第24話 知らないはずの名前
AGBから送られてきたデータは、驚くほど簡素だった。
顔写真、氏名、年齢、現在の滞在予定、行動履歴の一部。
それだけ。
「……これだけ?」
画面をスクロールしても、余白ばかりが目につく。
『現時点で把握できている情報は以上です』
端末越しに、あの年齢不詳の少女の声が淡々と響く。
『本来であれば、こちらで“処理”する案件でした』
処理。
つまり、暗殺。
胸の奥が、ひどく冷えた。
「……無理だ」
俺は即答した。
「現代社会で、人殺しは無理だ。
それが“一人”だろうが、“一件”だろうが関係ない」
『では、どうしますか』
問いに、感情は乗っていない。
選択肢を提示しているだけだ。
「情報だけくれ」
俺は画面から目を離さずに言った。
「接触する。その上で判断したい。
……顔と名前だけでもいい」
一瞬の沈黙。
『了承しました』
即答だった。
(……あっさりだな)
拍子抜けと同時に、嫌な予感がした。
送られてきた顔写真を、改めて拡大する。
黒髪。
日本人と変わらない顔立ち。
年齢は、俺と同じか、少し下。
『日系合衆国人です』
少女が補足する。
『幼少期は日本で過ごし、親の都合で合衆国へ移住しています』
「……つまり」
『完全な“外”ではありません』
その言い方が、やけに引っかかった。
(外じゃない、か)
写真の彼女は、どこにでもいそうな普通の女の子だった。
スパイだとか、工作員だとか、そういう雰囲気は一切ない。
「……これ、本当に“対象”か?」
『可能性は高い』
断定はしない。
だが、否定もしない。
「……分かった」
俺はスマホを閉じた。
接触方法を考えながら、街を歩く。
盗聴も尾行もいらない。
相手は一般人に近い存在だ。
警戒されるような動きは逆効果。
(ナンパ、か)
自分で思いついて、少し嫌になった。
だが、現代社会で最も自然な接触方法でもある。
特に、相手が同年代の女性なら。
(……やるしかない)
夕方、人通りの多い駅前。
待ち合わせ、買い物、帰宅途中。
様々な人間が行き交う。
その中に、彼女はいた。
写真と同じ顔。
同じ雰囲気。
スマホを見ながら、少しだけ歩く速度が遅い。
(……間違いない)
心臓が、妙にうるさい。
(落ち着け。
話しかけるだけだ)
距離を詰める。
声をかけようとした、その瞬間――。
「……ショウ?」
足が止まった。
聞き間違いかと思った。
だが、声は確かに俺を呼んだ。
「……ショウだよね?」
彼女が、顔を上げる。
そして、ぱっと表情が明るくなった。
「やっぱり!
渡会 翔でしょ!」
――名前。
フルネーム。
「……え?」
頭が、真っ白になる。
「久しぶり!
ほんと、十数年ぶりだよね!」
無邪気な笑顔。
疑いも警戒もない。
懐かしさだけを詰め込んだような声。
「……」
声が、出ない。
(……誰だ)
(知らない)
(こんなやつ、知らない)
脳裏を、必死に探る。
幼稚園。
小学校。
中学校。
どこにも、彼女はいない。
「……あの」
ようやく、言葉を絞り出す。
「……人違い、じゃないか?」
彼女は、きょとんとした顔をした。
「え?」
次の瞬間、少しだけ不安そうになる。
「え、冗談だよね?
だって……」
言葉を切り、じっと俺を見る。
「……顔も声も、変わってないよ?」
胸の奥が、ざわついた。
(変わってない?)
「いや……」
俺は、ゆっくり首を振る。
「悪いけど、
君のこと、覚えてない」
空気が、一瞬止まった。
彼女の表情が、固まる。
「……え?」
笑顔が、少しずつ消える。
「え、ちょっと待って」
「そんなはず……」
彼女は、焦ったように言葉を重ねる。
「だって、
毎日一緒に遊んでたじゃん」
「近所で、
公園で、
あの……」
言葉が、噛み合わない。
(毎日?)
(公園?)
(近所?)
知らない。
全部、知らない。
「……ごめん」
俺は、視線を逸らした。
「本当に、分からない」
彼女は、何かを言いかけて、口を閉じた。
しばらく、沈黙。
駅前の雑踏が、急に遠くなる。
「……そっか」
やがて、彼女は小さく笑った。
「そっか……そうだよね」
自分に言い聞かせるような声。
「引っ越したあと、
連絡も取れなくなって……」
視線を落とす。
「……覚えてないよね」
胸が、痛んだ。
(……俺、何かしたか?)
いや、違う。
(俺は、何もしてない)
それなのに、
俺の知らない過去が、目の前に立っている。
「……名前」
彼女が、顔を上げる。
「今でも、
“ショウ”って呼んでいい?」
その質問が、重すぎた。
「……」
答えられない。
(呼ばれたくない?
違う)
(呼ばれる資格が、分からない)
「……ごめん」
また、それしか言えなかった。
彼女は、少しだけ困ったように笑った。
「変なの」
「でも……」
言葉を切り、肩をすくめる。
「まあ、いいや。
覚えてなくても」
明るく言おうとして、
うまくいっていないのが分かる。
「また、会えたし」
そう言って、スマホを取り出した。
「連絡先、変わってない?」
(……)
完全に、主導権を失っている。
(俺は、こいつを調べに来た)
(なのに)
「……変わってる」
俺は、正直に言った。
「そっか」
少し残念そうにしながらも、
彼女はすぐに画面を操作する。
「じゃあ、交換しよ」
自然すぎる流れ。
断る理由が、見つからない。
連絡先を交換する。
名前欄には、見覚えのない彼女の名前。
(……本当に、知らない)
別れ際。
「じゃあ、またね。ショウ」
彼女は、手を振った。
人混みに消えていく背中を、
俺はただ見送った。
(……どういうことだ)
スマホが、震える。
AGBからの短いメッセージ。
――接触を確認。
状況を報告せよ。
画面を閉じる。
報告できることなんて、何もない。
(知り合いなのか?)
(いや、違う)
(知り合いじゃない)
でも。
(……知ってるはずなんだ)
俺の名前を。
俺の顔を。
俺の過去を。
俺だけが、知らない。
その事実が、
国家の無茶ぶりより、
ずっと怖かった。
そして、ふと思う。
(もしこれが――)
(過去改変の“歪み”だとしたら)
俺は、
何人の“知らない知り合い”を
この世界に作ってしまったんだろうか。
答えは、まだ出ない。
ただ一つ確かなのは――。
暗殺対象だったはずの彼女が、
今や、俺の過去そのものになってしまった、ということだけだった。




