最高の自殺
3
それから花凛さんは未来での情報をそれとなく伝えてきた。
現代では治すことが不可能とされたこの病気も、研究と実験が進み治療薬の開発にまで至っていること。タイムマシンが完成し、実用化の段階に入っていること。他にも色々とあったがとにかく、全くもって信じられないような話たちが僕の前では展開されていた。
そして。
「い、一応の確認だけどさ。君の名前は偽名って、わけじゃないんだよね?」
「当たり前でしょ。何なら、持ってきた保険証とか戸籍でもお見せしましょうか?」
「そ、そこまではいいよ」
あまりの毅然な態度に引き下がる僕。
こちらとしては、いきなり僕の好きな女の子の娘を名乗る人物が目の前に現れたので、そうそう易々と受け入れられないという気持ちが強かったわけだが、こうも強気に出られてしまうと全ては水泡と化す。
「でも、そうなるとだよ」
僕は浮き上がった疑問をそのまま口にすることにした。
「君は、真琴さんの娘だという君は、どうして僕を助けたの? 君はあの屋上で交渉って言ったよね。なら、君は僕を助けて何をさせたいの? 何をしに、ここにやってきたの?」
矢継ぎ早に訊いているようだが、全部大体同じニュアンスだ。要は花凛さんの目的だ。単なる慈善事業をするような性格には思えないし、何より屋上で最後に聞いた『あの言葉』が一番引っかかっている。
花凛さんは、僅かに口の端を吊り上げて。
「屋上で言った通りだよ」
答え合わせは、すぐにやってきた。
「私は、ここで自殺をしたいんだ」
「自殺……」
やっぱり、聞き間違いではなかったらしい。彼女の本懐はそこにあった。自殺をするために、僕を助けたのだ。
「あぁ断わっておくけど、ただの自殺ってわけじゃないよ。私がしたいのは、誰からの制止も説得も否定も受け付けない、誰からも有無を言わせない、そんなとびっきりに最高なハッピーエンドじみた自殺だから」
「うん? なに、それ?」
思わず、僕は首を傾げる。ハッピーエンドじみた自殺。むしろ矛盾していそうな言葉だった。いや、そりゃあ自殺する本人からしてみれば、地獄から解放される手段の一つではあるのだから恍惚な気持ちになる人もいるにはいるのだろう。
しかしそれは、良くてメリーバッドエンドってやつだ。一方面だけが幸せで、他方面ではバッドエンドに他ならない。ゆえに、彼女が言うような自殺は存在しないとすら思う。
なので僕は今多分苦言を呈したくてたまらない顔をしているはずなのだが、不敵な少女の表情は不敵なままで一切変わらない。自分の言を補足するつもりはないようだった。
「……まぁ、その最高な自殺だか何だかはとりあえず置いとくとして、君の目的は分かった。だけど、それが僕を助けるのとどういう繋がりがあるわけ?」
――と問えば、途端に。
空気が変わった。花凛さんの表情に、真剣さが帯びたからだ。僕は、自分の質問が原因だと察し自然と背筋が張った。
「お母さんの、運命が変わるって言ったら、伝わるかな」
「運、命?」
理解が及ばない。でも、何故だろう。何か、嫌な予感がした。
「あなたはさ、本来つまり私がいなかった場合、どうなっていたと思う?」
声のトーンが先ほどよりも低くなっている。慎重に答えるべきだと、心は告げていた。
「……きっと、死んでいたんだろうね。告白に失敗して、生きる支えがなくなって、失意のうちにあっさりとあの日に死んでいく」
情けない話だし昨日と言っていいのかは分からないが、それは実感した。
うん、と彼女は満足そうに頷いて。
「話が早くて助かる。じゃあさ、その後、あなたを失った後お母さんは誰と付き合ったと思う?」
「え? そ、そんなの分かるわけないよ」
なんて酷なことを訊いてくるんだ。と、思ったのだけれど。
何故か、訊ねた花凛さんの瞳の方が少し黒ずんだ気がした。
「あなたと同じ学校の、もっと言えば同じ部活の生徒だよ」
……何だって? ま、まさか、彼、なのか?
僕が既に余命宣告を食らっていたからと言って、何も延々と病室にいたわけじゃない。
一年前、つまり高校に入学する一年生の時には、僕も体の調子が不思議と良く学校に通っていた。というか、その時に僕は出会って恋をしたんだ。同じ美術部に体験入部しに来ていた日暮真琴さんに。
――そして、体験入部には、もう一人いた。ちょうど、目つきが花凛さんと同じくらい鋭い、男子生徒が。
「三年生くらいの頃だよ。お母さんは、その男子生徒と付き合った。あなたを失ったショックにうまい具合に付け込んだんだろうね、男の方からの告白にお母さんは思わず了承したんだ」
花凛さんの声を聞いていく度、僕の心はずきずきと痛んだ。彼女が話すは、まだ起こっていない未来の話。言ってしまえば、実感の湧かない他者の話だ。だのに、あまりにも僕はいたたまれない気持ちになっていた。
「ま、まぁ真琴さんが選んだ人だ。きっとその人も素晴らしい人だったんだろうね」
こういう時に、恨み言を募らせられない僕だ。大切な人を取られたというのに、この時点で想いの強さで負けているのかもしれない。一人反省する僕だった。
しかし、花凛さんは。
「――んなわけないでしょ」
やや怒気の孕んだような低い声音で、僕の言葉に強く否定していた。少し、たじろぐ。
「あの男が素晴らしい人間? だったら私はここにいないっつーの。お母さんがあんなことになったの、誰のせいだと思ってんのさ」
もはや瞳は、僕じゃない誰かを見据えているようだった。雰囲気が一変した彼女に、先ほどのどこか飄々としたところは感じられない。
「花凛、さん?」
「……ごめん。ちょっと乱れた」
僕の言葉で正気に戻った彼女はそう言って、少し俯く。
「花凛さん。あんなことって? 真琴さんに、何があったの?」
出来るだけ、僕は気を触れてしまわないよう優しく訊ねる。僕としても、消化不良では終われないのだ。
花凛さんはゆっくりと深呼吸をして、冷静さを取り戻してから再度話し始めた。
「お母さんとその男はさ、結構関係も上手くいったらしくて高校を卒業して大学を出た後、結婚までいって、そして私を産んだんだけどさ」
と、そこで区切って、彼女は憚れるほどに震えた声でその先を紡いだ。重く、重く。
「私が中学生になったあたりだよ。お母さんは――自殺したんだ。私と、その男のせいで」
瞳に、光はなかった。汚濁を詰め込んだような、鈍色に染まっていた。
「目の前で見たよ。お母さんは、首を掻っ切って死んだ。私たちとの絆を終わらせるようにね。それが、お母さんが辿る最悪な運命なんだ」
「…………」
僕は、何も言わない。言えない。
その言葉から、どれくらい時間が経ったのだろうか。数分か数十分か。あるいはほんの数秒だったのかもしれない。その間、ずっと僕らの音は止んでいた。周囲の音だけがけたたましかった。風が、姦しく窓を叩いていた。
まぁだからねと、花凛さんは無理やりにも思えるくらいに調子を戻して。
「古木君。あなたには、代わりになって欲しいの。あの最悪なクズとお母さんが結婚しないように、運命を変えるために、あなたが、日暮真琴のことが好きなあなたが、結ばれて欲しい」
言って、花凛さんは真摯にひたむきに、僕に向かって頭を下げた。僕は、一度唾を飲みこむ。
分かっている。これが意味することを理解出来ないほど、僕は浅慮ではないつもりだ。
ハッピーエンドじみた自殺とは、彼女の本懐とは、つまりは僕と真琴さんが結ばれるということだった。
それは、花凛さんがいた未来とは違う道筋を辿るということで、日暮花凛という存在そのものが、世界に塵すら残さずに消えてなくなるということ。
自らの手で、存在を消す。普段僕たちが連想する自殺と、何ら相違はないだろう。
「……花凛さんは、本当にそれでいいの?」
出来ることなら引き留めたくて、そんな風に僕は訊いた。
僕は自分が幾何もない命だったために、己の命を無下にすることに関しては懐疑的だ。というか否定的だ。綺麗事なのかもしれないけれど、仮にどんなことが、どんな過去があったとしても、命の灯は絶やすべきではないのだと僕は思う。
生きていたら、必ず報われることがあるってそう信じていたい。
でも、花凛さんは。
「いいんだよ。それで。それが、せめてもの償いなんだから」
何もなかった。逡巡も迷いも、葛藤も恐怖も、何も。何の感情も持っていない声だった。
ただそうなるのが当たり前のように、指先を動かすぐらい軽々しく、彼女は死を望んでいた。
――あぁ。僕は理解する。この人は次元が違うのだと。言葉なんて、人間なんて介入する余地がなかった。この人の中で、人生は、世界は、とっくの昔に終わっていたんだ。
「はぁ」
癖のようにため息をついた。僕は、諦めるしかなかった。
「分かったよ。了承する以外に選択肢はなかったとは言え、君と僕はあの日契約を結んだんだ。そして君は僕の望みを叶えてくれた。なら、今度は僕の番ってわけだ。なんでも要望は聞くよ」
「……ありがとう」
花凛さんは僕の顔を見つめて、嬉しそうに笑っていた。あどけない赤髪が揺蕩っているのも相まって、不敵な少女は無邪気な子供へと変貌していた。
「よし!」
雰囲気を戻すためにも、僕は声を張る。
「じゃあそうと決まれば、明日の告白は絶対に成功させなくちゃだね! 頑張るよ僕」
僕なりの計画に前向きな意気込みを表現した言葉だった。が、何故か花凛さんの顔は反比例するかのように冷めていった。
「……告白するつもりなの、古木君」
疑問符がついていない。こわい。
「う、うん。ダメ、だった?」
「ダメ。絶対にダメ」
有無を言わせない声だった。
「え、え? なんでさ。もう真琴さんが気にするような不安材料はないんでしょ、僕には。だったら可能性がないわけじゃ――」
「はぁぁぁ」
抗議する僕を、ものすごくデカいため息で一蹴する。なんなんだ。
「あのね古木君。君は分かっていない。お母さんは君が思っているよりも優しい人間で、ずっと理性的だよ。君はあの時お母さんが告白を断った理由が、本当にあんな理由だと思ってるの?」
「ど、どういうこと?」
「マジで鈍いね君。あれは嘘も方便ってやつだよ。だから今のところお母さんが君に対して抱いている気持ちは、善意九割好意一割ぐらいだよ」
「う、嘘でしょ? そんなわけ、いや、でも」
唐突なショックに思考がまとまらない。確かに真琴さんは僕に対して恋愛感情は持っていないとは思っていたけれど、そこまで何とも思われていなかったなんて。
がっくり項垂れる僕を見て、花凛さんは全く、と嘆息した。
「今のところは、だよ古木君。大丈夫。これから二人のことは私が全面的にサポートして、絶対的にお母さんと付き合えるように仕向けてみせるから」
「仕向けるって……」
随分と物騒な物言いである。が、まなんだかんだ言っても、その力強い言葉にいくらか安心は出来た。
「――と、まぁはい! じゃあそんな感じで!」
そこで花凛さんは切り替えるように、胸の前でパンと手を合わせる。
「色々とあれこれ言ったけど、一応これで一通りかな。どうですか、ご満足いただけた? それともまだ何か質問でもある?」
「……いいや。ひとまずは、十分だよ。ある程度は理解出来た」
首を振って僕は答える。疑問はないわけじゃなかった。彼女が話した真琴さんの運命の詳細とか、どうやって付き合わせるのかとか、そういうこと。
けれどこれ以上訊いてさらに情報量を増やしてしまうのは、僕には得策とは思えなかった。現状でパンクしそうなのだ、僕の頭は。
僕の返答に、彼女は「そっか」と平淡に呟くのみ。
それから、少し沈黙。すべきことは終わったのか退屈そうに僕の病室をぶらぶらと歩き回っている花凛さんを視界に収めつつ、僕は少し思案に暮れることにした。
未来を変える。今を変える。
現実を改変するという話には様々な解釈が存在しているが、その中の一つとしてバタフライエフェクトという言葉がある。
どこで知ったのかは忘れたけれど、簡単に言えば蝶が飛ぶか飛ばないかの些細な差異だけで、未来は大きく変わってしまうということだ。
であるならば、僕が生きているというルートを辿った先の未来は一体どうなっているのか。
ひょっとして僕は、仕方のないこととは言えとんでもないことに足を突っ込んでしまったのではないだろうか?
僕という存在が死ななかったことで、世界が滅ぶ可能性だってないわけじゃない。彼女はそれも想定済みで、覚悟の上で、今を変える決断をしたのだろうか。
――いや、違うか。もはや彼女は考えていないのか、未来のことなど。
「ん? どうかした?」
こちらを向く花凛さんの顔は、およそ大罪を犯したかもしれない人間とは思えないほど、ひどく幼かった。
「なんでもないよ」
……まぁ、正直かなり不安ではあるが、どうなるにしろ僕に未来のことを知るすべはない。そして、僕が彼女に助けられたのは紛れもない事実なのだ。
なら、僕がするべきは未来への杞憂ではなく、救ってもらったこの命を彼女への恩返しに使うことなのだろう。
「それで?」
というわけで僕も共犯者の意識を持つことにし、彼女よろしく悪い顔で笑ってみる。出来ているかは分からないけれど。
「君の計画や諸々を知った僕はさしあたって、何をすればいいのかな。どう動けば計画は上手くいくのかな。教えてくれよ、首謀者さん」
しかし花凛さんは、驚いたようにその大きな瞳をぱちくりとさせるだけ。
「いや、何もしなくていいけど」
え。
「ていうか何も出来ないから。いくら治療薬って言ったって、未来でもあなたの病気は難病に指定されてるの。そんな今日明日で動けるようになる優れものでもないんだよ、この薬。だし、週一ぐらいのペースで繰り返し飲まなきゃ、すぐに元通りだ。だから当分の間は今まで通り、質素な病院生活を送っててよ」
「そ、そういうものか」
何だか引っかかる言い方だったが、納得はいった。ここまで長年引っ付いてきたしぶとすぎる病気だ。たかだが二十五年後の医療で簡単に消滅出来るほど、都合良くはいかない。
「まぁ気長に待ってな。あなたは私の計画の要にしてリーサルウェポンなんだ。動いて欲しい時が来たらその都度頼むからさ、それまではこの花凛ちゃんに任せておきなって」
自信満々に胸を張る花凛さん。そこまで言われるとこちらとしては頷くしかなかった。
「……っと」
そこで途端に眩暈、というより激しい睡魔に襲われた。それもそのはず。さっきまでは衝撃の連続で眠気が吹っ飛んでいたのだろうが、僕の体はずっと異常なほどの睡眠不足に悩まされてきたのだ。つまり、薬によって病気が治りつつある今、いくら寝ても体は睡眠を欲する。
「もう話すことも話したんだし、そのまま寝ちゃったら?」
僕の様子を見てにべもなく花凛さんはそう提言する。
「……うん。そう、させてもらうよ……」
突発的に霞み始めた視界のまま、僕はたどたどしく返事をする。普段ならば、出来ないことは言わないでくれとでも言っていたと思うが、今ばかりは素直に応じる。
「……花凛さん。君が、これからどういう行動に出るか……僕には分からないけれど、君は、とっても、大事なことをしているような気がする。だから僕も、ちゃんと、手伝うからさ、遠慮なく言ってね。……じゃあ、そういうわけで、おやすみ……」
寝ぼけた声で僕は宣言的なことを彼女に告げる。そうして、静かに。
僕の瞼の帳は、ゆっくりと下りていった。
「うん。おやすみ」
最後に聞いた花凛さんの声は、いたく優しかった。