第10話 言葉にできなかったこと
帝都の夜は、昼よりも“安全”に見えた。
少なくとも、吸血鬼やヴァンパイアにとっては。
光は人工で、均一で、管理されている。
影は濃いが、想定された影だ。予測できる暗さだ。
俺にとっては、逆だった。
夜になるほど街は華やぎ、笑い声が増え、店の明かりが増える。
その賑やかさの中で、俺だけが置いていかれる。
この国の「普通」に溶け込めないまま、眩しさだけが積み重なる。
麦わら帽子の女性と別れてから、俺はしばらくひとりで歩いた。
護衛はついている。
筋肉の男が少し後ろで歩き、血液操作の男が周囲を見張り、政府の監視役は一定の距離で影のように付いてくる。
念写の男は、言われなくてもメモを取る準備をしていた。
……なのに、孤独だった。
「何か聞きたいことがあるなら、聞けばいい」
背後から、亡命者が言った。
彼は俺の沈黙を“放っておけない沈黙”だと判断したらしい。
「……聞きたいことは山ほどある」
俺は小さく答えた。
「でも、聞いたら壊れる気がする」
「壊れた方がいいこともある」
皮肉混じりの声。
正論でもある。
俺はそれ以上何も言わず、屋敷へ戻った。
そして、通信端末を握りしめたまま、しばらく画面を見つめ続けた。
連絡先。
帝国の通信許可。
繋がってしまった線。
彼女に、聞きたいことはあった。
帝国をどう思っているのか。
人間を見かけないことを、どう思っているのか。
あの看板を見ても、平気でいられるのか。
そして——日本をどう見ているのか。
8話で聞いた言葉が、まだ胸の奥で冷えている。
日本は、合衆国の一部を領土にした。
その事実が、俺の中の前提を全部ひっくり返した。
帝国だけが異常なんじゃない。
日本も勝っていて、勝った国としての“後始末”を抱えている。
だけど、彼女は責めなかった。
ただ心配するように、丁寧に尋ねた。
その優しさが、今も刺さっている。
(……もう一度会うか)
迷った。
今夜は、疲れている。
頭の中がぐちゃぐちゃだ。
会ったところで、何を話せるか分からない。
でも、逃げても答えは出ない。
俺は、端末で短い文章を打った。
《今夜、少しだけ話せませんか。帝都の広場で》
送信して、すぐに後悔した。
返信が来なければ楽なのに、と思ってしまう自分が嫌だった。
返事は、すぐに来た。
《はい。私も、少しお話したいです。今から向かいます》
……早い。
俺は息を吸って、吐いた。
「行く」
護衛たちに短く告げると、メイドが玄関まで見送りに来た。
彼女は何も聞かず、ただ一礼した。
この屋敷の使用人たちは、俺の“決めたこと”を止めない。止められないのかもしれない。
帝都の広場は、夜でも人がいた。
噴水があり、周囲にカフェや売店が並び、音楽が流れている。
明るい。
安全そうに見える。
でも、俺はその明るさの中に、薄い緊張を感じ取ってしまう。
——ここは帝国だ。
人間が「問題」になる国だ。
争いが起きれば、人間が抑えられる国だ。
それが日常の国だ。
広場の端で待っていると、彼女はすぐに現れた。
麦わら帽子。
季節外れのつばの広い帽子は、夜なのに外していない。癖なのか、身元を隠すためなのか。
服装も相変わらず肌を隠している。
そして、後ろにさりげなく二人。
護衛。
俺の護衛たちが、彼女の護衛たちと視線を交わす。
一瞬だけ、空気が硬くなる。
次の瞬間、何事もなかったように視線が外れる。
俺はその一連に気づかないふりをして、彼女に頭を下げた。
「遅くにすみません」
「いえ」
彼女は丁寧に返し、少しだけ笑った。
「私も、あなたと話したいと思っていました」
その言い方が、少しだけ硬い。
普段の“案内人”の柔らかさとは違う。
「……座りましょうか」
俺が噴水近くのベンチを指すと、彼女は頷いた。
並んで座る。
周囲には人がいる。
だから、安心のはずなのに、彼女は周囲を一度だけ見回した。
それから、意を決したように口を開く。
「今日は……少し本音を言ってもいいですか」
敬語。
とっさの敬語。
それは彼女が迷っている証拠のようだった。
「もちろん」
俺は答えた。
「むしろ、聞きたいです」
彼女は、麦わら帽子のつばを指先で軽く押さえた。
それは癖のようでいて、どこか“自分を落ち着かせる動作”にも見える。
「私は……帝国のことを、好きです」
静かな告白だった。
「帝都が好きですし、文化も、街の綺麗さも、便利さも……」
そこで彼女は少し言葉を探し、続けた。
「でも、全部を肯定できるわけではありません」
俺は頷いた。
「……人間のことですか」
彼女は一瞬だけ目を伏せ、頷き返した。
「はい」
その声が、ほんの少しだけ震えた。
「帝国は……仕方ない、という言い方をされがちです。
『血が必要だから』とか、『生理だから』とか……」
仕方ない。
その言葉で、人権が削られていく。
「でも私は、それを便利な言葉だと思っています」
彼女はそう言ってから、少しだけ眉を寄せた。
「……すみません。変ですね。
帝国の人間が、帝国を批判するなんて」
「変じゃないです」
俺は反射的に言った。
彼女は驚いたようにこちらを見て、また少しだけ笑った。
「ありがとうございます」
一瞬、空気が柔らかくなる。
でも彼女はすぐに、また真剣な表情に戻った。
「それで……日本の話なんです」
胸の奥が、ひゅっと縮む。
「私は、日本を……尊敬しています」
意外な言葉だった。
「尊敬?」
「はい」
彼女はゆっくり言葉を選ぶ。
「あなた方の国は、国民を守ろうとしているように見えます」
守ろうとしている。
「世界大戦で、追い詰められたのに……国が崩れそうだったのに……
それでも、国民の声を拾おうとしている」
拾おうとしている。
「中立を選んだのも、逃げではなく……
『これ以上、国民を戦争に巻き込まない』という覚悟に見えます」
覚悟。
俺は、その言葉を頭の中で反芻した。
(彼女は正しい)
そう思ってしまう。
彼女の評価が、間違いだとは言えない。
帝国は勝った後も、人間を下に置く日常を続けている。
一方で日本は、少なくとも“向き合っているように見える”。
彼女がそう思うのは、自然だ。
……だからこそ。
「帝国は……まだ、人権を無視したことを平気でしています」
彼女が小さく言った。
「それに比べると、日本政府は……立派です」
立派。
その言葉が、胸を抉った。
俺の頭の中では、言葉が溢れ出していた。
——向き合っているなら、なぜ“なかったこと”にした?
——国民の声を聞くなら、なぜ記録を整理した?
——その「立派さ」は、本物なのか?
——そして、その歪みを作ったのは……俺じゃないのか?
言いたい。
聞きたい。
否定したい。
肯定したい。
全部が同時に押し寄せる。
なのに、口が動かない。
唇が、乾いている。
喉が詰まっている。
息が浅い。
(違う……)
頭の中で言葉が形になる。
でも、それを口に出した瞬間、彼女の言葉を汚す気がした。
彼女は今、危険な本音を言っている。
立場上、普段は言えないことを。
お忍びでいる今だけ、せめて俺にだけは本当のことを言おうとしている。
その本音に対して、俺が投げ返すべき言葉は——
正論ではない。
反論でもない。
告白か、懺悔か、問いかけだ。
でも俺は、まだ自分の過去を知らない。
知らないまま懺悔するのは、卑怯だ。
知らないまま否定するのも、卑怯だ。
だから。
俺はただ、黙ってしまった。
「……」
沈黙が落ちる。
彼女は不安そうに俺の顔を覗き込んだ。
「……すみません。
重い話をしてしまいましたか」
違う。
謝るのは、俺の方だ。
そう思うのに、口に出せない。
俺はやっと、かすれた声で一言だけ絞り出した。
「……ありがとうございます」
それだけ。
彼女は少し驚いた顔をして、それからゆっくり頷いた。
「こちらこそ。
聞いてくださって……ありがとうございます」
しばらく、噴水の音だけが聞こえた。
その間、俺の頭の中では言葉が暴れていた。
——日本は立派だと言われて、嬉しいはずがない。
——俺はその立派さの裏にある“整理”を知っている。
——そして、それを作ったのが俺だとしたら?
——俺は、国民を守ったのか?
——それとも、国民から真実を奪ったのか?
罪悪感が、波のように押し寄せる。
まだ確定していない罪。
でも確かに“可能性”がある罪。
その可能性だけで、俺はもう息が苦しくなる。
彼女が立ち上がった。
「今日は、ここまでにしましょう」
その声は、いつもの丁寧さに戻っていた。
本音を言い終えた人の、静かな疲労が滲んでいる。
「……はい」
俺も立ち上がる。
別れ際、彼女は一度だけ言った。
「日本のこと、もし調べて……苦しくなったら」
麦わら帽子のつばの影で、表情が少しだけ隠れる。
「そのときは、連絡してください。
私は……あなたの味方かどうかは分かりませんけど」
迷いながら、それでも続けた。
「あなたが一人で抱える必要はないと、思っています」
その言葉に、俺はまた何も返せなかった。
頭の中には、返事がいくつも浮かぶ。
——ありがとう。
——でも俺は。
——俺がやったかもしれない。
——俺は——
どれも口に出せない。
ただ、頷くことしかできない。
彼女はそれを受け取ったのか、受け取らなかったのか分からないまま、夜の人波に消えていった。
護衛たちが、俺の周りに戻る。
筋肉の男が心配そうに声をかける。
「大丈夫ですか、ボス!」
ボス呼びやめろ。
そう言いたかったが、やっぱり声は出ない。
俺は深く息を吸って、吐いた。
「……帰る」
それだけ言って歩き出す。
帝国の夜は明るい。
明るいのに、胸の中は暗い。
正しいという言葉が、苦しい。
彼女の言葉は正しい。
日本の姿勢も、帝国よりは“まとも”に見えるのかもしれない。
でも、正しさが痛い。
正しさの裏に、見ないふりをしたものがあると知ってしまったから。
そして、その“見ないふり”を作ったのが俺だとしたら——
その想像だけで、俺はもう、言葉を失う。
屋敷へ戻る道の途中、俺は念写の男に目だけで合図した。
彼は理解し、ノートを開く。
白紙に文字が浮かんだ。
《正しさは、救いにならない》
俺はそれを見て、笑うことも泣くこともできなかった。




