はやくおいでよ
義人が目を開けると、そこに、妻の英美がいた。
英美はにっこりと笑っていた。義人に顔を寄せ、
「具合、どう?」
義人に訊いた。
「病室に閉じ込められてるんだ、いいわけないよ」
義人は面白くなさそうに答えた。
「相変わらずね」
そう言うと、英美は可愛らしい声で笑った。
その華やいだ笑い声に、義人は改めて英美に視線を向けた。
そうしてみたら、はっとした。義人は思わず言った。
「そのワンピース、懐かしいな」
英美の服装に視線を奪われた。白いワンピースに、記憶が蘇った。
「覚えてる? この服、初めてのデートのとき、着てたのよ」
「覚えてるよ。どうしたの? それを着るには、少し……」
「年を取り過ぎたって、言いたいの?」
「いや……」
義人が言葉を濁すと、英美はふふっと笑った。少し義人から遠ざかり、くるりと回って見せた。スカートの裾が軽やかに揺れた。
見ると、英美は若返っていた。少女のようだった頃の英美が、好んで身に付けていた白いワンピース。それを久しぶりに纏った英美は、あの頃に戻ったように見えた。
眩しくて、義人は視線を逸らした。なんだか照れくさくなり、
「どうしたんだ? そんなお洒落をして、俺を置いてどこかに遊びに行くのか?」わざとふれくされたように、義人は言った。
「やだなあ」英美が笑った。「そんなわけないよ」
「じゃあ、なんで?」
「義人さんに見せるために、決まってるよ」
「どうして?」
「だって……」
何か言いかけて、英美はふっと黙り込んだ。相変わらず笑顔のままだったが、意味ありげな目で、義人をじっと見つめた。
義人は察した。
「そうか」ふうとため息をついた。が、覚悟を決めて、
「俺、もう、長くないんだね。それで、君は、最後に……」
その先は言えなかった。もう、うすうす、そうなのではないかと思っていた。それでも、いざそのときが近づいてきたら、認めたくなかった。
そんな義人に、英美が歩み寄った。手をすっと伸ばし、義人の手を握った。
英美はきっと、そんなことないよと、慰めるのだろう。義人は思った。慰めとわかっていても、その言葉を待った。
ところが、英美は慰めなど、口にしなかった。
「残念だけど、義人さんの言う通り」義人と同じように、ふうとため息をつき、それでもすぐに明るい顔になって、「でもね。お別れするわけじゃ、ないのよ」そんなことを言った。
「どういうこと?」
「わからない?」
「わからないよ」
「じゃあ、思い出してみて」
「いつの頃を?」
「三年前、かな」英美が遠くの方を見た。「私も以前、この病院に、入院したことがあったでしょ?」
「ああ、そういえば……」
義人は思い出した。英美が病院のベッドに横たわっていた。今とは逆だった。そのときは、義人が英美の手を握りしめていた。
「あのとき……」英美が言った。「あのとき、義人さんが言った言葉、思い出して」
「言葉?」
「私に、一生懸命に、言ってたじゃない」
「何を?」
「思い出して」
英美に促され、義人は記憶の糸を手繰り寄せた。思いのほか簡単に、その記憶は手繰り寄せられた。そいつを握りしめ、義人は言った。
「あのとき、俺は君に言ってたね。行くなよって」
「それから?」
「君は笑っているばかりで、何も言ってくれなかった」
「それで?」
「だから、俺、君が本当に行ってしまうと思って、言ったんだ。『俺もすぐに行くよ』って」
「そう言ったね」英美が義人の手を強く握った。
「それなのに君は、『あなたは、まだよ』なんて言ってさ。それで、君は……」
そこまで言って、義人は「あ」と声を上げた。ようやく、すべての記憶を思い出した。
それだけでなく、この三年間の想いも、願いも、すべてを思い出した。
義人は英美に目を向けた。その顔を、まじまじと見つめた。そして、「君は……」と言ってから、言葉を失った。
義人が黙り込むと、英美は義人の手を離した。ベッドから後ずさり、
「また、一緒になれるね」
そう言うと、英美は、宙にふわりと浮かんだ。笑顔のまま、どんどん、どんどん、昇って行った。
それを見て、義人は慌てた。「行くなよ」と言って、手を差し伸べた。
こんどこそ、行かせはしないと、義人は強く思った。そして、ようやく願いが叶うのだと、喜びがこみ上げた。
英美が言った。「おいでよ、はやく」微笑みながら、「あなたも、できるから」
言われて、義人は気づいた。義人も宙に浮かび、昇り始めた。どこまでも、どこまでも、昇って行けるように思えた。
ふと下を見やると、いつの間に来ていたのだろう、二人の息子や、その嫁たちが、義人を取り囲んでいた。皆が俯いていて、咽び泣いているように見えた。
けれど、義人は構わなかった。
英美の方へ手を伸ばした。
そうして、英美がその手を握ってくれると、ぎゅうと握り返した。
その途端、視界が開けた。
懐かしい景色が、そこにあった。
そこは、浜辺だった。
青い海が、白い砂が、陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
誰もいなかった。
ただ一人、白いワンピースを着た英美以外は……。
英美は、浜辺にぽつんと立っていた。
義人に気づくと、頬を赤らめて微笑んだ。
初めてデートをした頃の、そのままの英美が、義人に手を振りながら、
「はやく、おいでよ」
と、義人に呼びかけた。




