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儚き少年の想い

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 僕は今、最高の気分だった。

 薬の投与があってから、約一週間が経った現在。体の調子は以前とは比べ物にならないほどに快適になっていた。気絶するほどの睡魔も、失神するほどの空腹も、卒倒するほどの脱水も、昏倒するほどの貧血も、全てが全てもはや過去のものとなっていた。

 この状態になった僕を担当の先生も「驚異的な快復だ」と驚くばかり。近いうちに、余命診断も無くなることだろう。


「本当、こんなことになるなんて、夢にも思わなかったな」

 暖かな日の光が、僕を歓迎するように病室に優しく射し込まれる。僕はあの赤髪の女の子を想いぼそりと呟いた。

 思えば、彼女はどこまで知っていたのだろうか。僕のこの、病気のことを。


 後天性蓄積不全症。この病気を患ったのは小学生になる頃で、僕が世界で初の罹患者だったらしい。そのため治療法も何もなく、問答無用で不治の病となった。

 幸い進行の方はかなり遅かったようで、また脳にまで症状が現れなかったおかげで、点滴などを絶え間なく注入されることで、僕はこの歳まで生き永らえることが出来たのだった。……もっとも、それ以上はなく、どころか最終的には余命をくらう羽目になるのだけれど。


「まぁ、それも過ぎた話だよな」

 ぼそりと、再度。そう。そうだった。あれこれ語ったけれど、結局は過ぎた話なのだ。今更、掘り返す必要はない。僕の視界には今と未来だけで、十分なスペースが埋まっていた。


「さて、と」

 一つ、深く息を吐く。気持ちを切り替えるためだ。未来へと、やりたいことへと、思考を優先させるためだ。

 僕は近くにあった床頭台からスケッチブックを取り出しベッドの机に置く。隣には、有名な漫画家さんの繊細かつ流動性のあるイラスト。開始の合図は要らなかった。僕は、すぐさま模写を始めた。


 あの屋上で思ったように、僕の諦めかけていた願いは何も真琴さんとの恋愛だけではない。死の間際にいる人間だって、将来の夢くらいはあった。それが、これだ。


 僕は、漫画家になりたかった。


 病気を患う前からの憧れだった。人を笑わせて、人を恋焦がれさせて、人をワクワクさせて、人を勇気に震わせて。僕は、そんな力たちに見惚れていた。そんな力を持つ者たちに、見惚れていた。だから、僕もそういう力を持ちたいと思ったんだ。


 一つ一つの線に、一切の妥協を許さず僕は描いていく。物語は既に頭の中にある。しかしそれを実現させるだけの画力が、僕にはまだなかった。絵を描くほどの体力も僕には今までなかったからだ。ゆえに、現状は地道に天才たちの真似事をするのが最優先だった。


 描いて、消して、描いて、消して。自分が納得のいく仕上がりになるまでそれを繰り返していく。楽しいかどうかはまだいまいちよく分からない。ただ、時間の概念を忘れてしまうくらいには、没頭していたらしい。


 ガラガラと、病室の扉を開く音が耳に入る。

「やっほー。お見舞いに来たよ」

 僕のこの病室に来る人は限られている。元々友達は少ない方だったので来る人と言えば家族、幼馴染、真琴さん、部員の面々、後はあの不敵に笑う赤髪の女の子くらいなものだった。

 そして、その中でこんな風に優しく気さくに話しかけてくれる人は僕は一人しか知らない。

 言わずもがな、真琴さんだった。


「日暮さん。いつもありがとね」

 本人の前では、恥ずかしくて真琴さんとは言えない僕。なんと情けない。

「それはもう言わなくていいって、何回も言ってるのにー」

「そうはいかないよ。日暮さんが来てくれるだけで退屈は紛れるからね」


 ふーん、と言いつつも真琴さんはむすっとした表情を作る。愛らしい顔立ちをしているので、特に怖さはなかったが、なるほど。言われてみれば確かにその表情はどこか花凛さんに似ている気がした。


「でも退屈っていう割には、何かにご執心だったみたいだけど?」

 近くの椅子に座る真琴さん。

「あぁ、これをちょっとね」

 僕は進行途中の絵を見せる。

「……へぇ。また、絵描き始めたんだ」

 嬉しそうに真琴さんは微笑んでくれた。その表情に僕は顔が熱くなって、彼女から視線をずらし頬を掻く。


 そういえば、僕が絵を見せたのも、その絵を褒めてくれたのも、真琴さんが初めてだった。というか、それが要因となって僕は真琴さんに恋をしたのだ。


 屈託なく笑う顔に、純粋なその声で、「古木君の絵すごい好きだよ」だなんて無垢な言葉を告げられては、人生経験も対人関係も希薄な僕の心は容易に射抜かれるというものだった。


「相変わらず上手だね。もう本物と遜色ないぐらいじゃん」

「ま、まだまだだよ。細かく見れば線の粗さが目立つし、それに今は模写ってだけで絵に自分らしさはないから」

「あはは、謙虚だねぇ。いや、客観的なのかな? まどちらにしても、私は君の描く絵が好きだよ」


 人懐っこい笑みを浮かべて、またその言葉を告げる真琴さん。僕の心はどうにもときめいてしまう。


「ま、まぁ待っててよ。これからもっといっぱい練習して、いつか最高の漫画を描いてみせるからさ」

 出来るだけ冷静さを装って勇ましい台詞を吐いてみる。けれど。

「うん。待ってる」

 あぁ、やっぱりダメだ。ただのなんてことない会話なはずなのに、胸の高鳴りはあまりにもうるさかった。病気が快復する前なら、死んでしまっていたのではと思うほどに。


「ところで、なんだけどさ」

 すると、どうしたのか真琴さんの声のトーンが僅かに落ちる。気まずそうに髪の毛先をくるくるといじっていた。


「古木君。あなたのしたいことって、何かな? あーもちろん漫画家っていうの以外でね」

「したいこと? そんなの、いくらでもあるよ。今までずっと燻ぶってきたんだ。皆が楽しいって思うことも、面倒くさいって思うことも、当たり前に思っていることも全部が全部僕のやりたいことさ」

 はっきりと僕は言う。他とは違う人生を歩まざるを得なかった僕だからこそ、願いの数は桁違いに多い。

 

「そっか」

 真琴さんは、腕を組み思案しているようだった。

「……じゃあさ、そいつらをさ余すところなく叶えたいって、思ってる?」

「うん? そりゃ、もちろん」

 さっきから質問の意図が上手く読めないが、とりあえずに僕は頷く。

「それは、どうして?」

 またもやだ。

「どうしてって、僕は今まで散々な目に遭ってきたからね。何の自慢にもならないけど、僕は他の同年代と比べて間違いなくぶっちぎりで不幸な人間だって自負してる。だから、これからの人生はもっと幸運に見舞われて生きていたいって思うのは、当然じゃない?」


 運は収束するという言葉を僕は信じているんだ。その言葉があったからこそ、ここまで生きてこられたと言っても過言ではないほどに。そして、今こうして病気が治り始めている。まさしく不幸が幸運に反転し始めているようなものだ。


 と、僕は自信たっぷりに回答したけれど、真琴さんはただ黙っていた。どこか憂いを帯びた瞳が伏し目がちになって、いつもの彼女とは思えないくらい静謐で大人びた雰囲気を放つ。何だか不明瞭だが、変にそわそわとしてしまった。


 やがて、ぽつりと。あどけない唇が開かれる。

「……このままだと、おんなじだよねぇ」

 小さな声だった。意味も分からない。この部屋には僕と真琴さんしかいないはずなのに、違う誰かに対する言葉のように、それは感ぜられた。


「日暮さん?」

 真琴さんは、ハッと顔をこちらに向ける。

「あぁごめんね、変な事訊いちゃって。ちょっとした確認だったんだ。んで今、天秤があの子の方に傾いた」

「天秤? あの子?」

「うん。こっちの話。詮索はしないでくれると助かるかな。何しろ、乙女の秘密だから」


 と、おどけたように言って、にししと笑いながら人差し指を立てて唇まで持っていく。そう言われてしまうと、何も言及は出来なかった。


 それからは、まるでその話題には触れられたくないと言わんばかりに、真琴さんは話を真逆の方向へと展開させてしまった。とは言え、僕としては彼女と話せるだけで基本満足なので、特に気には留めなかった。


「よしっ」

 しばらく会話が過ぎ去ったのち。これはラッキーと言えばいいのか、真琴さんは突然僕の手を取った。あまりに突如として訪れた小さな柔らかい手の感触に、油断していた僕の心臓はバクバクと地ならしを鳴らす。


「ど、どうしたの?」 

「古木君って今どれくらい動けるの?」

 僕の質問は横に置かれた。

「え? まぁ、点滴受けながらになるけど、大体この病院内を動けるぐらいかな……」

「そ。ならちょっと出かけてみない? 私意外とこの病院のあちこち見たことないんだよねー」


 僕の手を取ったのは、そういうことだったらしい。元から結構好奇心旺盛な方である彼女だ。納得はいった。けれど、そこに僕を連れていくっていうのは、それは、えっと。


「どうかしたの? 早く行こうよ。デートにさ」

 にいっといたずらめいて真琴さんは笑う。僕の考えていたことがどこかの未来人みたいにバレバレだった。というか、これもう僕の想いバレてないか?

「う、うん」

 なんて、そんなこと訊ねてみるわけにもいかず、結局僕は真琴さんに手を引かれるまま病室を後にしたのだった。 


 頭がボーっとしていた。病院内を散策している間、真琴さんは何故かずっと僕の手を握ってくれていた。


 そのため、いつもより彼女との距離が近い。ボブの毛先からふんわりと香る柑橘系の匂い。僕よりも小柄で華奢な体躯。それとは対照的にくりくりとした大きな瞳に長い睫毛。どれもこれもが魅力的で、僕の頭はクラクラしていく一方だった。


 もちろん、だからと言って真琴さんとの会話を蔑ろにしていたわけではない。僕自身も病院を改めて見て回るというのは、それなりに興味があったし。


 しかし、意気揚々と出て行ったはいいものの、結局あくまでここは病院。観光名所ではなく医療を取り扱う施設である以上、物珍しさこそあれど心沸き立つものがあるということはない。したがって、一通りを回るのは、瞬く間に終わることになる。


「ふぅ。ちょっと疲れちゃった」


 そして現在は一休みと銘打って、僕らはとある場所へとやってきていた。告白が失敗し、赤髪の女の子と出会った因縁のある場所。すなわち、屋上である。


 秋の夜長、というのだろうか。今は十七時ぐらいだというのに、空には既に闇が覆い尽くされていて、点々と星々が小さくきらめいていた。


「綺麗だね」


 ベンチに座って、感慨深く空を見上げる真琴さん。僕もそれに倣う。周りには誰もいないからなのか、空気が安らかに静寂を謳っていた。それがただ心地よく、目を瞑って身を浸す。


「……日暮さん」

 そのままに、僕はずっと気になっていたことを口にした。

「今日の君は、なんだか変だ。突拍子もなく僕を連れ出してみたり、よく分からない質問をしてみたり。いつもの君なら、こんな事はしないはずだ。一体、どうしちゃったの?」

「うーん。どうしちゃったんだろうねぇ」


 ゆっくりと間延びした声が夜空に響く。言葉とは裏腹に分かっているって感じの声だ。

「なんて言えばいいのかな。確認であり、餞別であり、計画であり、みたいな?」

 またも意味の分からないことを言う真琴さんだった。計画って、花凛さんじゃないんだから。

 ……ん? いやまさかあの未来人、言ってないよな? あろうことか、自分の母親になんて。


「私ってさ」

 僕の懸念をよそに、真琴さんはそれ以上話すつもりはないのか代わりとばかりに違うことへと話題をシフトさせた。

「結構酷い人間なんだよ。君は優しいって言ってくれるけどね」

 想像だにしていない言葉が降ってきて、思わず僕は瞑っていた目を見開いて彼女に向ける。

 真琴さんは、小さく笑っていた。


「私はね古木君。どこか打算で動いている。こう言ったら喜ぶだろうなとか、こうして欲しいのかなとか、そういう風に私は動いている。私の中には、冷めた自分がいるんだ。現実主義で、人との関係を一歩後ろで観察するような、他人との関係に利益があるかとか考えるような、そんな、私がいる」


 淡々と緩やかに、いつも明るく愛らしいはずの女の子は言葉を連ねる。僕はいきなりな話に、戸惑うばかりだ。

「あはは、驚いているねぇ」

 しまった。顔に出ていたらしい。

「……ねぇ、古木君」

 そこで彼女は、ゆっくりと僕の頬に手を伸ばした。ひんやりとして儚い指先が、僕の心は掴んで離さない。


「だから、計算ずくで動く私だから、君への振舞いも私の手札から選んだものだよって言ったら、君はどう思う?」

 真琴さんは笑っている。僕を救ってくれたあの不敵な少女のように、妖しく、美しく。

「君は、それでも――」


 瞬間、風が吹いた。秋風だ。ひんやりと冷たく僕らは身震いをしてしまう。おかげで、真琴さんの紡いだ言の葉もどこか遠くへと飛んで行ってしまった。


「ううん。ごめん、やっぱ何でもない。さ、そろそろ寒くなってきたし戻ろっか」

 言って、どこか儚げだった女の子は立ち上がる。僕も当てられた雰囲気からハッと正気に戻って、急いで立ち上がった。

 ただ。

「日暮さん」

 何かを、伝えなければいけない気がした。

「変わらないよ。僕から見える君は、何も。打算だろうが何だろうが、君がお見舞いに来てくれたことは、君が僕のために泣いてくれたことは、本当なんだ。日暮さんは、やっぱり優しい人間だよ」


 何故突然真琴さんがこんな話をしたのかも、先ほど何を言いかけていたのかも、僕には分からない。分からないくらいには、僕の対人経験は少なくて、やっぱり僕たちの距離は遠い。

 でも、だからって。僕は真琴さんが好きなんだ。


「……そっか」

 ふっと、真琴さんは肩の力を抜くように息を吐いた。白い息が、空を掠めた。

「ありがとね、そう言ってくれて。君も十分、優しい人だよ」

 お返しとばかりに告げられて、僕は気恥ずかしくなる。

「それじゃあ本当にそろそろ戻ろうか。また病気が悪化でもしたら大変だしね」

「うん」

 真琴さんの言葉に頷き、僕らのこの奇妙な時間は終わりを告げる。


 今日は、なんだかんだ言っても楽しかった。真琴さんの言動には何かしらの思惑があったとは言え、いつもお見舞いに来てくれる時よりも時間の密度は濃かった。甘美と言うにも甘すぎるくらいだ。

 けれど、気のせいだろうか。屋上を去る時、彼女の顔がどこか悩んでいるように見えたのは。


病室までの帰り道、僕の手は引かれなかった。


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