第5話 帝国が勝った世界
出発前夜の屋敷は、妙に静かだった。
使用人たちは慌ただしく動いているはずなのに、足音が控えめで、声も小さい。まるで屋敷全体が「これから起きること」を知っていて、息を潜めているみたいだった。
俺は自室に戻らず、記録室の一角にいた。
豪邸の奥にある、あの“目の届かない扉”まではまだ辿り着けない。けれど、手の届く範囲にも紙束はある。断片。抜粋。公開できる範囲の歴史。国家が一般向けに整えた年表。
そして——念写の男が持ってきた真新しいノート。
《今夜、調べるべきは帝国》
昼間、俺がそう念じた瞬間、紙にその言葉が浮かび上がった。
こいつの能力は地味だ。だが、この世界では地味であることが武器になる。改変されようが、誰かが嘘をつこうが、書かれた「その瞬間の意思」は残る。
「……まず、帝国だ」
俺が小さく呟くと、背後で椅子が引かれた。
振り向くと、帝国出身の亡命者がいた。あの、銃を持った男だ。
名前はまだ名乗らせていない。コードネームで呼ぶのも嫌だった。だが本人は気にしていないらしい。
「資料なら、政府の公開分はだいたい揃えてある」
彼は淡々と言った。
「どこまでが真実かは、保証できないが」
「それでもいい。今は“骨格”が欲しい」
もう一人、席につく影がある。政府側の監視役——記憶を失わない能力者。無表情で、机の上の資料に視線を落としている。彼はここでも余計なことは言わない。ただ、必要なときだけ口を挟む、そういう空気だ。
筋肉の男は呼んでいない。
血液操作の男も、今夜は休ませた。
ここは情報整理だ。熱量の高い人間が多いと、話が燃える。
俺は資料の一枚を引き寄せた。見出しは大きい。
《帝国概説》
「帝国は、世界大戦以前から存在した国家だ」
亡命者の声が、説明ではなく確認のように響く。
「構成種族は二つ。“ヴァンパイア”と“吸血鬼”。それは今も変わらない」
「二つだけ?」
「ああ。混血もいるが、制度上は二つに分類される」
俺は頷き、次のページをめくった。
《ヴァンパイア:日照耐性。高い身体能力。能力者ではない》
《吸血鬼:能力者。日照下では出力低下》
「……紛らわしいな」
俺が言うと、亡命者が肩をすくめた。
「外から見れば同じだ。だからこそ厄介なんだ」
監視役が淡々と補足する。
「呼称は国際的にも統一されていません。国内では区別されますが、国外では混同されがちです」
「吸血鬼は超能力持ちで、ヴァンパイアはフィジカル特化……ってことか」
「そうだ」
亡命者は短く答えた。
「吸血鬼は人間と同じ枠組みの能力を持つ。つまり、能力者ランク制度の対象になる。だが日光があると弱る」
「じゃあ夜に強い?」
「夜は、強いどころじゃない」
亡命者の言葉が、一段低くなる。
「街が一つ落ちる」
言い方が物騒すぎる。
でも、冗談じゃないのが分かる。
俺はページをめくる。そこには太字があった。
《共通事項:摂取血液は人間由来に限られる》
「……これが、ずっと引っかかってる」
俺は呟いた。
「なんで人間の血だけなんだ」
亡命者は首を振った。
「分からない。帝国の連中も、本当の理由は知らないと言われている」
監視役が淡々と言う。
「複数説があります。宗教的禁忌、病理、生理学的制約、あるいは——歴史的な契約」
「契約?」
「資料にはそうあります。詳細は不明です」
不明。
この世界は不明が多すぎる。
だが、この“不明”は怖い種類だ。
理由が分からないのに、結果だけは揺るがない。
人間の血しか吸わない。吸えない。そういう前提が、国家を作っている。
俺は息を吐いた。
「……じゃあ、帝国が嫌われてる理由は、単純だな」
資料の次の頁には、露骨な単語が並んでいた。
《人間牧場》
《供給区画》
《家畜契約》
《血液資源》
胸の奥が、冷たくなる。
「世界大戦前……帝国は人間を家畜にしていた」
亡命者が言った。
その声音には、怒りよりも疲労が混じっていた。怒りは燃え尽きたのか、あるいは燃やし続けすぎて、煤になったのか。
「攫って、飼って、管理して、必要な分だけ吸う。死なせない。生かす。増やす。選別する」
俺は思わず、拳を握りしめた。
「それで戦争に?」
「当然だろ」
亡命者の視線が俺を貫く。
「世界中の国が敵に回った。人間圏だけじゃない。獣人も妖精も魔族も——種族の違いなんて関係ない。『人間を家畜にする』という発想そのものが許されない」
監視役が、淡々と資料を指差した。
「当時の記録によれば、加盟国は短期間で増加し、実質的に世界規模の連合軍が組まれています」
俺は苦笑しそうになった。笑えない。
「……帝国、終わるじゃん」
「普通ならな」
亡命者は言った。
「普通なら、帝国は滅んでる」
彼はそこで言葉を切り、机の上の別の紙束を叩いた。年表だ。たった数行の簡潔な記述。
《世界大戦・終結:帝国の勝利》
俺は、その一文を何度も読み直した。
目が滑る。理解が拒否する。
「……は?」
声が間抜けになった。
「帝国が……勝った?」
亡命者は、頷いた。
「あり得ないだろう?」
俺は反射的に言った。
「あり得ないだろう! 世界中敵に回してだぞ!? 普通、物量で潰されるだろ!」
監視役が淡々と補足する。
「“普通”の前提が、当時は通用しなかったと考えられます。帝国側の戦力、戦術、あるいは——外的要因」
外的要因。
俺の脳裏に、嫌な単語が浮かぶ。
過去改変。
俺が、介入したのか?
俺が帝国を勝たせたのか?
それとも、帝国が勝った結果を“受け止めるために”世界が分断されたのか?
「勝った理由は?」
俺は亡命者に聞いた。
彼は、即答しなかった。
ほんの数秒、迷ったように視線を泳がせてから、口を開いた。
「分からない」
「……嘘だろ」
「本当に分からない。帝国の外にいた人間には、情報が落ちてこない。落ちてきた頃には、もう戦争は終わっていた」
監視役が付け加える。
「終戦直前の記録は、複数の国で断絶しています。情報が残っていないのではなく、“残らない形にされた”可能性があります」
俺は、背筋が粟立つのを感じた。
残らない形。
それは、まるで——
「……記憶改ざん?」
監視役は首を横に振った。
「私の能力で耐えられる範囲の話ではありません。そもそも私は当時を知りません。
ただ——“情報が綺麗に消えている”のは事実です」
亡命者が、机に指を置いた。
「一つだけ確かなのは、帝国が勝った後、世界が変わったことだ」
「変わった?」
「世界が分断された。種族ごとに線を引かれた。人間圏は守られるようになった。……少なくとも、表向きは」
表向き。
その言い方が、嫌だった。
俺は思い出す。
第1話で見たニュース。
《帝国、渡航規制一部緩和——ただしA級は維持》
緩和してるのにA級は維持。
“配慮している”と言いながら当てにならない。
家畜にされた家族。
恨みを隠す亡命者。
全部、繋がってくる。
「……今も、人間は家畜にされてるのか?」
俺が尋ねると、亡命者の顔が一瞬だけ歪んだ。
「断定はできない」
「でも?」
「変わっていないと、俺は思っている」
監視役が淡々と資料を示す。
「公式には否定されています。帝国は“人道的配慮”を掲げています」
俺は、今日だけで何回目か分からないため息を吐いた。
「その『配慮』が当てにならないって、使用人全員が言ってた」
亡命者が短く笑う。
「正しい」
笑いじゃない。嘲りだ。
俺は、念写のノートを引き寄せた。白紙のページに手を置く。
そして、意識を集中させて念じた。
——帝国は勝った。なぜだ?
——俺は関わったのか?
次の瞬間、文字が浮かび上がる。
《帝国は勝った》
《理由はまだ分からない》
《だが、行けば分かる》
……まるで誰かに返事をされたみたいな文章だ。
「おい、これ……」
俺がノートを見せると、亡命者が眉をひそめ、監視役が静かに目を細めた。
「念写は、あなたが念じたことを書きます」
監視役が淡々と言う。
「つまり、それはあなた自身の結論です」
「……俺の、結論」
自分の声が乾いていた。
行けば分かる。
そう思ってしまっている。
危険だと分かっているのに、行くしかないと。
俺は机の上の資料を整え、立ち上がった。
「明日、出発する」
亡命者が頷く。
監視役は何も言わない。ただ、席を立つ気配だけがした。
「最後に一つ」
俺は亡命者に言った。
「帝国への恨みの理由、言えないって言ったな」
「言えない」
「でも……信用してほしいって言った」
「そうだ」
俺はその目を見た。
嘘をついているようには見えない。
でも、全てを言っていない目だ。
「……分かった」
俺は言った。
「信用はする。今は」
亡命者の表情が、ほんの少しだけ緩んだ気がした。
夜が更ける。
屋敷の灯りは消えない。
明日は出発だ。
帝国へ向かう。
——帝国が勝った世界へ。
そして、俺が何を変えたのかを知るために。
俺は自分の部屋へ戻り、枕元の引き出しを開けた。
あの紙は、まだそこに入れてある。
《あなたの能力は過去改変です》
文字は変わらない。
変わらないはずなのに、
今夜はそれが、昨日よりもずっと重く見えた。




