第13話 食事が合わないだけの話
ステラ・ミュラーの屋敷を出たあと、俺は自分の足が思ったより重いことに気づいた。
息はできる。意識もはっきりしている。
なのに、体の芯が冷えているような感覚が残っている。
血を吸われたからだ。
量としては少量だと言われた。実際、ふらつくほどではない。
ただ、体から何かが抜けたという事実だけが、妙に現実味を帯びていた。
「ボス、大丈夫ですか!」
筋肉の男が横から覗き込んでくる。
「大丈夫だって。……それより、腹減った」
俺はそう言って、わざと軽く言った。
軽く言わないと、重くなる。
あの“動けない時間”のことを思い出せば、頭の中が簡単に暗くなる。
血液操作の男が頷く。
「栄養補給は必要です。
失った分は戻せませんが、回復は促せます」
政府の監視役は淡々と補足した。
「医療機関に行くほどではありません。
ただ、今後を考えるなら体力管理が最優先です」
念写の男は、すでにノートを開いている。
白紙に短い文字が浮かんだ。
《食事》
俺はそれを見て、苦笑した。
「……じゃあ、レストラン行こう。
せっかくだし、情報共有も兼ねて」
亡命者が肩をすくめる。
「帝国のレストランね。
人間が入れる店、あるのか?」
「探す」
そう答えたが、その時点でうっすら嫌な予感はしていた。
帝都の繁華街は、昼でも眩しい。
日光の代わりに人工の光が街を満たし、空気は乾いている。
建物の庇とフィルターが影を作り、肌に刺さるような直射はない。
吸血鬼とヴァンパイアのための街だ。
俺たちが歩くと、視線が集まる。
正確には、俺に。
護衛が何人もいる人間は目立つ。
ここでは、それだけで“事情がある”と分かるのだろう。
「……看板」
血液操作の男が呟いた。
通り沿いに並ぶ飲食店の入り口。
そこに掲げられた札の多くが、同じ文言を含んでいる。
帝国語で、読めない。
「何て書いてある?」
俺が聞くと、監視役が即答した。
「『人間お断り』です」
「……多いな」
次の店も、次の店も同じ。
「ここもダメです」
「ここもです」
「こちらは……“団体のみ”ですが、注釈に『人間不可』があります」
監視役の声は淡々としている。
淡々としているからこそ、現実が重い。
「つまり」
俺は息を吐いた。
「人間は、食事の客として想定されてない」
亡命者が笑うでもなく言う。
「そりゃそうだ。
ここは人間を“食う側”の国だ」
不意に、胸の奥がざわついた。
(やめろ)
そう思っても、思考は止まらない。
血を吸われた感覚。
抵抗できなかったこと。
あの“静かな無力さ”。
その記憶が、食欲と一緒に胃の底を押し上げる。
「……あっちは?」
筋肉の男が指差した先に、少し古びた看板の店があった。
高級店ではない。客層も派手ではない。
入口に札はあるが、文字が小さい。
監視役が一瞥して言う。
「『人間お断り』ではありません」
「入ろう」
俺は即決した。
店内は、思ったより静かだった。
席は半分ほど埋まっている。
吸血鬼とヴァンパイアが、当たり前に食事をしている。
俺たちが入った瞬間、空気が一瞬だけ止まる。
視線がこちらに向く。
好奇心。警戒。無関心。
いろんな視線が混ざり合って、すぐに元へ戻る。
「……あれ」
席に案内され、座った直後に気づいた。
テーブルに置かれたグラス。
中身は水じゃない。
淡い赤色の、透明な液体。
「これ……」
俺が言いかけると、店員が丁寧に説明した。
帝国語だ。分からない。
監視役が通訳する。
「『当店では最初に人工血液をお出ししております』だそうです」
「水じゃないのか……」
店員はさらに何かを言った。
監視役が一瞬、言葉を選ぶように間を置く。
「……『有料で、人間血液に変更できますが』と言っています」
空気が凍った。
筋肉の男の目が見開かれ、血液操作の男が無言でグラスを見つめる。
亡命者が鼻で笑った。
「ほらな。
ここでは“飲み物”なんだよ」
俺は、ゆっくりとグラスを手に取った。
人工血液。
匂いは、ほとんどしない。
色だけが赤い。
(……匂い)
一瞬、鼻腔の奥に“生臭さ”がよぎった気がした。
だが次の瞬間、それは薄れた。
天井の隅に設置された機械が、低い音を立てている。
「空気清浄機……?」
監視役が頷く。
「血の匂いに敏感な種族が多いので、常時稼働しているのでしょう」
つまりこの店は、匂いすら管理している。
血の国の、食事の作法。
俺はグラスを口に運び、人工血液を一口だけ飲んだ。
味は、薄い。
甘みも苦みも少ない。
何かを模した液体の味だ。
「……水がいい」
俺がそう言うと、店員が首を傾げ、帝国語で何か言う。
監視役が通訳する。
「『水もございます』だそうです」
あるんじゃないか。
(最初から出せよ)
そう言いかけて、やめた。
怒るほどのことではない。
ただ“前提”が違うだけだ。
水が運ばれてくるまでの間、周囲の客の会話が耳に入った。
帝国語だから、意味は分からない。
でも、断片的に分かる単語がある。
「……ニンゲン」
その音だけが、やけに耳に残る。
笑い声が混じっている。
冗談なのか、噂話なのか、分からない。
(俺のこと、か)
そう思うだけで、胃が少し縮む。
食事を注文しようとして、さらに現実を突きつけられた。
メニューは帝国語。
監視役が内容を読み上げてくれるが、俺は途中でやめた。
「……無難なやつで」
「どれが無難ですか」
「肉と、野菜があって、変なものが入ってないやつ」
監視役が少しだけ目を細めた。
「この国で“変なもの”の定義が難しいですね」
「……分かってる」
俺は短く答えた。
結局、選んだのは焼き肉に近い料理と、パン、スープ。
味は悪くない。
むしろ美味い部類だ。
でも、どこか物足りない。
“帝国の料理を食べた”という満足がない。
俺は、帝国の文化に触れているはずなのに、そこから外されている。
食事が合わないだけの話。
——そう言いたくなるくらい、些細なことなのに。
些細だからこそ、刺さる。
俺は箸——ではなくフォークを動かしながら、護衛たちに言った。
「……今日の件、共有する」
誰もが待っていたように姿勢を正す。
俺は、ステラ・ミュラーの屋敷で起きたことを、できるだけ淡々と話した。
チャーム。抵抗不能。声も出せない。
そして、ステラの言葉。
『能力者、いえ日本人の血は違いますわね』
血液操作の男が、静かに眉を寄せた。
「……つまり、日本人は能力者が多い、という話は事実に近い」
「たぶんな」
亡命者がナイフを置いた。
「日本が全力で戦った理由も、それなら説明がつく」
「狙われた、ってことですか」
筋肉の男が珍しく声を落とした。
「食われる側として」
俺は、うなずくことしかできなかった。
監視役が淡々と補足する。
「ステラ・ミュラーの発言は、個人の嗜好ではなく、
社会的認識の可能性が高い」
社会的認識。
つまり、日本人の血が“価値”として共有されている。
念写の男がノートに文字を浮かべる。
《日本人=能力者》
《能力者の血=価値》
《価値があるから狙われる》
俺はその文字を見て、息を吐いた。
「……それで」
筋肉の男が、遠慮がちに言った。
「明日もやるんですか?
正直、吸血鬼の行動なんて信用できないと思いますけど……」
その言葉に、空気が少しだけ揺れた。
否定したい気持ちは分かる。
俺だって信用できない。
ステラは自己責任と言った。
政府は目をつぶれと言った。
この国の仕組みは、人間が無力化されるようにできている。
「やめた方がいい」という意見が出るのは当然だ。
血液操作の男が、静かに続けた。
「護衛がいても、チャームで詰む。
今日、実際にそれを体験したはずです」
亡命者は皮肉っぽく笑う。
「つまり、運が悪けりゃ終わりだ」
監視役も淡々と言う。
「リスク管理としては、継続を推奨しません。
しかし、あなたの目的は“情報収集”です」
視線が、俺に集まる。
俺はフォークを置き、水を飲んだ。
喉が冷える。
頭が少しだけ落ち着く。
「……議論しよう」
俺は言った。
「このまま続ける意味があるか。
そして、続けるなら何を得るべきか」
筋肉の男がすぐに言う。
「得るべきなのは、帰れる保証です!
もう一回やったら、次は確実に安全、とはならない!」
血液操作の男が頷く。
「同意です。
今日の経験は“仕組みが完璧”だと証明した。
同じ仕組みの中に自ら戻るのは合理的ではない」
亡命者は腕を組む。
「でも一回だけで引くなら、最初から来るなって話でもある」
監視役が淡々と整理する。
「続けるメリット:
貴族社会の内側に接触できる。
日本人の血の価値について追加情報が得られる可能性。
帝国政府の黙認ラインを観測できる。
続けるデメリット:
生命の危険。拘束・家畜化のリスク。
あなたが失われた場合、日本政府・国内世論・国際情勢への影響が大きい」
筋肉の男が顔をしかめる。
「ほら、デメリットがでかすぎる!」
俺は頷いた。
「分かってる」
分かっている。
分かっているのに、俺の中で答えはもう決まっていた。
第12話で、俺は確信した。
日本人の血が価値だということ。
日本が狙われた理由。
帝国が日本をどう見ているか。
でも、それはまだ“仮説”だ。
一つの体験で得た線にすぎない。
「……まだ」
俺は言葉を探した。
「まだ、情報と言えるほど何も分かってない」
筋肉の男が反論しかける。
「いや、分かってるじゃないですか!
日本人の血が——」
「分かったのは、入口だ」
俺は遮った。
「ステラがどういう立場で、どこまで政府と繋がってるのか。
あれが本当に“例外”なのか、“日常”なのか。
他の貴族も同じなのか。
人間の能力者が帝国のどこに存在しているのか」
俺は一つずつ指を折る。
「それに、俺が知りたいのは“血の価値”だけじゃない。
帝国がどうやってこの社会を維持しているかだ」
沈黙が落ちる。
亡命者が小さく頷いた。
「……つまり、続ける」
「続ける」
俺ははっきり言った。
「戦果を得られるまで、もう少しだけ」
筋肉の男が悔しそうに歯を食いしばる。
「……ボス、命が軽くなってません?」
その言葉に、俺は少しだけ苦笑した。
「軽くしてるんだよ」
「え?」
「重くしたままだと、動けない」
第10話の沈黙。
言葉が出なかった夜。
正しいという言葉が苦しかった夜。
あのままなら、俺はたぶん何もできない。
だから今は、選択を“軽く”言う。
軽く言って、重いことをする。
監視役が淡々と確認した。
「継続するなら、条件を整えるべきです。
例えば——」
「分かってる」
俺は頷いた。
「次は、俺が無力化された瞬間に外が動けるようにする。
合図が出せないなら、合図がなくても動けるルールを決める」
血液操作の男が目を細める。
「どうやって?」
「観測する」
俺は短く言った。
「ステラの屋敷の構造。
出入りの時間。
使用人の動き。
吸血の流れ。
どこまでが“契約”で、どこからが“逸脱”か」
亡命者が笑う。
「慣れてきたな。
帝国のやり方に」
その言葉が少しだけ刺さった。
慣れたくない。
でも、慣れないと死ぬ。
俺は水を一口飲み、息を吐いた。
空気清浄機の低い音が、店内に溶けている。
血の匂いは、ほとんど感じない。
それでも、脳のどこかが“血”という単語に敏感になっているのを自覚していた。
(……馴染むな)
そう思うのに、もう少しだけ必要だと思ってしまう。
俺はグラスを置き、全員を見渡した。
「明日も行く」
言い切った。
「ただし、全員が納得した上でだ。
無理に付き合わせない」
筋肉の男が即答する。
「行きます!
守るって決めたんで!」
血液操作の男も、小さく頷く。
「……危険ですが、合理的な対策を取るなら」
亡命者が肩をすくめる。
「俺は最初から止める気ない」
監視役は淡々と結論を述べた。
「では、記録を継続します」
念写の男のノートに文字が浮かぶ。
《まだ情報ではない》
《だから続ける》
俺はそれを見て、少しだけ笑った。
食事が合わないだけの話。
そう思いたい。
でも、食事すら合わない国で、
俺は血を差し出して情報を集めようとしている。
それはもう、“食事が合わないだけ”では済まない。
俺たちは無難な食事を終え、店を出た。
外の光は相変わらず明るい。
帝都は今日も整っている。
整っているからこそ、狂っている。
そして俺は——
その狂いを、もう少しだけ確かめに行くと決めた。




