第91話 【おまけ】性転換夫妻
「琴、一体いつまで寝てるの」
私――田中 恵那斗は、リビングのソファの上でだらしなく眠っている田中 琴を揺り起こそうとした。
だが、肝心のこの子は全く起きようとしない。不快そうに身体を捩らせたかと思うと「んぅ……」と可愛く呻きながら、ごろりと寝返りを打った。
そのだらしない仕草は、中年時代から一切変わってない。なのに、どうしてこうも愛らしいのだろう。
全く見た目が与える影響と言うのは恐ろしいものだ。
琴が“女性化の呪い”、私が“男性化の呪い”に掛かってからというものの、生活は大きく一変した。
「……っ」
琴が寝返りを打ったその時。寝巻きの隙間から、無防備な腹部がちらりと見えた。
健康的な曲線を描いた、やや丸みのあるお腹が見えた瞬間。
例の如く、ギュンときた。
この「ギュン」という感覚が来るその度、私の行動は見事に抑制されてしまう。「夫婦」という立場に甘えて、つい琴に身体を委ねたいと思う時もある。
だが、琴はきっとそれを望まない。
昔からそうだ。琴は、琴男の時から、「そういうこと」に対して関心を持たなかった。
『……ねえ、琴男。私達、そろそろ……駄目かしら』
『あー……そう、だな。うん、分かった』
それが、私達が初めて結ばれた日のやり取りだ。
煮え切らない態度の琴男を、私が無理やり押し倒した形だった。
まるでタガが外れたように。その日から私は頻繁に、琴男へと迫るようにした。
だが、琴男はまるで「自分が何をされているのか分からない」と言った様子で、私にされるがままとなっていた。
ずっと、彼は何も知らない子供のままだったのかもしれない。
そう、気付かされたのは……田中 琴になってからだった。
「……んー?恵那斗……?」
「あら、おはよう。琴」
「……んふっ」
「なっ……なに!?」
琴は蕩けた笑みのまま、いきなり私の背中に腕を回して抱きついてきた。
まさか琴の方から抱きついてくるとは思わず、私の全身はものの見事に硬直。彼女の小柄な身体に身を預ける形となった。
ちなみに胸の感触はほとんど感じなかった。まあ……琴の良さはそこにないから。
「んふふー……落ち着く……」
「ちょ、ちょっと。離しなさいっ」
「ん〜♪」
頬擦りしながら甘えてくる琴に対し、興奮よりも動揺が勝る。
この子、いくらなんでも寝ぼけすぎ。
私は琴の身体を揺さぶり、強制的に覚醒を促す。
「琴、琴。起きなさい」
「んにゃ……?あっ」
徐々に意識が覚醒していくと同時に、琴の表情は驚愕、困惑、動揺……の順に変化していく。
「わ、あわっ……」
それから琴は、慌てた様子で長い髪で顔を隠そうとしていた。だが、細い髪質の銀髪では、紅潮した顔を隠すことなんてできやしない。
結果として、可愛らしく照れた琴が出来上がった。
目元は涙に潤み、びくりと怯えたように縮こまった彼女の姿に、ドキリと胸が高鳴る。
「っにゃ……!おは、おは、よ……恵那斗……」
「ようやく起きたわね、可愛らしかったわぶっ」
「わ、忘れてっ!!」
琴はとっさに、枕替わりにしていたクッションを私の顔目掛けて放り投げてきた。
いつものことながら、これを47歳男性というのは無理があると思う。
普通に健気な女の子じゃない。
生活能力が終わってるだけの。
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「えっと……洗濯物って、こう畳めばいいの?」
「シワになってるじゃない。違うわ」
「う、むぅ……」
私は少しでも、琴が身の回りのことを出来るようになるべく、生活指導をしている。彼女も彼女なりに、家事を覚えようとしているようだが……一向に上手くならない。
魔物と戦闘する際に用いている、高度な技術は一体どこへやら。
私生活はてんでだめ。
「恵那斗ぉ……、やってー……」
「っ……、自分でやらないと琴の為にならないでしょ」
「うーーーーっ……」
ここ最近の琴は、「甘える」というスキルを覚えた気がする。隙あらば「恵那斗、恵那斗」と男性化した私の名前を呼ぶものだから、つい頬が緩む。
だが、私だって琴を甘やかし続ける訳にはいかないのだ。
「琴。今はあなたがお嫁さんなんだから、家事を覚えて貰わないと困るのよ。私だって覚えたのよ?」
「ふぇっ」
「期待しているからね?」
「も、もうっ……お嫁さん……えへへ」
チョロい。
あまりにも、チョロすぎる。
ただ、若干演技も含まれている気がする。
「……ちょっと、お嫁さんを甘やかす気、ない?」
「怒るわよ」
「きゅぅ……」
全く、隙あらば怠けようとするのには困りものだ。
そんなところすら愛おしいと思えるのは、やはり惚れた弱みから来るものだろう。
ただ、いつまでも琴を甘やかすのは彼女の為にならない。
なにせ、今日はギルドへ出勤する日でもあるからだ。
だというのに、この子は私が引っ張らなければ一向に動かない。
「ほら、今日は内勤の日でしょう?早く支度しなさい」
「うえーーーー嫌だーーーー、ダンジョン行きたいダンジョン行きたい……」
「記録とか、書類整理だって。冒険者の大事な仕事じゃない」
「……うう……それはそうだけど」
私がそう説得すると、琴は重い腰を上げて動き出した。
一人で生活していた時、遅刻とかしなかったのだろうか。あまりにもズボラすぎて駄目だと思う。
余談だが、ダンジョン内で倒した魔物や獲得したアイテムなどをまとめた記録のことを、私達はゲームからもじって「冒険の書」などと呼んでいる。
冒険の書がサーバーダウンなどで飛んだ日には、お気の毒では済まない事態となるのだが。
法律で義務付けられているからこそ、厳重に管理しなければならない。
ところで、冒険者というのは……人の生き死にに最も近い、というのは当然のことだが。
冒険者になるまでに求められるお金が掛かること、覚える内容があまりにも多いこと、等々……冒険者として職務に励む為には、様々な壁を越えなければならない。
ただ魔物を倒して魔石を手に入れる、だけで収まらないのが、現代日本における冒険者の世知辛さである。
琴はしばらく駄々を捏ねた後、渋々カッターシャツとスーツパンツに身を包んだ。ネクタイを胸元できゅっと締めた姿は、社会人と言うよりもどちらかと言えば高校生に見える。
銀色の髪を揺らす彼女は、踵を叩きながら革靴を履いた。
別に内勤であったとしても、スーツを着用する必要は無い。現に一緒に出勤する私は、ジャケットを羽織っているわけだし。
だが、琴にそのことを尋ねると「わざわざ服を考えるのめんどくさいから」と言い切っていた。ちょっと、琴?
ちなみにこの間、土屋さんのセンスで選んだ地雷系ファッションの衣服はあんまり着ていないようだ。
……あのね、琴。「家宝」じゃないのよ?防具は装備しないと意味がないのよ?
もう少し、琴には女性らしい振る舞いを覚えて欲しいとは思っている。
ただ、それが本当に彼女の為になるのかと言えば、わからないのが本音だ。
「ほら、琴。ネクタイ歪んでるわ」
私はやんわりとそう言葉をかけながら、琴の胸元で揺れるネクタイを締め直す。少しだけ胸元で細やかな弾力を感じた気がするが、きっと気のせいだろう。意識してはいけない。
「あ、ありがとう」
「ほら。忘れ物はない?」
「うんっ……あのね、恵那斗」
「どうしたの?」
いきなり、琴は私の名前を改めて呼んできた。
どこか覚悟の決まったような、決まっていないような顔で、私をじっと見上げてくる。
それがあまりにも可愛らしいものだから、思わず私も顔が硬直した。
何度も「うー」とか「えっと」とか、しどろもどろとした後、琴は私の裾をつかみながら呟く。
「えっと、いってきますのちゅー……」
「ぶっ」
「な、なんで笑うんだよっ」
真剣な顔をして何を言うかと思えば、あまりにも子供じみた返事だったので吹き出してしまった。
本当に、大人の真似事をする子供にしか見えない。
私はぽんと琴の頭を撫でて、それから額に軽くキスをした。
たったそれだけで、琴の表情は氷のように固まる。
「な、なななななんっ……」
「琴にはまだ早いわよ。もう少し大人になったらね」
「私、47年も人生生きてるんだけど!?」
「はいはい、ほら。行くわよ」
「あっ……うんっ」
私が先に玄関を出るや否や、琴は小走りで私の隣に駆け寄ってきた。
ここ最近は、近所の方々から「仲の良い兄妹」のような温かい目を向けられることが多くなった気がする。
玄関の鍵を閉め、それから手を繋いで職場へと向かっている最中。
「あっ。こんにちは」
近くに住んでいる、栗色のおさげを揺らした女子高生が私達に語りかけてきた。
彼女は柔らかい笑みを浮かべながら、琴に目線を合わせて話し掛ける。
「こんにちは、琴ちゃん。今日もお兄さんと仲が良さそうだね」
「あっ、は、はいっ。こんにちは……えっと、一ノ瀬さんっ」
「あははっ。名前覚えてくれてたんだ、嬉しいな」
「あっ、あぅ……」
どうやらこの頃、琴は“一ノ瀬”という女子高生からよく話し掛けられているらしい。
彼女は琴の頭をぽんぽんと撫でながら、嬉しそうに微笑みかける。戸籍年齢上、ほとんど彼女と同い年であるはずなのだが……子供をあやすお姉さんにしか見えない。
「うんっ。今日はどこかにお出かけ?」
「あっ、えっと。うん、しご――」
ナチュラルに“仕事”と言いかけた琴の口を、私は素早く塞いだ。
琴は「むきゅ!?」と困惑の悲鳴を漏らしながら、不服そうに私を見上げる。ちょっとだけ罪悪感が湧いた。
私は愛想笑いを浮かべつつ、一ノ瀬さんに即席のエピソードを作って誤魔化す。
「ははっ、すみませんね。ちょっと親戚の葬式に出かけるもので」
「しご……死後?うん、そっか。大変だね」
とんでもない解釈をされてしまった気がするが、余計な誤解の火種が生まれるよりかは幾分かはマシだ。
本当に、琴が歩くだけで辺り一帯に誤解が生まれる。最近は大人しくなったとは言え……いつ、どこでとんでもない爆弾発言をするか予想が付かないのだ。
咄嗟に”よそ向けモード”を作り、懸命にその場をやり過ごす。
「お兄さんも大変なんですね。琴ちゃんのこと、ちゃんと見張っててくださいね?」
「心配してくれてありがとうございます。琴、お姉さんに挨拶しな?」
琴は「まるで子供みたいにっ」と不服そうだ。しかし、一応は「ありがとうございます」と言って一ノ瀬さんにお辞儀した。
彼女もそれで満足したのだろう。
「じゃあ、またね琴ちゃん」と言ってその場を後にした。
ブレザーを着込んだ女子高生の後ろ姿を見送りながら、ついでスーツ姿の琴に視線を送る。
「……琴も、セーラー服……買おうかしら?」
「えっ、いらない」
「即答ね……」
そんなやりとりをしながら、脳内で琴が学生服を着込んだ姿を想像した。
……案外、似合うと思った。




