第12話 血の味が示すもの
ステラ・ミュラーの屋敷は、帝都の中でも一段高い場所にあった。
物理的な高さというより、隔絶の高さだ。
通りから門までが遠く、敷地の外周には視線を遮る植栽と結界が張られている。
門をくぐった瞬間、空気が変わるのが分かった。
「……ここが」
俺が小さく呟くと、前を歩く使用人が振り返らずに答えた。
「ミュラー家の私邸でございます」
私邸。
つまり、ここで何が起きても“公的な場”ではない。
その事実を理解した瞬間、背中に冷たいものが走った。
護衛たちは敷地に入る直前で止められた。
正確には、「これ以上は屋内規定により立ち入り禁止」と丁寧に、しかし有無を言わせず。
「問題が起きた場合、即座に対応できる位置で待機してください」
使用人の声は柔らかいが、拒否の余地はなかった。
俺は一瞬だけ振り返り、護衛たちを見る。
筋肉の男は険しい顔で頷き、血液操作の男は何も言わずに目を閉じた。
政府の監視役は、淡々とした表情で立っている。
——ここから先は、俺一人だ。
そう理解して、屋敷の中へ足を踏み入れた。
内装は白と金を基調にしていて、過剰な装飾はない。
だが、壁に飾られた絵画や調度品の一つ一つが、値段を語っている。
「お待ちしておりましたわ」
広間の奥から、ステラ・ミュラーが現れた。
淡い色のドレス。
露出は少ないが、どこか体の線を意識させる仕立て。
麦わら帽子はかぶっていない。屋内だからか、それとも——。
「本日は、よろしくお願いします」
俺が頭を下げると、彼女は軽く微笑んだ。
「ええ。こちらこそ」
その笑顔は、街で見せていたものと変わらない。
けれど、この屋敷では意味が違う。
ここで彼女は、完全に“雇い主”で、“貴族”だ。
「契約の確認は済んでいますわね」
「はい。期間は三日。報酬は事前に提示された通り」
「ええ。条件も」
ステラはそう言って、俺の方を見る。
「強制はいたしません。
拒否する権利もありますわ」
その言葉が、逆に逃げ道を塞ぐ。
「理解しています」
俺は答えた。
「……では」
ステラは小さく手を叩いた。
「準備を」
使用人が現れ、俺を別室へ案内する。
そこは医療室に似ていたが、病院特有の無機質さはない。
むしろ、過度に清潔で、整いすぎている。
椅子に座らされ、腕を差し出すよう促される。
「量は少量です。
貧血になることもありません」
使用人の説明は淡々としていた。
——少量。
その言葉が、逆に現実味を増す。
これは拷問でも儀式でもない。
日常業務だ。
「……準備、よろしいですか」
「はい」
俺が答えると、使用人は部屋を出た。
静寂。
数秒後、扉が開く。
ステラが入ってきた。
「緊張しています?」
「してないと言えば嘘になります」
「正直ですのね」
彼女はゆっくり近づき、俺の前に立つ。
「最後にもう一度聞きますわ」
彼女の声が少しだけ低くなる。
「後悔、しませんの?」
「……後悔はすると思います」
「ふふ」
ステラは、どこか楽しそうに笑った。
「それで十分ですわ」
彼女は俺の腕を取る。
冷たい指先。
だが、力は強くない。
次の瞬間。
痛みは、なかった。
ただ、違和感だけがあった。
歯が皮膚に触れた感覚。
吸われている、という認識。
——動けない。
気づいた瞬間、理解した。
体が、言うことを聞かない。
抵抗しようとしても、指先すら動かない。
声を出そうとしても、喉が閉じたまま。
意識はある。
思考もある。
だが、体だけが“切り離された”ような感覚。
——これが、チャーム。
説明で聞いていたはずなのに、
実感した瞬間、その異常さに背筋が凍る。
護衛がいない理由が、よく分かった。
助けを呼べない。
合図も出せない。
仮に外で異変に気づいても、
中に踏み込めば“契約違反”になる。
完璧だ。
この仕組みは、完璧に人間を無力化する。
——やられた。
そう思った瞬間、別の感覚が流れ込んできた。
吸われているはずなのに、
ステラの動きが一瞬、止まった。
「……」
微かな吐息。
それが、喜びなのか、驚きなのか、分からない。
そして、彼女が呟いた。
「……やはり」
少しだけ歯が離れ、声が聞こえる。
「能力者……いえ」
一拍。
「日本人の血は、違いますわね」
——来た。
その一言で、頭の中の点が一気に線になる。
以前、下調べで読んだ資料。
根拠が薄く、曖昧な書かれ方だった一文。
人間の能力者は、日本人と一部の帝国国民に限られる
当時は、信じ切れなかった。
証拠がなさすぎた。
だが今、体験として理解した。
——俺の血は、特別扱いされている。
能力者だから?
違う。
ステラは言い直した。
「日本人の血」
つまり——。
この世界の日本人は、ほぼ全員が能力者。
能力者の血は、非能力者より“価値が高い”。
吸血鬼やヴァンパイアにとって、“美味しい”。
だから、帝国は日本を脅威と見なした。
だから、世界大戦で全力でぶつかった。
そして同時に——。
だから、日本人は家畜としても、優先的に狙われた。
戦争と、家畜制度と、血の価値。
全部が、一本の線でつながる。
——改変前の世界では、日本はそこまで狙われなかった。
——この世界では、違う。
——俺が、何かを変えた。
それを考えた瞬間、
体の奥に、言いようのない罪悪感が沈殿する。
「……ふふ」
ステラが、満足そうに息を吐く。
「やはり、間違いありませんわ」
彼女は静かに体を離した。
その瞬間、体の自由が戻る。
俺は反射的に息を吸い込み、椅子にしがみついた。
「……」
声が出ない。
震えが、遅れてやってくる。
ステラは俺を見下ろしながら、穏やかに言った。
「安心なさい。
契約は守りますわ」
「……」
「それに」
彼女は、少しだけ首を傾げた。
「帝都を護衛付きで歩く外国人なんて、
どうせスパイか情報収集目的ですもの」
俺の視線が、彼女に向く。
「帝国政府からも言われていますの。
『その程度の行動には、目をつぶれ』と」
淡々とした声。
「ですから、血を少し頂くくらい……誤差ですわ」
誤差。
命と尊厳を含めて、誤差。
——これが、帝国。
俺は、ようやく声を絞り出した。
「……俺が、消えても」
「自己責任ですわね」
即答だった。
悪意はない。
正義感もない。
ただ、そういう世界だと言っているだけ。
「……正直で、助かります」
俺が言うと、ステラは少し驚いたような顔をした。
「ふふ。
面白い方」
その言葉の意味が、今なら分かる。
彼女は俺を“哀れ”だとは思っていない。
“危険”とも思っていない。
ただ、
違う場所、違う価値観で育った存在として、
興味を持っているだけだ。
「今日はここまでですわ」
ステラは背を向ける。
「残りの期間も、同じ条件で。
よろしいですわね」
「……はい」
選択肢は、最初から一つしかない。
使用人に案内され、屋敷を出る。
門の外に出た瞬間、護衛たちが駆け寄ってきた。
「ボス!」
筋肉の男が声を上げる。
俺は、ゆっくり頷いた。
「……大丈夫だ」
大丈夫、ではない。
だが、帰れる。
それだけで、この世界では“上出来”だ。
屋敷を振り返る。
ステラ・ミュラー。
彼女は、敵でも味方でもない。
ただ、
この世界の真実を“味”として知っている存在だ。
そして俺は、
その味を、血で知ってしまった。
——もう、戻れない。
そう確信しながら、
俺は帝都の街へ戻っていった。
血の味が示したものを、
まだ、言葉にできないまま。




