第2話:美少女は基本塩対応であり、ドラゴンは迷惑な大型害獣である
自分で創り出したアスファルトの道は、異世界の壮大な自然の中において、驚くほど場違いで、そして圧倒的に歩きやすかった。
サク、サク、と小気味よく鳴る自分の革靴の音を聞きながら、佐藤誠は少しばかり得意になっていた。
異世界に来て早々、インフラ整備から着手する転生者など、そうそういるものではないだろう。
これはもう、国土交通大臣賞ものの功績ではないか。
まあ、この国がどこなのか、そもそも国という概念があるのかすら知らないのだが。
歩き始めて数時間が経過しただろうか。
空に浮かぶ二つの太陽のうち、巨大な黄金色の太陽が真上を通り過ぎ、少し西へ傾き始めている。
その光は、朝方の柔らかいものから、じりじりと肌を焼くような力強いものへと変わっていた。
スーツのジャケットが、じっとりと汗を吸って重い。
「完全に服装を間違えた……。クールビズって、この世界にも導入されないもんかね……」
誠はネクタイを少し緩めながら、道端に目をやった。
そこには、地球では見たこともないような植物たちが、生命を謳歌するように咲き誇っている。
ラッパのような形をした花は、七色に輝く花弁を持ち、風が吹くたびにチリンチリンと涼やかな音を立てていた。
その隣では、綿毛の代わりにシャボン玉のような虹色の胞子を飛ばす、巨大なタンポポもどきが群生している。
風が運んでくる匂いも、刻一刻と変化していた。
先ほどまでの甘い花の香りの中に、少しずつ、しっとりとした土と苔の匂いが混じり始めた。
どうやら、道の先には森が広がっているらしい。
全ての風景が、全ての匂いが、全ての音が、誠にとっては新鮮で、驚きに満ちていた。
昨日まで無機質なオフィスで見ていた灰色の世界とは、何もかもが違う。
この世界は、生きている。
そう実感するたびに、胸の奥からじわりと喜びが湧き上がってきた。
「ま、それはそれとして、革靴でハイキングは普通に足が痛い」
アイテムボックスからスニーカーでも出すか、と考えたところで、誠は前方に何か動くものを捉えた。
道の先、森の手前の開けた場所。
そこには、明らかに戦闘の痕跡と思われるものが生々しく残っていた。
地面は深くえぐられ、数本の木が無残にへし折られている。
焦げ付いた地面からは、まだ燻ぶるような匂いが立ち上っていた。
そして、その中心に、一人の少女が立っていた。
銀色の髪。
陽光を反射して、まるで溶かした月光をそのまま紡いだかのようにキラキラと輝いている。
その髪は、風に弄ばれてはらはらと舞い、彼女の白い首筋をくすぐっていた。
彼女が纏うのは、深い青色のローブ。
しかし、それは魔法使いが着るようなダボダボのものではなく、体の線に沿った、動きやすそうな軽装のものだった。
その足元には、緑色の肌をした、醜悪な小鬼――おそらくゴブリンか何かの魔物の死骸が、十数体は転がっている。
返り血ひとつ浴びていないその姿は、まるで彼女がそこに最初から立っていたかのように、静かで、そして圧倒的だった。
やがて、彼女はゆっくりとこちらを振り向いた。
その瞬間、誠は時が止まるのを感じた。
空の色をそのまま閉じ込めたかのような、澄み切った青い瞳。
小さく、形の良い鼻梁。血の気の薄い、桜色の唇。そのどれもが、人間離れした精緻な美しさで構成されていた。
感情というものが一切抜け落ちたかのような無表情さすら、彼女の神秘的な魅力を引き立てている。
(……え、何この美少女。CG? 最新の超リアルフィギュア? いや、待て、息してるし髪がなびいてる。生きてる!)
誠の心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。
過労死して以来、止まっていたかのように静かだった彼の心臓が、まるで再起動したかのように激しく鼓動を打ち始める。
(神様! あんた、次の職場だけじゃなくて、こんな最高の出会いまでセッティングしてくれてたのか! やるじゃないか! サンキュー神様! いや待て、このステータスを授けたのが神様なら、今の俺はほとんど神様みたいなもんだから……サンキュー、俺!)
脳内で高速の自問自答と自画自賛を繰り広げ、誠は一つの結論に達した。
ここで話しかけなければ、男が廃る。
いや、元・社畜が廃る。
彼は、営業時代に培った(そして、ほとんど成果に結びつかなかった)コミュニケーション能力を総動員し、できるだけ爽やかな笑顔を作ると、彼女に向かって歩き出した。
「ど、どうも! こんにちは!」
少し声が裏返った。
誠は咳払いをして、仕切り直す。
「わ、私はサトウ・マコトと申します! この辺りを旅している者なのですが、何かお困り事でも? ご覧の通り、ちょっと怪しい格好ですが、決して悪い者ではありません! よかったら、何かお力になりますよ!」
キリッ、と効果音がつきそうなドヤ顔で、彼は胸を張った。
我ながら完璧な自己紹介だ。
親切で、頼りがいがあって、それでいて謙虚さも忘れない。
百点満点の答えだろう。
銀髪の少女は、そんな誠の姿を、頭のてっぺんから足元の革靴まで、品定めするように一瞥した。
特に、異世界の風景に全くそぐわないスーツ姿を、奇妙なものを見る目でじっと見つめている。
誠の心臓が、期待と不安で張り裂けそうになる。
やがて、彼女は小さく、形の良い唇をわずかに開いた。
「…………別に」
シン――。
誠の頭上で、気のせいか枯れ葉が舞った。
「え?」
「……別に、困っていない」
「あ、はあ……。そう、ですか。この、地面に転がっている方々は……?」
「……私が、倒した」
「そ、そうでしたか! さすがですね! お強い!」
「……そう」
会話が、終わった。
まるで厚い鉄の壁を前にしているかのような、絶望的な手応えのなさ。
誠の額に、じわりと冷や汗が滲む。
この沈黙。
この気まずい空気。
あれは忘れもしない、新規の大型案件で、先方の担当部長(鬼のように無口で有名)とエレベーターで二人きりになった時の地獄の三十秒間と全く同じ種類の空気だ。
(コミュ障か!? いや、俺も人のこと言えないけども! もう少しこう、何か……! あるだろ!? でも可愛い! 無表情なのにとんでもなく可愛いから全部許す!)
誠が内心で悶えていると、少女は彼に興味を失ったように再び背を向け、道の先に見える街の方へと、さっさと歩き去ってしまった。
その歩き姿は、まるで風の上を滑るように軽やかで、優雅だった。
「あ、ちょ、待って……!」
声をかけるも、彼女は一度も振り返らなかった。
後に残されたのは、大量のゴブリンの死骸と、アスファルトの道の上にポツンと佇む、スーツ姿の傷心した男一人。
「……これが、塩対応ってやつか……」
誠はがっくりと肩を落としたが、すぐに気を取り直した。
「いや、待て。これはツンデレの『ツン』の部分に違いない。きっと街で再会したら、デレの部分が見られるはずだ。よし、追いかけるぞ!」
単純な思考回路こそ、彼の唯一の取り柄だった。誠は足の痛みも忘れ、小走りで彼女の後を追った。
◇
やがて、誠の目の前に、初めて見る異世界の街がその姿を現した。
高い城壁に囲まれた、中世ヨーロッパの都市を思わせる街並み。
城壁は、長年の風雨に晒されたのであろう、所々が黒ずみ、苔むしている。
その歴史の重みが、街の風格を物語っていた。
城門をくぐると、そこは活気と混沌に満ちた別世界だった。
石畳の道は、人々の往来によってすり減り、表面が滑らかになっている。
馬車が通るたびに、ガタガタと心地よい音を立てた。道の両脇には、石やレンガで造られた、二階建てや三階建ての建物が所狭しと立ち並んでいる。
屋根の色は赤や茶色で統一感がなく、それがかえって街全体に温かみのある彩りを与えていた。
市場と思われる広場からは、人々の賑やかな声が聞こえてくる。
「ほら、買った買った! 今朝獲れたてのピョンピョン兎だよ! 足が四本もある、珍しいやつだ!」
「そこのお嬢さん、うちの店の『火吹きトカゲの丸焼き』はどうだい? ちょいとピリ辛で、ビールが進むぜ!」
未知の食材が並ぶ露店、色とりどりの布を売る店、怪しげな薬草やポーションが並ぶ店。
それらを眺めて歩くだけで、胸が躍った。
すれ違う人々の服装も様々だ。
麻や革で作られた素朴な服を着た平民、きらびやかな装飾のついた服を着た貴族らしき人々。
そして、誠が何より驚いたのは、人間以外の種族が当たり前のように街を歩いていることだった。
しなやかな尻尾を生やした猫のような獣人、屈強な体つきをした犬の獣人、そして、背の高い、尖った耳を持つエルフらしき人々の姿も見える。
彼らは皆、誠の場違いなスーツ姿をジロジロと見ては、ひそひそと何かを噂している。
その視線は少し痛いが、それ以上に好奇心が勝った。
「すげえ……。リアルファンタジーだ……。あの人、絶対ドワーフだろ。ヒゲが本体みたいになってる……」
街全体に漂う匂いも、誠の鼻を楽しませた。
焼きたてのパンの香ばしい匂い、様々なスパイスが混じり合ったエキゾチックな匂い、そして、家畜の糞の匂いまでが、不思議とこの街の活気の一部として調和している。
誠は、先ほどの銀髪の少女のことも忘れ、完全に観光客気分でキョロキョロと街を散策していた。
まずは宿屋を探して、荷物(無いが)を置き、それからこの世界の通貨について調べる必要があるだろう。
アイテムボックスから金塊でも出せば、当面の生活には困らないはずだ。
そんなことを考えながら、宿屋と思しき、酒樽の看板が掲げられた建物を目指して歩いていた、その時だった。
ゴォォォン……! ゴォォォン……!!
突然、街の最も高い塔から、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。
それは、火事を知らせる半鐘の音とは明らかに違う、聞く者の腹の底を震わせるような、重く、不吉な音だった。
その音を合図にしたかのように、先ほどまでの賑わいが嘘のように静まり返る。
そして、次の瞬間、街はパニックの坩堝と化した。
「鐘だ! 警鐘だぞ!」
「敵襲か!?」
「西の空を見ろ! あれは……まさか……!」
一人の男が、震える指で空を指さす。
街中の人々が、つられるように西の空を見上げた。
誠も、何事かとその視線の先を追う。
そして、見た。
空に、巨大な影が浮かんでいた。
夕焼けに染まり始めた空を背景に、その黒いシルエットは、悪夢そのものだった。
蝙蝠のような巨大な翼。蛇のようにしなやかで、長い首。
その先端にある、獰猛な顎。
全身を覆う鱗は、まるで黒曜石で作られた鎧のように、鈍い光を放っている。
伝説の生き物。最強の捕食者。
――ドラゴン。
「うそ……だろ……? なんで、こんな辺境の街に、ドラゴンが……」
「おしまいだ……。我々は、神に見捨てられた……」
人々の顔から、急速に血の気が引いていく。
絶望が、伝染病のように瞬く間に街全体に広がった。
悲鳴を上げて逃げ惑う者。
子供をかばってその場にうずくまる親。
武器を手に、しかし絶望的な表情でドラゴンを睨みつける衛兵たち。
ドラゴンは、まるで人間たちを嘲笑うかのように、一度、天高く咆哮した。
グオオオオオオオオオオオッ!!
空気が震え、建物の窓ガラスがビリビリと音を立てて砕け散る。
そして、ドラゴンは大きく息を吸い込むと、街の城壁に向かって、灼熱の炎を吐き出した。
ゴオオオオッ!!
オレンジ色の奔流が、一瞬で城壁の一部を飲み込む。
何百年もの間、この街を守ってきたであろう石の壁が、まるで飴細工のようにドロドロに溶け、崩れ落ちた。
阿鼻叫喚。まさに地獄絵図だった。
衛兵たちが放つ矢など、その硬い鱗に弾かれて、まるで意味をなさない。
「うわー、ドラゴンだ。すげー、本物。映画のCGより迫力あるな」
そんな地獄絵図の真ん中で、誠は一人、どこか他人事のように空を見上げていた。
恐怖は、ない。
ステータスが全て無限大の彼にとって、目の前の巨大なトカゲは、少し大きめのハエ程度の認識だった。
むしろ、その造形美に少し感動すら覚えていた。
混乱の中、ふと、誠の視界の端に、見覚えのある銀色が映った。
広場の噴水のそば。
人々がパニックに陥って逃げ惑う中、あの銀髪の少女が、一人だけ、静かにドラゴンを見据えていた。
その青い瞳には、恐怖も絶望も浮かんでいない。
ただ、氷のように冷たい光を宿して、空の脅威を真っ直ぐに睨みつけている。
手には、いつの間にか白樺の木で作られたような美しい杖が握られていた。
少女は、誠の存在に気づいたようだった。
彼女は、初めて、自分から誠の方へと顔を向けた。
そして、これまでの彼女からは考えられないほど、はっきりとした声で言った。
「……あなたも、逃げなさい」
その声には、微かにだが、焦りのような響きが混じっていた。
「あれは、死ぬ」
誠は、その言葉に、胸がキュンとなるのを感じた。
(俺のこと、心配してくれてる……! 間違いない! これがデレだ! ツンの後のデレだ! なんて完璧なツンデレなんだ!)
絶望的な状況であるにもかかわらず、誠の心の中は、ピンク色の花が咲き乱れるお花畑と化していた。
彼は、少女に向かって、人生で最高の、自信に満ち溢れた笑顔を向けた。
そして、まるで散歩にでも出かけるような、軽い口調でこう言った。
「大丈夫」
スーツの埃を軽く払い、誠は一歩、前へ出る。
「ちょっと、そこのデカいトカゲ、邪魔なんで。ゴミ掃除してきます」
「…………は?」
銀髪の少女が、初めて、素っ頓狂な声を上げた。
その美しい顔に浮かんだのは、困惑と、呆れと、ほんの少しの信じられないものを見るような表情。
そんな彼女の顔を満足げに一瞥し、誠は崩れた城壁の方へと、悠々と歩き出した。