第15話 止めなかった理由
帝都の夜は、昼よりも静かだった。
光は相変わらず街を満たしているのに、人の気配が薄い。
昼間の喧騒は“生活”で、夜の静けさは“管理”だとでも言うように、通りの角には警備の影が増えていた。
俺は、麦わら帽子の女性——もう名前で呼びたいのに、いまだに呼び方を決め切れない彼女に、指定された場所へ向かっていた。
「別荘です」
通信でそう言われた時、思わず「どんだけだよ」と口から漏れそうになった。
帝都が好きでよく来る、という言葉の裏に、そんな財力が隠れているとは思わない。
護衛たちも微妙な顔をしていた。
特に政府の監視役は、いつもより少しだけ警戒心を強めているように見えた。
彼は感情を表に出さないが、歩く速度がわずかに遅くなるだけで分かる。
「……豪邸、ですよね」
筋肉の男が小声で言った。
「別荘でこれかよ」
亡命者が鼻で笑う。
「帝国の“上”は、想像より上だ」
その言葉の意味が、今日になってさらに重く感じられた。
ミュラー家の保管庫で見た、厳重な箱と金庫。
その中にあった「JP」の文字。
日本人の血が、高級品として扱われているという事実。
——戦争が終わったから安全、なんて発想は甘すぎる。
俺は、そんな当然の結論を胸の奥で反芻しながら、彼女の別荘へ到着した。
門は高くない。
だが、門の“向こう側”の気配が違う。
見張りがいる。
しかも、人数が多い。
ミュラー家の屋敷は「物」が厳重だった。
この別荘は「人」が厳重だ。
俺の護衛と、向こうの護衛の視線が交差する。
一瞬、空気が硬くなる。
——勝てない。
直感した。
向こうの護衛は質が違う。
鍛え方、距離の取り方、視線の扱い。
俺の護衛も強い。だが、あちらは“慣れている”。
慣れている。
何に?
護衛に。殺しに。隠すことに。奪うことに。
俺は息を吐き、門をくぐった。
中庭は整っていて、植物は管理され、噴水は小さく音を立てている。
帝都の喧騒から切り離された空間。
彼女は、玄関で待っていた。
麦わら帽子はかぶっていない。
室内だからだろう。
その代わり、髪をまとめ、服装も街歩きの時より落ち着いている。
「こんばんは」
彼女は丁寧に頭を下げた。
「こんばんは。……呼んでくれてありがとうございます」
「いえ。こちらこそ」
俺は室内に案内される。
食卓はすでに整えられていて、料理の匂いがした。
肉と野菜。香辛料。甘いソース。
帝国の料理だ。
昨日のレストランより、ずっと“人間向け”に感じるのが皮肉だった。
「……ここ、別荘なんですよね」
つい言うと、彼女は小さく笑った。
「はい。帝都に来た時の拠点です」
「拠点……」
「変ですか?」
「変じゃないですけど……羨ましいです」
本音だった。
彼女はまた笑ったが、すぐに表情を引き締めた。
「今日は、あなたに言わないといけないことがあります」
食事の前置きすらない。
俺の背筋が自然と伸びる。
「……何ですか」
彼女は一度だけ呼吸を整えた。
「ミュラー家の件です」
ミュラー家。
ステラ・ミュラー。
血液募集のバイト。
俺は頷いた。
「続けるつもりです」
言い切ると、彼女の目がわずかに揺れた。
「……やはり」
それは失望ではない。
諦めでもない。
怖さだ。
「お願いです。やめてください」
彼女は、強く言った。
強い。
昨日までの彼女の丁寧さとは違う。
迷いながら語るのではなく、決めて言っている。
「最終日に誘拐が行われることが多いんです」
俺は黙って聞く。
「二日目、三日目。慣れた頃。
『もう大丈夫だ』と思った瞬間。
油断した時に、奪われます」
彼女の言葉は具体的だった。
具体的であるほど、現実味が増す。
「油断した時に、なんてこともよくある」
彼女は唇を噛むようにして続けた。
「あなたは、今——危険なことをしています」
「分かってます」
俺は答えた。
分かっている。
分かっているから、焦っている。
(具体的な案がない)
心の中で、その言葉が響く。
護衛たちと取り決めはした。
合図なしで動く。
逸脱の兆候があれば踏み込む。
でも、それは“理想”だ。
相手が本気なら、契約を盾にしてこちらの動きを縛れる。
チャームが発動している間、俺は何もできない。
護衛は手出しできない。
俺が狙われるかもしれないという怖さより、
「対策が曖昧だ」という焦りの方が、今は強かった。
彼女は、テーブルに手を置いた。
「提案があります」
俺は目を上げる。
「私から、ミュラー家の依頼より高額の依頼を出します」
「……高額の依頼?」
「はい。あなたに仕事を依頼する形にします。
内容は——そうですね、帝都の案内。情報提供。何でもいい」
彼女は淡々と続ける。
「もしミュラー家があなたを拘束しようとしても、
『こちらの方が高額だった』と言えば、誤魔化しがききます」
誤魔化し。
帝国は、金で正当化できる。
契約で罪を薄められる。
それが、この国の現実だ。
理にかなっている。
かなっているからこそ、怖い。
「……それって」
俺は慎重に言葉を選ぶ。
「あなたの庇護下に入れ、ってことですか」
彼女は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……結果的には、そうなります」
正直だ。
「あなたが無事でいるためには、それが一番確実です」
彼女の声は、揺れていた。
強く止める人間の声だ。
止めるしかない人間の声だ。
「あなたは——」
彼女はそこで言葉を止めた。
言えないのだろう。
本当の理由が。
でも、俺は分かってしまった。
(過去に、失ったことがある)
だから、今度は失いたくない。
だから、強く止めるしかない。
「……ありがとう」
俺は言った。
「でも、断ります」
彼女の顔が、固まる。
「なぜですか」
声が低い。
怒りではない。必死さ。
俺は、答えを口にする前に一瞬だけ迷った。
「あなたが信用できないからです」
そう言うのは簡単だ。
でも、それは違う。
「あなたが——何か隠しているのが分かる」
俺は、正直に言った。
彼女の目がわずかに揺れる。
「護衛の質も、数も、ミュラー家より多い。
別荘も持ってる。
あなたは、ただの案内役じゃない」
「……」
「もしあなたが裏切ったら、俺は勝てない」
沈黙が落ちる。
俺の護衛たちの気配が、少しだけ濃くなる。
向こうの護衛の空気も硬くなる。
危険な言葉だ。
ここで間違えれば、終わる。
だが彼女は、怒らなかった。
ただ、目を閉じた。
「……そう思うのも、当然です」
その言葉が、逆に怖い。
否定しないということは、肯定でもある。
「でも、私はあなたを守りたい」
彼女は、まっすぐ言った。
「それだけは、嘘ではありません」
俺は息を吸う。
(どうする)
断った瞬間、俺は彼女を敵に回す可能性すらある。
守りたいと言いながら、囲い込みたい可能性もある。
それでも——俺は言った。
「大丈夫です」
かっこつけた。
言葉にした瞬間、自分でも分かる。
(大丈夫じゃない)
具体的な案はない。
いざ戦うことになったらどうする。
チャームが来たら。
護衛が動けなかったら。
焦りが、内側で膨張する。
でも、口は止まらない。
「もしそうなっても、何とかして見せます」
彼女の目が、悲しそうに細くなった。
「……あなたは」
彼女は言いかけて、飲み込んだ。
そして、やっと小さく息を吐いた。
「分かりました」
諦めの声ではない。
受け入れの声でもない。
——“止められない”と悟った声だ。
それが、さらに胸を刺す。
食事は、そのまま進んだ。
料理は美味しかった。
肉は柔らかく、野菜は香りが強い。
でも俺の舌は、味を拾いきれていなかった。
頭の中で、ずっと思考が回っている。
(勝てない)
(勝てないなら、どうする)
(逃げる?)
(逃げるための手段は?)
(チャーム中に逃げられる?)
——無理だ。
チャームが来たら、俺は動けない。
動けないなら、護衛が動くしかない。
でも契約が盾になれば動けない。
(じゃあ契約の外で動ける条件を作る)
具体策が浮かばない。
焦りが増す。
彼女はそんな俺を見て、何かを言いかけたが、結局口を閉じた。
言っても、俺は止まらない。
それが分かっているから。
食事が終わり、玄関まで送られる。
夜風が冷たい。
帝都の光が遠い。
門の前で、彼女は立ち止まった。
「……明日も、行くんですか」
「行きます」
即答してしまった。
彼女は目を閉じた。
そして、ゆっくりと開く。
「分かりました」
短い言葉。
「……でも」
彼女は、少しだけ声を落とした。
「生きて帰ってください」
命令でも、お願いでもない。
祈りに近い声。
俺は頷くしかなかった。
「また明日」
彼女はそう言い残した。
その言葉が、妙に重い。
また明日。
明日が来る前提の言葉。
明日も会う前提の言葉。
それが、この国ではどれだけ贅沢な前提か、俺はもう知ってしまっている。
俺は背を向け、護衛たちの待つ場所へ歩き出した。
数歩進んだところで、亡命者が小声で言う。
「……お前、今の断り方、命知らずだな」
「分かってる」
俺は答えた。
「でも、あれ以上は——」
言い訳になるから、やめた。
屋敷に戻ってから、俺は護衛の一人を呼び出した。
亡命者——帝国出身の人間亡命者。
銃を使い、敵の行動を予測して動けると言った男。
「聞きたい」
俺は言った。
「いざという時のために。
お前の奥の手を」
彼は少し笑った。
「奥の手ってなんだよ」
「お前が言ってたやつだ。
銃弾で奥の手があるって」
彼は椅子に腰を下ろし、淡々と語り始めた。
「俺の能力は、オートで発動する未来予測だ」
未来予測。
「ただし、万能じゃない。
見えるのは“確定に近い行動パターン”だけだ。
で、俺はそれを——距離に関係なく継続させる方法を持ってる」
俺は息を呑む。
「銃弾に、自分の遺伝子を入れる」
「遺伝子?」
「そう。俺の体組織。血でもいい。
それを特殊加工した弾に混ぜる」
彼は指先で弾丸の形を作る。
「その弾を“誰かが持つ”だけでいい。
持ってる相手の行動パターンを、俺は予測し続けられる」
「……撃ち込んだ相手でも?」
「もちろん。撃ち込めばもっと確実だ」
距離に関係なく。
時間に関係なく。
つまり、相手を“観測し続ける”。
「帝国での通称がある」
彼は淡々と言った。
「ファンタスティック・クガル。略してFK。
俺の能力を利用した——能力弾だ」
FK。
言葉だけで、帝国の制度化された暴力が見える。
「……それで、何ができる」
俺が聞くと、彼は即答した。
「逃げるタイミングが分かる。
裏切るタイミングが分かる。
奇襲の予兆が分かる」
「チャームは?」
俺の問いに、彼は少しだけ黙った。
「……チャームは“俺が止める”ことはできない」
やっぱり。
「でも、チャームが来る前に察知して距離を取れる可能性はある」
可能性。
俺はその言葉を飲み込んだ。
完璧な対策はない。
でも、手札が増えた。
焦りの中に、ようやく具体が一つ刺さる。
「……ありがとう」
俺が言うと、彼は肩をすくめた。
「生き残るためだろ」
その通りだ。
俺は窓の外を見た。
帝都の光が遠く揺れている。
また明日。
彼女の言葉が、まだ耳に残っている。
俺は、静かに息を吐いた。
明日も行く。
そして、明日も生きて帰る。
——そのために、俺は今夜、焦りを“準備”に変える。




