新品のリュック。
ただし――。
リュックの横には、巨大なドクロのアクセサリーがぶら下がっている。
歩くたびに、
カラン。
カラン。
と金属音が鳴る。
「……」
小百合は寺の方向を振り返った。
朝日に照らされた本堂が、遠くに見える。
「今日から、私の新しい人生が始まる」
桜の花びらが一枚、彼女の肩に落ちた。
小百合はそれを払い落とす。
「神などという存在に縋るつもりはない」
そして、空を見上げた。
「もし神がいるというのなら――」
「小百合」
「……何?」
背後から声がした。
振り返る。
そこには、同じ高校の制服を着た少女が立っていた。
睦月ヒイロ。
小百合の友人だった。
ヒイロは小百合の顔を見て、それからリュックを見た。
「……何それ」
「ドクロ」
「見れば分かるわよ!」
ヒイロは頭を抱えた。
「何で寺の娘が、入学初日にドクロぶら下げてんの?」
「神への反逆」
「真っ正面から神様に喧嘩売ってるじゃん!」
「神なんていない」
「だったら喧嘩売る相手いないじゃん!」
「……」
「何でそこで黙るのよ!」
二人の間を、桜の花びらが舞っていく。
小百合はドクロを手に取った。
「これは私の魂の象徴よ」
「ただのドクロでしょ」
「違う」
「何が?」
「私の思想」
「その思想、学校に持っていかないでよ……」
ヒイロはため息をついた。
けれど、その口元には笑みが浮かんでいた。
「まあ……小百合らしいけど」
「褒めてる?」
「全然」
二人は並んで坂道を下っていく。
その先には、今日から二人が通う高校があった。
校門の前には「入学式」と書かれた看板。
その周囲には桜が咲き、新入生とその家族が写真を撮っている。
小百合はその看板を見上げた。
「高校か……」
「緊張してる?」
「まったく」
「嘘」
「本当よ」
「じゃあ何でちょっとだけ深呼吸したの?」
「……」
「図星じゃん」
「うるさい」
二人は笑いながら校門をくぐった。
◆◆◆
入学式を終えた教室は、まだどこか落ち着かなかった。
机の中を確認する生徒。
新しい友達を作ろうと話しかける生徒。
連絡先を交換する女子たち。
教室中が、新しい人間関係を作ろうとしていた。
小百合は自分の席に座り、窓の外を眺めていた。
校庭では、まだ桜が風に揺れている。
「ねえ」
突然、教室の空気が変わった。
「……?」
小百合が振り返る。
そこには、一人の男子生徒が立っていた。
整った顔。
高い身長。
爽やかな笑顔。
周囲の女子たちが一斉に反応する。
「えっ」
「何?」
「ちょっと待って」
「キャー!」
小百合は首を傾げる。
「何なの?」
「御神さん」
「何?」
「少し話したいんだけど」
「いいけど」
男子生徒は少し照れながら尋ねた。
「御神さんって、寺の娘なんだよね?」
「そうよ」
「じゃあ……神様とか信じてるの?」
小百合の目が変わった。
「あなたは?」
「え?」
「神を信じる?」
「うーん……」
男子生徒は困ったように笑った。
「いるかもしれないし、いないかもしれない……かな」
「……」
小百合は真顔になった。
「最もつまらない答えね」
「えっ」
「自分の考えはないの?」
「いや、初対面でいきなり神様について聞かれると思わなくて……」
女子たちの何人かが小声で笑う。
小百合は気にしない。
「もし神がいるなら、人間の願いを聞いていると思う?」
「たぶん……聞いてるんじゃないかな」
「なぜ?」
「神様だから……?」
「論理性がない」
「…………」
男子生徒の表情が固まる。
教室の後ろからヒイロの声が飛んできた。
「小百合! 何で恋愛イベントを宗教討論会にしてんのよ!」
「恋愛イベント?」
「今の状況!」
男子生徒が慌てて口を開く。
「あ、あの……それで、よかったら今日、学校が終わったあと――」
「デート?」
「……うん」
教室が爆発する。
「キャー!」
「やっぱり!」
「入学初日から!?」
小百合は少し考えた。
「断るわ」
「えっ」
「あなたといても、有意義な神学的議論ができそうにないもの」
「そこなの!?」
ヒイロが頭を抱える。
「もっと普通に断りなさいよ!」
「でも断る理由として十分でしょう」
「十分じゃない!」
「じゃあ何て言えばいいの?」
「『ごめんなさい、今日は用事があるので』とか!」
「嘘をつけと?」
「そうじゃない!」
教室に笑い声が広がる。
男子生徒も苦笑しながら、
「……じゃあ、また学校で」
と頭を下げ、自分の席へ戻っていった。
小百合は何事もなかったように窓の外を見る。
ヒイロはそんな彼女を見ながら、呆れたように呟いた。
「……あんた、本当に変な奴だよ」
「褒めてる?」
「褒めてない」
◆◆◆
放課後。
空が赤く染まり始めていた。
昼間は賑やかだった校舎も、少しずつ静かになっていく。
小百合とヒイロは、帰り道の途中にある御神寺の境内へ戻ってきていた。
夕暮れの境内には、昼間とは違う静けさがある。
長い石段。
古い石灯籠。
朱色に染まった本堂。
風が吹くたび、桜の花びらが石畳へ落ちていく。
二人は石段に並んで座った。
「ねえ、小百合」
「何?」
「あんた、本当に神様いないと思ってるの?」
「ええ」
「一切?」
「一切」
「もし目の前に神様が現れたら?」
「論破する」
「何でよ」
「神なら私の疑問に答えられるでしょう」
「じゃあさ」
ヒイロは夕焼けを見ながら続けた。
「神様が『願いを一つ叶えてやる』って言ったら?」
小百合はしばらく考えた。
「……それなら」
「それなら?」
「世界で一番おいしいプリンを要求する」
「急に俗っぽくなったな」
「食べたいから」
「神様に頼むことそれ?」
「神なんでしょう? なら作れるはずよ」
「もっと世界平和とかないの?」
「私がプリンを食べている間くらい、世界平和でいいじゃない」
「雑すぎる……」
ヒイロは笑った。
「じゃあ私なら――」
少しだけ間を置く。
「小百合とずっと一緒にいられるようにして、ってお願いするけど」
「……」
小百合がヒイロを見る。
「何?」
「それ、神に頼むこと?」
「え?」
「友達なんだから、自分で言えばいいでしょう」
「…………」
ヒイロは黙った。
「いや……そういう意味じゃなくて」
「どういう意味?」
「……なんでもない」
「変なの」
二人は石段から立ち上がった。
「帰りましょう」
「うん」
寺の門へ向かって歩き出す。
しばらくして、小百合が突然口を開いた。
「そういえば」
「何?」
「神様って、プリン食べるのかしら」
「知らないわよ」
「神なのに?」
「神だからってプリン食べるとは限らないでしょ」
「でも神なら、プリンくらい食べてほしくない?」
「知らないって!」
「じゃあ神様用のプリンを作る必要があるわね」
「何でそうなるのよ!」
「神への供物」
「さっき神なんていないって言ってたじゃん!」
「いないからこそ、供えてみる価値があるのよ」
「意味分かんない!」
夕暮れの境内に、二人の声が響く。
「ヒイロ」
「今度は何よ!」
「帰りにコンビニ寄りましょう」
「……プリン?」
「プリン」
「神様のため?」
「私のため」
「結局あんたが食べたいだけじゃん!」
二人の声が、静かな寺に響き渡った。
小百合は神を信じない。
神がいるのかどうかも、きっと一生分からない。
けれど――。
そんなことを馬鹿みたいに話せる友達が隣にいることだけは、悪くないと思っていた。
「ヒイロ」
「何!」
「三個買って」
「自分で買いなさいよ!」
「友達でしょう?」
「その友達にたかるな!」
夕暮れの御神寺に、今日最後の笑い声が響いた。
高評価いいねよろしくお願いします




