「禁忌」の「力」その①
暁市内某廃造船所
潮風にさらされた錆びついた鉄骨が軋む。潮の匂いと、腐った油の臭気が混ざる空間。人気のないはずのその場所に深夜複数の人影があった。「……本物なんだろうな」低い声。黒いコートの男が目の前のアタッシュケースを睨む。対面の男は無言のままゆっくりとその重たい蓋を開けた。中に収められていたのは。一本の細く長い鎖。だがそれはただの金属ではなかった。黒とも銀ともつかない鈍い光沢。表面にはまるで「肉が脈打つような」微細なうねりが纏わりついていた。見ているだけでどこか気分が悪くなる。「……『真殻咲』だ」静かな声。「これが平安の頃から伝わる呪いの鎖だ」男は続ける。「知ってるとは思うが一応説明しておこう。所有者には十年間、人生最大の幸福が訪れる」その言葉にコートの男の喉がわずかに鳴る。「だが十一年目の前夜。『あれ』が来る」沈黙。波の音だけが遠くで響く。「夢の中に現れる。憎悪の塊」「……それに夢の中で殺されると終わると?」「あぁ終わりだ。」即答だった。「その日から全てが狂う。人間関係、運、身体すべてが崩壊する」「……絶頂は長くは続かないということか」「そしてそれは連鎖する」男はゆっくりと鎖を指でなぞる。「血縁、関係者、関わった者すべてに不幸が伝播する」コートの男の表情が歪む。「回避方法は二つ。十年以内に手放すか誰かに押し付けるかだ」鎖が、わずかに音を立てた。その音はなぜかやけに重かった。「……いいだろう」コートの男が手を伸ばす。その瞬間、鎖がほんのわずかに「蠢いた」まるで死にかけたミミズのようにほんの少しだけ動いたのだ。男は少し躊躇したが思い切って握りしめると動きは止まった。
9年後国立シンドロ博物館・収蔵庫
「……は?」源愿太郎は、思わず声を漏らした。大学の課題で訪れた普段は一般公開されていない収蔵室。棚の隅。明らかに異質なものがあった。「なんだこれ……」そこには周囲の埃をはじいているかのように美しさを保っていた一本の鎖が落ちていた。どこか嫌な感じがするが視線を逸らそうとしても、なぜか引き戻される。頭のどこかで警鐘が鳴る。なのに好奇心と足が止まらない。「……別に、ちょっと見るだけだし」言い訳のような独り言。手を伸ばす。指先が鎖に触れた瞬間ゾワッ全身に鳥肌が立った「っ!?」心臓が一瞬、強く跳ねる。それは死んだと思ったゴキブリを触ろうとしたら寸前で息を吹き返し動き回り出した時のような感覚だった。だが次の瞬間、じわりと甘い感覚が広がった。「……なにこれ」頭が妙にクリアになる。視界が冴える。呼吸が整う。(……すげぇ)根拠のない確信。「これ、俺のだ」その考えが自然に浮かぶ。違和感はない。むしろ「当然」だった。元から自分のために作られた自分のためにそこに置かれていたという考えが頭の中に広がった。鎖が、わずかに音を立てる。まるでそのエゴイストな考えに応えるように。愿太郎の影が床でわずかに歪んだ。だが本人はそれに気づかない。「……持って帰れるかな」と小さく笑う。その笑みはほんの少しだけ歪んでいた。その日から源愿太郎の生活は一変した。「……またかよ」スマホの画面には当選通知。応募した覚えすら曖昧な懸賞がまた当たっている。最初は小さなものだった。学食の無料券。欲しかった参考書。たまたま空いた席。普段は気にしていない幸福が連日のように襲い掛かってきたのだ。当初はラッキーだと思っていたがそれは次第にエスカレートしていった。「バイト……採用?」面接はほぼ雑談だった。それなのに即採用。しかも時給は破格。「……いや、まあラッキーか」その笑みは少しずつ「慣れてきて」いた。大学構内。「あ、源くん!」普段話したこともない女子が声をかけてくる。「これ落としたよね?」差し出されたのは自分の学生証。「え、どこで……」「さっき!たまたま見つけて!」偶然。また偶然。「……ありがと」受け取る。指先が触れた瞬間、その女子の動きがほんの一瞬だけ止まった。「……?」次の瞬間には、何事もなかったかのように笑っている。「じゃあね!」去っていく背中。(……今の、なんだ?)小さな違和感。だがすぐに、別の幸運が上書きする。数日後。「マジで言ってるんですか?」ゼミの教授が言う。「今回の推薦、君に回そうと思う」「……え?」願太郎は言葉を失った。成績は悪くない。だがトップではない。それなのに。「いやなんかね……君がいいって思ったんだよ」曖昧な理由だが決定は覆らない。「ありがとうございます……」頭を下げる。そのとき視界の端で何かが動いた。黒い影。本当に一瞬だけ壁に何かが張り付いていた。「……は?」顔を上げる。だがそこには何もない。「どうした?」教授の声。「……いえなんでも」心臓が少し早い。だが(気のせいだろ)そう思うことにした。さらに数週間後、幸運はもはや異常だった。電車は必ず座れる。信号は必ず青になる。欲しいものは誰かが持ってくる「……さすがに出来すぎだろ」苦笑する。だがその裏で。ズレが増えていた。夜、帰宅途中コンビニ前で一人の男が転んだ。激しい音と共に荷物が散らばる。(あぶな……)愿太郎が一歩引いた、その瞬間トラックが突っ込んできた。ガシャアアアアア!!さっきまで自分が立っていた場所が潰れる。「……っ」息が止まる。自然と転んだ男に向く。その男は動かなかった。「……え?」広がる赤。さっきの衝撃を、まともに受けていた。「俺の代わりに?」その考えが、頭をよぎる。「いや、違うだろ」即座に否定する。だが胸の奥がざわつく。その夜ベッドの中で天井を見つめる。「……考えすぎだ」自分に言い聞かせる。幸運なだけ。それだけだ。そう思おうとした。どこからか、音がした。「……?」部屋の隅。置いたはずの鎖が。わずかに揺れている。風はない。窓も閉まっている。「……気のせいか」目を逸らす。だがその夜夢を見た。暗い何もない空間。足元も見えない。自分の目の前には何かがいた。形はなくだが確実にそこにいる。ドロドロとした気配。感情だけが流れ込んでくる。憎い、羨ましい、奪え心臓が強く鳴る。「……っ!」目が覚める。荒い呼吸。全身には汗。「……夢か」だが手が震えている。そして無意識に口元が歪む。「……まあいいか。今、上手くいってるし」その言葉はどこか他人事のようだった。一方そのころ暁の尊はこの異変に気が付いていた。全国各地で不幸が続きすぎている。自分がよく行く国立シンドロ博物館も先日謎の火災により全館消失するという大惨事が起こったり、全国各地で事故が多発したりと明らかに何かおかしい気配がした。そして一つの考えが浮かんだ。「もしかしたら国立シンドロ博物館が保管していた『あの鎖』が外部に持ち込まれたのではないか」という考えが。そしてすぐに中目に連絡を取り調べるよう依頼した。源は大学構内での様々な幸運に飽きており起こっても満足しなくなっていった。昼休み。笑い声、雑踏、いつもと変わらない風景。その中で源愿太郎は、つまらなそうにスマホを見ていた。「……また当たりか」画面には高額商品当選の通知。高級腕時計。先週はノートPC。その前は旅行券。「……で?」小さく呟く。指で画面を閉じる。「源くん!これさ」友人が話しかけてくる。「……あー、あとでいい?」適当に流す。自分でもわかるくらいに興味がない。人にも、物にも、出来事にも。すべてが軽い。ふと思う。その瞬間、胸の奥がわずかに疼いた。「……?」心臓の音。いやそれだけじゃない。もっと深い場所。何かが反応している。その日の帰り道。横断歩道。信号は青。いつも通り完璧なタイミング。だが愿太郎は立ち止まった。「……つまんねぇな」ぽつり。そして赤信号のまま一歩踏み出した。「おい危ないぞ!」誰かの声とクラクション。だが車が止まった。あり得ないタイミングで。あと数センチずれていたら轢かれていた。愿太郎の目の前で完全停止。「……はは」笑う。「やっぱそうなるか」確信。もう理解している。自分は絶対に守られる側だと。その夜。鎖が机の上にある。「なぁ」願太郎はそれに向かって話しかけた。「どこまでいけんの?」返事はない。だが。小さく音が鳴る。「……だよな」口元が歪む。翌日大学の屋上。立ち入り禁止のフェンス。その向こう。下はコンクリート。数階分の高さ。普通なら絶対に近づかない場所。だが「……死なねぇよな」柵を越える。風が強く足場は不安定。一歩踏み外せば終わり。「……」一瞬だけ躊躇したがそれすらすぐに消える。「まぁ助かるしね」踏み出した。「っ……は、はは……!」なんと愿太郎は宙吊りになっていた。落下したはずなのに。「……マジかよ」視線を上げる。なんと愿太郎の腕からあの鎖が出てきて柵にしっかりと絡みついていた。あり得ないような現実。「はは……!」笑いが止まらない。そのとき近くで悲鳴が上がる。「きゃああああ!!」悲鳴が響く。愿太郎は宙吊りのまま下を見下ろした。大学構内。昼間のはずなのに一瞬で空気が変わっていた。「……なんだ、あれ」一人の男。腕が膨れ上がっている。いやただの膨張じゃない。筋肉でもない。骨格すら無視してぐちゃぐちゃに増えている。まるで。内側から何かが押し広げているように。「う、あ……あああああ!!」男は叫びながら腕を振り回す。ドゴォッ!!コンクリートが砕ける。人が吹き飛ぶ。「おい!やめろ!」誰かが止めようとする。だがその腕が裂け中から黒い何かが覗く。ドロドロとした塊。あの夢で見たものに似ている。「……あ」愿太郎の口から声が漏れる。理解してしまった。(俺のせいか?)その瞬間。鎖がギリと音を立てた。腕に絡みついたそれがわずかに締まる。まるで肯定するように。「……は」笑いが漏れる。「マジかよ」落ちるはずだった。でも助かった。その代わりに下で誰かが壊れている。「……そういうことか」静かに呟く。恐怖はなかった。むしろ。妙に納得していた。男がこちらを見る。異様に膨れた腕。裂けた肉の奥から黒い何かがこちらを見返している。「――ッ!!」目が合った瞬間、男の動きが止まる。そしてゆっくりと口が開く。「……お前……だろ……」かすれた声。だがその言葉は、はっきりしていた。「奪ったのは……お前だ……」「……」愿太郎は黙って見ている。否定しない。肯定もしない。ただ観察している。「返せぇぇぇぇぇ!!」男が跳ぶ。異様な脚力で一直線に愿太郎へ。「うおおおおおお!!!!!!!!」ぶつかりそうになった次の瞬間、見えない何かにぶつかるように、弾かれた。そして男は空中で無理やり止められ地面に叩きつけられる。「がっ……!」「何が…はっ!」愿太郎は足を見ると鎖が垂れ出ておりそれが弾き飛ばしたのだろう。「これも幸運ってことか?」鎖はさらに伸びギチギチと音を立てながら愿太郎を地面へ降ろした。男はユラユラと立ち上がり愿太郎を睨み付ける。「おれ戦いとかしたことねぇよ…」男はゆっくりと腕を揺らしながら近づいてくる。蛇のようにうねる鎖が愿太郎の腕に絡みつく。「おい!俺は戦わねぇぞ!」しかし男は勢い良く走ってくる。だが終わらない。男は地面を蹴った。ズドンッ!!コンクリートが砕け破片が宙に舞う。その勢いのまま一直線に突っ込んでくる。「おい待てって!!」愿太郎は反射的に後ろへ下がる。だが足がもつれる。戦った経験なんて一度もないただの大学生だ。(無理だろこれ――)ギンッ!腕に絡みついた鎖が勝手に動いた。「は?」鎖が地面を這い跳ね上がる。ガギィィン!!男の膨張した腕と真正面からぶつかる。衝撃で空気が震えた。「ぐ……!」男の動きが止まる。(止めた……?俺が?)いや違う。勝手に止まった。愿太郎はただ見ているだけだった。怖いはずなのに底知れぬ勇気が湧き上がってきた。「すげぇな、これ」その瞬間、鎖が大きく脈打った。ドクン心臓の音と重なる。すると頭の奥に使い方が流れ込んできた。(伸ばせる、絡める、引ける……?)「……こうか?」軽く腕を振る。シュバッ!!鎖が一直線に伸び男の足に絡みついた。「ッ!?」バランスを崩した男が前のめりに倒れる。ドゴォッ!!地面に叩きつけられる。「……マジか」愿太郎は自分の手を見る。震えていない。恐怖もほとんどない。あるのは奇妙な高揚感。「……いけんじゃね?」男が起き上がる。その顔はもう人間のものではなかった。裂けた口から黒いものが溢れている。「かえせ……」低く濁った声。「おれの……幸せを!」その言葉に愿太郎は少しだけ首を傾げた。「いや知らねぇよ」その一言で男の何かが決定的に壊れた。「ガァァァァァァ!!!!」男が再び突進する。今度はさっきより速い。だが「もう俺に怖いものはねぇよ」愿太郎は一歩も動かなかった。鎖だけが動く。バギィィッ!!空中で男の身体がねじ曲がる。見えない壁に叩きつけられたように止まる。ギチ……ギチ……鎖が締まる。腕、胴、首。全身に巻き付いていく。「ぐ……あ……」男の動きが鈍る。黒い塊が溢れ出し鎖に触れた瞬間、ジュゥゥ……焼けるような音。「……効いてる?」愿太郎が一歩近づく。完全に余裕だった。鎖を軽く引く。男の身体が地面に叩きつけられ、そのまま動かなくなった。さっきまでの騒ぎが嘘のように止まる。「……終わったか?」愿太郎はしばらく見下ろす。やがて。ふっと笑った。「なんだ…割と戦いって楽勝じゃん」愿太郎は逃げるようにその場を去り帰宅した。




