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はやくおいでよ

作者: 泉 羅卯
掲載日:2025/11/17

 義人が目を開けると、そこに、妻の英美がいた。

 英美はにっこりと笑っていた。義人に顔を寄せ、

「具合、どう?」

 義人に訊いた。

「病室に閉じ込められてるんだ、いいわけないよ」

 義人は面白くなさそうに答えた。

「相変わらずね」

 そう言うと、英美は可愛らしい声で笑った。

 その華やいだ笑い声に、義人は改めて英美に視線を向けた。

 そうしてみたら、はっとした。義人は思わず言った。

「そのワンピース、懐かしいな」

 英美の服装に視線を奪われた。白いワンピースに、記憶が蘇った。

「覚えてる? この服、初めてのデートのとき、着てたのよ」

「覚えてるよ。どうしたの? それを着るには、少し……」

「年を取り過ぎたって、言いたいの?」

「いや……」

 義人が言葉を濁すと、英美はふふっと笑った。少し義人から遠ざかり、くるりと回って見せた。スカートの裾が軽やかに揺れた。

 見ると、英美は若返っていた。少女のようだった頃の英美が、好んで身に付けていた白いワンピース。それを久しぶりに纏った英美は、あの頃に戻ったように見えた。

 眩しくて、義人は視線を逸らした。なんだか照れくさくなり、

「どうしたんだ? そんなお洒落をして、俺を置いてどこかに遊びに行くのか?」わざとふれくされたように、義人は言った。

「やだなあ」英美が笑った。「そんなわけないよ」

「じゃあ、なんで?」

「義人さんに見せるために、決まってるよ」

「どうして?」

「だって……」

 何か言いかけて、英美はふっと黙り込んだ。相変わらず笑顔のままだったが、意味ありげな目で、義人をじっと見つめた。

 義人は察した。

「そうか」ふうとため息をついた。が、覚悟を決めて、

「俺、もう、長くないんだね。それで、君は、最後に……」

 その先は言えなかった。もう、うすうす、そうなのではないかと思っていた。それでも、いざそのときが近づいてきたら、認めたくなかった。

 そんな義人に、英美が歩み寄った。手をすっと伸ばし、義人の手を握った。

 英美はきっと、そんなことないよと、慰めるのだろう。義人は思った。慰めとわかっていても、その言葉を待った。

 ところが、英美は慰めなど、口にしなかった。

「残念だけど、義人さんの言う通り」義人と同じように、ふうとため息をつき、それでもすぐに明るい顔になって、「でもね。お別れするわけじゃ、ないのよ」そんなことを言った。

「どういうこと?」

「わからない?」

「わからないよ」

「じゃあ、思い出してみて」

「いつの頃を?」

「三年前、かな」英美が遠くの方を見た。「私も以前、この病院に、入院したことがあったでしょ?」

「ああ、そういえば……」

 義人は思い出した。英美が病院のベッドに横たわっていた。今とは逆だった。そのときは、義人が英美の手を握りしめていた。

「あのとき……」英美が言った。「あのとき、義人さんが言った言葉、思い出して」

「言葉?」

「私に、一生懸命に、言ってたじゃない」

「何を?」

「思い出して」

 英美に促され、義人は記憶の糸を手繰り寄せた。思いのほか簡単に、その記憶は手繰り寄せられた。そいつを握りしめ、義人は言った。

「あのとき、俺は君に言ってたね。行くなよって」

「それから?」

「君は笑っているばかりで、何も言ってくれなかった」

「それで?」

「だから、俺、君が本当に行ってしまうと思って、言ったんだ。『俺もすぐに行くよ』って」

「そう言ったね」英美が義人の手を強く握った。

「それなのに君は、『あなたは、まだよ』なんて言ってさ。それで、君は……」

 そこまで言って、義人は「あ」と声を上げた。ようやく、すべての記憶を思い出した。

 それだけでなく、この三年間の想いも、願いも、すべてを思い出した。

 義人は英美に目を向けた。その顔を、まじまじと見つめた。そして、「君は……」と言ってから、言葉を失った。

 義人が黙り込むと、英美は義人の手を離した。ベッドから後ずさり、

「また、一緒になれるね」

 そう言うと、英美は、宙にふわりと浮かんだ。笑顔のまま、どんどん、どんどん、昇って行った。

 それを見て、義人は慌てた。「行くなよ」と言って、手を差し伸べた。

 こんどこそ、行かせはしないと、義人は強く思った。そして、ようやく願いが叶うのだと、喜びがこみ上げた。

 英美が言った。「おいでよ、はやく」微笑みながら、「あなたも、できるから」

 言われて、義人は気づいた。義人も宙に浮かび、昇り始めた。どこまでも、どこまでも、昇って行けるように思えた。

 ふと下を見やると、いつの間に来ていたのだろう、二人の息子や、その嫁たちが、義人を取り囲んでいた。皆が俯いていて、咽び泣いているように見えた。

 けれど、義人は構わなかった。

 英美の方へ手を伸ばした。

 そうして、英美がその手を握ってくれると、ぎゅうと握り返した。

 その途端、視界が開けた。

 懐かしい景色が、そこにあった。

 そこは、浜辺だった。

 青い海が、白い砂が、陽の光を受けてきらきらと輝いていた。

 誰もいなかった。

 ただ一人、白いワンピースを着た英美以外は……。

 英美は、浜辺にぽつんと立っていた。

 義人に気づくと、頬を赤らめて微笑んだ。

 初めてデートをした頃の、そのままの英美が、義人に手を振りながら、

「はやく、おいでよ」

 と、義人に呼びかけた。

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