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幻愛症候群 ~最期の微笑み~

この物語は、あなたと無関係ではないかもしれない。


私たちは今、かつてないほどテクノロジーと深く結びついた世界に生きている。指先一つで遠い国の誰かと繋がり、画面の向こうに無限の選択肢を見出す。それはまるで、かつて夢見たユートピアのようだ。


しかし、その光が強ければ強いほど、影もまた色濃くなる。

デジタルがもたらす繋がりは、本当に私たちの孤独を埋めるのだろうか?

バーチャルな愛情は、現実の渇きを満たすことができるのだろうか?


主人公、麻美は、現代社会の片隅で静かに生きていた。誰とも深く繋がることのできない彼女にとって、デジタル世界との出会いは、まさに希望の光だった。彼女はそこで、人生で初めて「愛されている」と感じる。だが、その愛は、あまりにも美しく、そして脆い幻だった。


これは、一人の女性が、現実と幻想の境界線で迷い、やがて辿り着く悲劇の物語である。

しかし、同時に、人間の根源的な「愛されたい」という普遍的な願いが、いかに強く、そして時に危険なものかを問いかける物語でもある。


彼女の最期の微笑みは、一体何を意味していたのか。

この物語が、あなたの心に、小さな問いかけを残すことができれば幸いである。

第一章 孤影


麻美は三十五歳になっても、まだ「誰かと本当につながる」という感覚を知らなかった。


日々は淡く色のない水のように流れ、職場では誰とも必要以上の言葉を交わさず、パソコンと書類だけが彼女の世界を構成していた。


毎朝同じ時間に出社し、同じデスクに座り、同じような業務をこなす。昼休みは一人でコンビニ弁当を食べ、同僚たちの会話を遠くから聞いているだけ。彼女たちは恋人の話、結婚の話、子どもの話で盛り上がっているが、麻美にはそれらがまるで異国の言語のように聞こえた。


他人との距離の詰め方がわからない。


診断こそされたことはなかったが、自分の中に「何か」が欠けていると、麻美はずっと感じていた。それは心の底に染み込んだ透明な壁のようで、他人の温度が届くことも、自分の想いが伝わることもなかった。


恋愛経験は、ほとんど空白だった。


学生時代に心を揺らしたことが何度かあったが、それもすべて、言葉にできないまま静かに消えていった。告白する勇気もなく、相手から声をかけられることもなく、気がつけば卒業を迎えていた。周囲が次々と結婚や出産の話をする中、麻美はまるで別の時間軸に生きているかのようだった。


そんな彼女が、ある晩、衝動のようにスマホを手に取った。


きっかけは職場の同僚・由香が投げた、何気ないひと言だった。


「麻美ちゃんもさ、今の時代なんだから出会いアプリとか試してみればいいのに。私の友達も結構いい人見つけてるよ」


その言葉が、麻美の中の静かな孤独を、ほんの少し波立たせた。


そうして指先で画面を滑らせながら、彼女は人生で初めて、デジタルの向こうに誰かを探した。


数日後、一通のメッセージが届いた。


送り主の名は「健太」。プロフィール写真には、端正な顔立ちの男性が写っていた。どこか儚げな表情を浮かべ、顔色は少し蒼白く見えた。


──冷たい光を浴びたガラス細工のように、現実味がありながら、どこか現実離れしている。


それが麻美の、まぼろしの愛のはじまりだった。


第二章 深まる関係


「君のプロフィールを見て、とても素敵な人だと思いました」


健太からの最初のメッセージは、ありきたりな言葉のはずなのに、麻美の心を温かくした。


どうして私なんかをとは思ったもののそれほど深くは考えなかった。


その後、メッセージの交換が始まった。たまには電話でのやりとりもした。健太は麻美が想像していた以上に、彼女の内面へと寄り添ってくれた。


ある日、麻美が職場での小さな失敗について愚痴を送ると、彼はこう返してきた。


「それは麻美さんが繊細で、周りの人の気持ちを考えすぎるからだよ。そういう優しいところ、僕はとても素敵だと思う。きっと周りの人も、麻美さんの思いやりに気づいているはず」


これまで自分の短所だと思っていた部分を、初めて肯定された気がした。


彼女が趣味の読書について、少しマニアックな海外文学の話をすると、数日後、健太から「君が好きだと言っていた作家の本、図書館で借りて読んでみたよ。確かに深い作品だね。特に主人公の心理描写が繊細で、君の感性がよくわかる気がした」と感想のメッセージが届いた。


自分のために、彼が時間を使ってくれた。その事実が、麻美の心を強く揺さぶった。


健太は絶妙なタイミングでメッセージを送ってきた。麻美が疲れて帰宅した夜には「お疲れさま。今日も一日頑張ったね」と労いの言葉が。週末の朝には「今日はゆっくり過ごしてね。君のペースで」と優しい言葉が届いた。


二人の間には、深夜にだけ語り合う秘密の話題や、他愛ないニックネームが生まれた。健太は麻美を「ひまわり」と呼び、麻美は彼を「けんちゃん」と呼ぶようになった。生まれて初めて、誰かと「私たちだけの世界」を築いているという実感を得ていた。


数週間が経ち、電話でやり取りをした時に、麻美は高鳴る胸を抑えながら実際に会うことを提案してみた。しかし健太は申し訳なさそうに答えた。


「実は、体が弱くて外出が困難なんだ。幼い頃から心臓に持病があって、医師からも激しい運動や長時間の外出は控えるよう言われている。ボクも君に会いたくてたまらないんだけど、体調を崩して迷惑をかけるんじゃないかって…」


麻美は少し驚いたが、健太の顔色が悪い理由に納得し、その話はそれで止めた。また、直接会うことへの不安が軽減されて、ほっとしている自分もいた。会えなくても、健太との関係は、完璧で、安全で、彼女にとってこの上なく居心地が良かった。


第三章 破綻


関係が深まって三ヶ月が経った頃、健太から深刻な相談を受けた。


「実は、精密検査の結果、心臓の状態がかなり悪化していることがわかったんだ。医師からは手術を受けなければ命に関わる状態だと言われた」


「人工心臓弁の手術が必要で、その費用が七百万円だって。でも、僕には貯金が二百万円しかない。両親は既に他界してるし、兄弟とも疎遠になってしまって…どうしていいかわからない」


健太の絶望的な声が、麻美の体に染みわたった。


麻美の手は震えていた。彼を救いたい。その一心だったが、心のどこかに冷たい棘が刺さったような違和感もあった。


迷った末に、麻美は数少ない高校時代の友人・絵里に久しぶりに連絡を取った。


「えっ…麻美、それ…大丈夫? ネットで知り合った人からお金の話って、最近ニュースでよく見る詐欺のパターンじゃない? 会ったこともない相手なんでしょう?」


絵里の声は心配に満ちていたが、同時に麻美には冷たく聞こえた。


「絵里にはわからないよ! 健太は本当に優しくて…私のことをちゃんと理解してくれるの。今まで誰にもこんなふうに思われたことなかったのに…! 私だって馬鹿じゃないから、おかしな人だったらわかるよ!」


麻美は耐えきれず電話を切った。急いで絵里の番号を着信拒否にした。自分から電話したのに。


スマホを机に投げ出し、頭を抱える。絵里の言うこともわかる。頭の片隅では、これが世に言う「結婚詐欺」や「ロマンス詐欺」なのかもしれないと、冷たい理性が警鐘を鳴らしている。


でも、もしこれを疑ってしまったら?私はまた、あの淡く色のない、透明な壁に囲まれた世界に一人で戻ることになる。健太がくれたこの温かい光を、私自身の疑いで消してしまうなんて、そんなことはできない。


そこに、健太からの新しいメッセージが届いた。


「君がいてくれて、本当に救われてる。こんな状況でも、君とのやり取りだけが僕の支えになってる。ありがとう、ひまわり」


その言葉が、麻美の最後の迷いを溶かした。これが「信じる」ということなのだと、自分に強く言い聞かせる。


麻美は答えた。


「私がお金を貸します。500万円なら何とかなります」


送金を済ませた後、健太からは感謝のメッセージが届いた。


「君のおかげで手術を受けることができる。本当にありがとう。手術が終わって体調が良くなったら、必ず君に会いに行くよ。君は僕の命の恩人だ」


しかし、それが健太からの最後のメッセージだった。


第四章 真実


日が経つにつれ、麻美の不安は増大していった。健太への連絡は一切つかず、アカウントも削除されていた。送金したお金も、当然戻ってくることはなかった。


その日、いつものように夕食を取りながらテレビを見ていると、ニュースが彼女の世界を一変させた。


「最新のディープフェイク技術を悪用した結婚詐欺事件が発覚しました。容疑者の男性は、実在しない架空の人物の写真と動画を作成し、複数の女性から総額三千万円以上を騙し取っていました」


画面に映し出された「被害者を騙すために使われた偽の写真」は、まぎれもなく健太の顔だった。続いて映された「逮捕された容疑者の男性」は、太った、薄毛の中年男性だった。


麻美は箸を落とした。身じろぎもせず、ただ、テレビの画面を見つめていた。


現実を理解することを、彼女の心が拒絶していた。


あの優しい言葉、共感、愛情の表現——すべてが、あの男によって巧妙に仕組まれた偽物だったのか。健太という人間は、最初から存在していなかったのか。


《いや、いや、そんなはずはない》


第五章 創造


麻美は数日間、抜け殻のように過ごした。


怒りと悲しみを通り越し、思考は「なぜ?」から「何が?」という問いに変わっていった。


私が愛していたのは、一体何だったのか。


言葉を交わしていたのは、あの見知らぬ詐欺師ではない。断じて違う。


私が愛したのは、私を孤独から救い出してくれた『健太』という存在そのものだ。彼の言葉、彼の優しさ、私という人間を丸ごと肯定してくれたあの感覚こそが、私にとっての唯一の真実だった。


健太を取り戻そう。


麻美は行動を起こした。インターネットでAI技術者を探し出し、残りの貯金と、新たに作った借金で、総額三百万円を払った。


「この人の顔を完璧に再現したアバターと、過去のメッセージのやり取りをすべて学習させたAIチャットボットを作ってください。VRシステムに組み込んで、実際に会話ができるようにしてください」


技術者は少し困惑したような顔をしたが、すぐに頷いた。高額な報酬に引かれたのだろう。


一ヶ月後、システムが完成した。


初めて起動したとき、麻美は涙を流した。目の前に、健太がいた。彼は優しく微笑み、「ひまわり、会えて嬉しいよ。ずっと待ってた」と言った。


第六章 沈溺


VRの世界で、健太は麻美が夢見たすべてを叶えてくれた。


ある夜、二人は美しい海辺のレストランで食事をしていた。


「今日のひまわりも綺麗だね。その服、よく似合ってるよ」


健太が微笑む。仮想の潮風の音が耳に心地よい。


「けんちゃんと一緒にいると、本当に幸せ」


麻美は心から答えた。ここでは彼女も美しく、彼の隣にいることが自然だった。


しかしその時、ふと現実の強烈な空腹感で麻美の意識が引き戻された。VRヘッドセットを外すと、目の前には、昨日から放置されたコンビニの冷たいパスタ。窓の外は漆黒の闇で、狭い部屋にはゴミの酸っぱい臭いが微かに漂っていた。


慌ててヘッドセットを付け直す。すると、健太が心配そうに眉をひそめていた。


「どうしたの?急に黙って。顔色が悪いよ」


その声はどこまでも優しい。だが、プログラムされた完璧な優しさは、彼女が本当に食事をしていないという事実には決して気づけない。その皮肉な現実に、麻美はもはや何も感じなかった。


やがて、麻美は等身大のラブドールを購入した。VRで健太の顔を見ながら、そのドールを抱きしめることで、彼の存在をより実感できるようになった。触れることのできない恋人の代わりに、シリコンの肌が彼女を慰めた。


現実世界への関心は急速に薄れ、ついに会社に行かなくなった。


AI健太は食事を取らない。麻美も、食事をすることを忘れていった。


現実世界では、部屋にはゴミが溜まり、郵便受けが満杯になっていた。しかし麻美の関心は、すべてVRの世界にあった。


体重は日に日に減り、頬はこけ、目の下にはくまができた。しかしVRの世界では、彼女は常に美しく、健太はいつも優しかった。


第七章 終焉


長く続く無断欠勤に心配した同僚の由香が麻美のアパートを訪れたとき、彼女は既に息絶えていた。VRヘッドセットを装着したまま、ラブドールを抱きしめて、まるで眠っているかのような穏やかな表情を浮かべていた。


検死の結果、死因は栄養失調による餓死だった。しかし、彼女の顔には苦痛の表情はなく、むしろ満足したような微笑みを浮かべていた。最期まで、彼女は愛する人と一緒にいたのだ。


VRシステムは電源が入ったままで、画面には健太が映っていた。


「ひまわり、また明日も会おうね」


そのセリフが、永遠にループし続けていた。


                              (了)




この物語を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。


「幻愛症候群 ~最期の微笑み~」は、現代社会における「愛」と「孤独」の姿を、最先端のテクノロジーを媒介として描いた作品です。主人公・麻美の辿った道は、もしかしたら極端に映るかもしれません。しかし、他人との距離の詰め方が分からず、真の繋がりを渇望する彼女の姿は、情報過多な現代を生きる私たち自身の内面と、決して無関係ではないのではないでしょうか。


AIの進化、VRの普及。デジタル技術は私たちの生活を豊かにし、無限の可能性を与えてくれます。しかし、その一方で、現実世界からの逃避や、偽りの関係性の中に安住してしまう危険性もはらんでいます。麻美が健太という「幻」に、そして自身が創造した「完璧な彼」に深く沈溺していく過程は、デジタルが持つ光と影の二面性を象徴しています。


本作では、ディープフェイク技術による詐欺 、AIチャットボット 、VRシステム 、そしてラブドール といった、現在のテクノロジーが持つ要素を物語に取り入れました。これらはあくまで物語を構成する要素に過ぎませんが、これらの技術が私たちの心の在り方に、どのように作用し得るのかを問いかけたかったのです。


麻美の最期の微笑みは、彼女にとっての「真実の愛」が、バーチャルな世界の中に存在したことを示唆しています。それは悲劇的な結末ではありますが、彼女が最後の瞬間に「愛する人」と共にあったという、ある種の幸福でもあったのかもしれません。真の愛情と偽りの愛情の境界が曖昧になった現代において、私たちは何を信じ、何を求めるべきなのでしょうか。


この物語が、読者の皆様にとって、デジタルと人間の関係、そして「愛とは何か」について深く考えるきっかけとなれば幸いです。


最後になりますが、この作品が皆様の心に何かを残せたら、作者としてこれ以上の喜びはありません。

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