第25話 約束を、覚えていない
連絡先を交換して別れたはずなのに、スマホはすぐに震えた。
《今、時間ある?》
短いメッセージ。
余計な絵文字も、遠慮もない。
十数年ぶりだと言った相手が、十数年空けたとは思えない距離感で送ってくる。
俺はその画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。
(……十数年ぶり、って何だよ)
俺の人生に、彼女――西園寺美亜という名前の女の子が入り込む余地は、どこにもなかったはずだ。
俺は普通の高校生だった。
少なくとも、改変前の記憶の中では。
けれど、今はもう「普通」を名乗るのが恥ずかしい。
改変の紙を拾って、世界がねじれて、豪邸にいて、帝国に行って、皇女と知り合って、配信を始めて、国家に無茶ぶりされる。
その流れの中で、
“俺が知らない俺の過去”が、いちばん怖かった。
《少しだけでいい。会いたい》
追い打ちのようにメッセージが来る。
拒否する理由は――ある。
関わるな。深追いするな。
国家案件の匂いがする。
AGBが送ってきた“対象”だ。
下手に近づけば、自分だけでなく周りにも被害が出る。
でも、関わらない理由も――弱い。
彼女は俺の名前を知っていた。
俺のフルネームを呼んだ。
そして、「十数年ぶり」と言った。
それは、ただの情報ではなく、穴だ。
俺の中に開いた穴。
そこから冷たい風が吹き込んでくる。
《どこで?》
指が勝手に動いていた。
数分後、返ってきた場所は、駅から少し離れた小さな公園だった。
昼間なら子どもが遊ぶようなところ。
夕方なら、人目はあるけれど密ではない。
安全と言えば安全だが、誰かに見られたら終わり、という意味では最悪でもある。
(……どうしたもんだ)
俺は歩きながら、無意識に周囲を確認していた。
帝国で身についた悪い癖だ。
護衛がいないのに、護衛の目を借りたように視線を滑らせる。
公園に着くと、美亜はブランコの前に立っていた。
制服ではない。私服。
昼間より少し大人びて見えるのは、夕日が影を長くするせいか。
俺に気づくと、彼女はぱっと笑った。
「やっぱり来てくれた!」
その声が、昨日よりも近い。
「……来たけど」
俺は距離を保ったまま言う。
「どういうことだ。
俺は君を知らない。
なのに君は俺を知ってる」
美亜は一瞬だけ笑顔を消した。
消したというより、整えた。
笑っていていい話じゃないと理解した顔。
「うん」
短く頷く。
「分かってる。
ショウが困ってるのも、分かってる」
“ショウ”。
その呼び方が、胸をざわつかせる。
「……その呼び方やめてくれ」
思わず言うと、美亜は目を丸くした。
「え、嫌だった?」
違う。嫌とか好きとかじゃない。
「嫌っていうか……」
言葉が続かない。
俺はただ、呼ばれたくない。
俺の知らない過去を、当然のように呼び出されるのが怖い。
「……ごめん」
美亜がすぐに謝った。
そして、すぐに付け加える。
「でもね、呼び方は……昔からそうだったんだ。
私、ショウって呼ぶの、ずっと当たり前だったから」
“ずっと”。
その言葉が、俺を殴る。
「……座る?」
美亜がベンチを指した。
公園の端、街灯の下。
俺は警戒しつつも、近づく。
美亜は先に座り、俺は少し離れて腰を下ろした。
沈黙。
夕方の空気が、湿った風を運ぶ。
遠くで犬の鳴き声がした。
「……ねえ」
美亜が、恐る恐る口を開いた。
「どこまで覚えてない?」
「全部」
即答だった。
「君のことも、君の名前も、君の顔も。
今みたいに話してる記憶もない」
美亜の指先が、膝の上でぎゅっと握られる。
「そっか」
小さく笑った。
笑っているのに、目は笑っていない。
「……でも、それなら説明できる」
「説明?」
美亜は頷いた。
「この世界のショウは――
幼いころ、私と会ってた」
俺の背中が、硬くなる。
「……どこで」
「日本」
即答。
「同じ町。近所。
公園も、たぶんここ」
言われて、公園を見回す。
何の変哲もない。
滑り台と鉄棒と砂場。
ブランコの鎖が、風でかすかに鳴る。
「……俺は、ここで君と?」
「うん」
美亜は静かに頷いた。
「ショウはね、当時……
友達がいなかった」
胸が痛む。
それは否定できない。
改変前の俺も、社交的ではなかった。
「私も、友達いなかった」
美亜は続けた。
「だから、最初に話した日、覚えてるよ。
ブランコを二人でこぎながら、“名前、なんていうの?”って」
彼女の声は、淡々としている。
泣きそうでも、怒ってもいない。
ただ事実を並べている。
それが、逆に怖い。
「……それで?」
俺の声はかすれていた。
「それで、私たち、毎日遊んだ。
学校っていうより、放課後の世界が全部ここだった」
美亜は、少しだけ笑った。
「ショウ、真面目でさ。
遊んでる途中でも急に“宿題やらなきゃ”とか言い出すの」
(……それ、俺っぽい)
記憶はないのに、想像がつく。
想像がつくのが、嫌だった。
まるで、そこに本当に俺がいたみたいで。
「でもね」
美亜の笑顔が、また整う。
「私、途中でいなくなった」
「……引っ越し?」
「うん。親の都合」
美亜は一度息を吸った。
「自由皇国に行くことになった」
聞き慣れた単語。
合衆国の内戦後、日本の統治下にある衛星国――自由皇国。
ニュースでしか知らない場所が、彼女の幼少期の“転機”として出てくる。
「……なんで、そんな」
「親の仕事。
決まったら早かった」
美亜は肩をすくめる。
「でね、その時ショウが……」
一瞬、言葉が詰まった。
美亜は、ベンチの木目を見つめたまま続ける。
「約束したんだ」
「約束?」
心臓が、嫌な音を立てた。
「うん」
美亜は頷いた。
「私が自由皇国に行ったら、
もう簡単には会えない。
連絡も難しい。
子どもだったし、スマホもないし」
それを聞いて、俺は違和感に気づく。
子ども時代なら、スマホがないのは当然だ。
でも、連絡が難しいというのは……ただの距離ではない。
この世界の国境は、改変前よりずっと重い。
「だから、ショウは言った」
美亜が、こちらを見た。
目がまっすぐで、逃げられなかった。
「『もし自由皇国が大変なことになったら、連絡して』って」
「……」
「『無理そうなら、絶対連絡して』って」
胸の奥で、何かが崩れる。
(俺が、そんなことを?)
「そして――」
美亜は、少しだけ微笑んだ。
「『絶対、俺が何とかするから』って」
空気が、止まった。
公園の音が消えた。
遠くの車の音も、犬の鳴き声も。
全部、頭の奥に沈む。
“絶対、俺が何とかする”。
その言葉が、今の俺に刺さりすぎていた。
(……俺は)
(俺は、もう“何とかする”側の人間になってしまった)
帝国での行動。
配信。
国家の依頼。
全部、形は違っても同じ方向だ。
(俺が何とかする――って)
その言葉が、誰かの人生を動かす重さを、俺は知り始めている。
美亜は続けた。
「ショウはその時、たぶん……
自分が何を背負うことになるか、分かってなかったと思う」
それは、そうだろう。
子どもの言葉だ。
優しさだ。
無責任な希望だ。
「でも、私は」
美亜の声が、少しだけ震えた。
「私は、信じた」
それだけで、胸が苦しい。
「自由皇国に行ってから、最初は普通だった。
でも、合衆国が崩れて、内戦が始まって……
自由皇国も安全じゃなくなった」
「……」
「その時ね、私は思った」
美亜は、静かに笑う。
「“ショウに連絡したい”って」
俺は反射的に口を開きかけて、止めた。
“連絡できなかったのか?”と聞きたかった。
だが、それは今の話の本質じゃない。
「でも、できなかった」
美亜は言った。
「連絡の手段も整ってなかったし、
何より私、自分が情けなかった」
「情けない?」
「助けてって言うだけの人になりたくなかった」
美亜の瞳が、少しだけ強くなる。
「ショウが“何とかする”って言ってくれたなら、
私は、私で何とかしたかった」
その言葉は綺麗だった。
綺麗すぎて、痛い。
「……だから」
美亜は、ゆっくり言う。
「私は、頑張った」
それは、軽い言葉ではなかった。
頑張った。
それだけで、内戦が終わるなら世界は苦労しない。
「手段を選ばず、って言うと悪く聞こえるけど」
美亜は視線を逸らす。
「でも、選んでたら間に合わなかった」
「……何をした」
俺の喉は乾いていた。
美亜は一拍置いて、言った。
「能力を鍛えた」
「能力……未来予知か」
「うん」
美亜は頷く。
「最初はね、使いこなせなかった。
見えるのは断片で、怖いだけで、吐きそうで」
それでも。
「でも、見ないと死ぬから」
淡々とした言葉が、重い。
「見続けた。
外したら誰かが死ぬ。
当てたら、少しだけ生き残る。
その繰り返し」
想像が、勝手に膨らむ。
吐き気がした。
美亜は、話を止めない。
「結果として、合衆国の内戦は……終わった」
「……君が?」
「“一人で”って言うと大げさだけどね」
美亜は苦笑する。
「でも、私がいなかったら終わらなかった、とは言われた」
胸の奥が、空っぽになる。
(……俺は何をしてた)
俺は帝国で観光して、血液バイトして、配信して。
その間に、彼女は内戦を終わらせていた?
(矛盾だ)
(でも、この世界なら――)
成立してしまう。
美亜は、ふっと表情を柔らかくした。
「でね」
「やっと落ち着いたころ、思ったんだ」
「“ショウに会いたい”って」
俺の心臓が、また嫌な音を立てる。
「会って、言いたかった」
美亜は微笑む。
「“約束、守れたよ”って」
「……」
言葉が出ない。
美亜は、俺の沈黙を責めない。
ただ、少しだけ寂しそうに笑った。
「でも、ショウは覚えてなかった」
「……」
「不思議だよね。
私はこんなに覚えてるのに」
俺は拳を握りしめた。
(覚えてない)
(覚えてないのに)
(俺が言った言葉が、彼女を作った)
喉の奥が詰まって、息がうまくできない。
美亜は、その空気を読んだのか、少しだけ声を落とした。
「……ねえ、ショウ」
呼び方が刺さる。
でも、止められなかった。
「私、恨んでないよ」
その一言が、心臓を鷲掴みにする。
「だって、約束」
美亜は笑った。
「守ろうとしてくれたでしょ?」
「……え?」
俺は思わず顔を上げた。
美亜は頷く。
「だって、ショウってそういう人だもん。
言ったら、やろうとする。
無茶でも、背負おうとする」
それは褒め言葉の形をしていて、同時に呪いだった。
「私、知ってるよ。
あなたが今、何かしてること」
胸が跳ねる。
「……どこまで」
俺が聞きかけると、美亜は首を振った。
「全部じゃない。
でも、噂になるくらいには」
笑う。
「“異世界留学チャンネル”ってやつ」
喉が鳴った。
(……見てるのか)
美亜は続ける。
「だから、恨んでない。
むしろ……安心した」
安心。
その言葉が、さらに重い。
「ショウは、ショウだった」
美亜は、まるで当たり前のように言う。
俺は何も言えなかった。
謝れない。
正当化もできない。
否定もできない。
だって、これは俺がやらかした結果でしかないからだ。
過去改変の力を得た瞬間から、世界だけじゃなく、人の人生まで歪めてしまった。
しかもそれは、悪意じゃなく、善意の形で。
美亜はベンチから立ち上がった。
「今日は、これだけ言えればいいや」
夕日が、彼女の髪を赤く染める。
「また、会っていい?」
問いは軽いのに、意味は重い。
俺は返事ができない。
できないのに、首だけは小さく動いていた。
美亜は満足そうに笑った。
「じゃ、またね。ショウ」
そして、今度こそ人混みに消えていく。
俺はベンチに座ったまま、空を見上げた。
(約束を、覚えていない)
その事実が、胸の奥で反響する。
俺は世界を変えた。
でも、世界を変えたつもりなんてなかった。
ただ、目の前の何かを“何とかしたい”と思っただけだ。
その結果、誰かが人生をかけるほどの言葉を俺は吐いていた。
(……俺は)
(俺が失ったものと、得たものはどっちが多いんだ)
問いは、答えを持たない。
ただ一つだけ確かなのは――
俺が知らない過去は、もう一人じゃなかった。
そしてその過去は、俺を責めずに、笑っていた。
それが、国家の無茶ぶりより、ずっと怖かった。




