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執着点

 27



「いいかい? 君は今日、めでたく退院をするわけだが、決して無理をしちゃいけないよ。過度な運動は控えるように」

「分かってますよ重野先生。まだ完全に病気が治っているわけじゃないんだからって言いたいんでしょ?」

 診察室にて。厳格そうな顔をした僕の担当医師さんに、口を酸っぱくして伝えられる。今日――十二月二十五日、僕はついに退院をする。これで僕も晴れて一般人というわけだ。

 もっとも、完膚なきまでにとはいかないようだけれど。


「あぁ。正確には、後遺症が現れる可能性があるということだ。現段階では、君にその兆候は見られないが、なんせ不治の病で蓄積出来ないなんていう奇妙すぎる病気だ。どこかで見落としがあるかも分からない。少しでも異常が見られれば、すぐに君は入院生活に逆戻りだからね。そこをしっかりと、留意しててくれ」

「はい」

 はっきりと返事をして、そこで彼からの忠告は終わった。本来なら、それですぐに僕は病室に戻るのだが。

 今日は違っていた。

 扉を開く前に、重野先生を見据えて。

「先生。約十年間、本当にありがとうございました!」

 心の全てで、感謝を述べた。

「……あぁ。こちらもこれからの君の門出を、心から祝福しているよ」

 目元に涙を溜める先生。恩人との別れが涙であるのは少し寂しいから、僕はそれ以上彼を見ることはなく診察室の扉を閉めた。


「――あぁ花凛さん。待ってたんだ」

 病室に辿り着けば、窓辺にあった椅子に腰掛けている赤髪の姿があった。その姿は……何だろうか。どこか透明感があって普段よりも幼く、儚げな印象を持たせた。花凛さんも最後だから、ナイーブな気持ちにでもなっているのか?

「おかえり、古木君。今日で退院だって?」

「あ、あぁうん」

 雰囲気の違う彼女に少し戸惑うが、ナイーブなのだと決めつけて僕は頷いた。

「よかったね、おめでとう」

「花凛さんのおかげだよ。君がいなかったら、僕は死んでいた。本当に、ありがとう」

 言って、重野先生にもしたように僕は頭を下げる。彼女も恩人の一人であるのに、間違いはないのだ。


「……そんなことないよ」

 しかし、花凛さんは申し訳なさそうな顔になる。

「私は特に何もしてない。本当にね。むしろ謝るべきだよ、私は。今日が最後だって言うのに、結局私はあなたとお母さんのデートを仕立ててあげることが出来なかった」

 あぁ、その話か。なるほど、それで彼女はいたたまれない感じになっているのか。

「仕方ないよ。あんな邪魔が入ったんじゃ」

 僕は、何の気遣いもなしに本心で花凛さんを励ました。

 そう。僕は退院する。今日で、花凛さんとは別れる。けれど計画が完遂されたわけではなかった。

 計画が始まってから一ヶ月が経った時、花凛さんには僕の幼馴染による妨害があったわけだが、何とか上手く躱して僕らと連絡を取れるようにはなっていた。 しかし完全に取り除けてはいなく、花凛さんは当初のプランであるデートまでの道のりを作るということが出来なかったのだ。

 したがって、僕はあの最悪なデート以降真琴さんを誘えてはいなかった。


「それが出来なかった代わりにと言っちゃアレだけどさ、僕はこの二ヶ月間ずっと絵を描いてたおかげですごく上達したんだ。だからほら、夢への投資は出来たってことで」

「…………」

 花凛さんの表情に変化はない。僕の言葉は、いまいち届いていないようだった。実際嘘ではないのだが。機会費用ってやつだ。そんな経験すら、僕にとっては初めてで君のおかげなんだからもっと胸を張ればいいのに。

 ならば、届かないというのなら、ダメ押しするしかないだろう。

「花凛さん、大丈夫だよ」

 僕は強欲に、その先を紡ぐ。

「僕は真琴さんを諦めたりなんかしない。確かに今は涼夜君よりも出遅れてるかもしれないけど、必ず付き合ってみせる。君が未来に戻った時、君を違う誰かに変貌させるために。君っていう存在を――消すために。だから安心して」

 花凛さんの虚ろな瞳をまっすぐに見つめる。

「……そっか。期待、してるよ」

 鮮血の少女は、ほのかに笑ってそう言った。


 それからすっくと椅子から立ち上がって、彼女は僕に近づいた。

「じゃあさ、最後にお願いがあるんだけど」

 声が、いつも通りの軽い調子に戻っていた。うん。やっぱりこっちの方が花凛さんって感じがする。

「いいよ。何でもするさ。どんな辱めでも暴挙でも甘んじて受け入れるよ」

 おどけて言う僕。花凛さんも破顔してくれていた。

「流石にそんなことはしないよ。私のことなんだと思ってんのさ」

「口の悪い無礼な未来人」

「間違ってないね。……いや本当に、ちょっとしたお願いだよ。私がここにいたっていう証が欲しいんだ」

証、か。なんというか、繊細な響きだった。


「記憶に残るみたいな曖昧なものじゃないよ。ちゃんと形に残る証が欲しい」

「なるほど。いいね。じゃあ僕は何をしたらいいの?」

「すぐ終わることだよ。あなたの手首に少し傷をつけさせて欲しいんだ。こう、一直線にビーっとね」

 言って、花凛さんは懐からカッターナイフを取り出した。見る者が見たら非常に物騒な光景だが、手首に一直線の傷とは。それはつまり……。

「要は、リスカさせて欲しいってこと。どう? まさに自殺したい私らしい証でしょ?」

 ふむ。確かに、彼女らしいと言えばらしかった。リストカットの傷は一生残ると聞く。死にたがりの少女がいたということを永久に忘れないためには、これ以上ない絶好の証なのかもしれない。ただ、痛いのはちょっと怖いけど。

「もちろん、致命傷になるほど深くは切らないよ。静脈を傷つけないぐらいの浅い傷だ。どうかな? 嫌なら嫌でもいいんだけど」

「……ううん。いいよ、それでいこう」

 僕は了承して、彼女に右手首を差し出した。僕にここまで良くしてくれた人間の最後のお願いだ。断わるわけなんてなかった。


「ふふっ。ありがとう。あなたのそういう軽率なところ、ほんと好きだよ」

 相も変わらず言葉が強い花凛さん。苦笑する僕にさらに近づいて。

 そうして。

「じゃあ、いくよ」

「うん」

 僕の手首に、唇が出来る。

「……っ」

 覚悟はしていたが、痛いものは痛かった。皮膚が裂かれた感覚、ジンジンともズキズキとも言えない継続的な痛み、手首から来る局所的な熱さ。

 証を作る上では仕方ないとは言え、出来るならば早くこの辛さは収まって欲しかった。

 ドクドクと、血が止まらない。


「……はは」

 僕が苦悶に堪えていると。

 声が、聞こえてきた。

「あはははははははははは!」

 彼女が、高らかに笑っていた。

 ……高らかに笑っていた?

「ど、どうしたの? 花凛さん」

「どうもしないよ。いやーほんっと、最高に面白いよね」

 要領の得ない回答。彼女は、まるで狂気に染まったかのような笑みを浮かべていた。

 ドクドクと、血が止まらない。


「別にもっとサクッとやっちゃっても良かったんだけど、せっかくなら、その病気を活用しなきゃだよね。ゆっくりと、ゆっくりと時間をかけよう」

 滔々と独り言ちている彼女。なんだ? 彼女の雰囲気が違う。それに何を、言っているんだ?

「……ねぇあなたはさぁ、私がなんで赤髪にしたか分かる? 単なるキャラ付けだって思ってんなら、相当な馬鹿だよ?」

 脈絡もなく、彼女は話し始める。壊れたスピーカーのように、姦しく、不気味に。

 ドクドクと、血が止まらない。


「んまぁつっても、私も最初はありきたりな理由だったんだけどね。純粋に、赤が好きだった。情熱の色だから、ヒーローの色だから。そんな子どもじみた理由だった」

 ドクドクと、血が止まらない。

「だけどねぇ」

 彼女の髪にも似た鮮血が、止まらない。

「今はそれだけじゃないんだよ。赤っていうのは、人にあるものだから。人から、噴き出るものだから。たまんないんだよ。興奮すんだよ。人間の命の源が失われていく時に見せる色が、赤だってことに!」

 ドクドクと、血が止まらない。どころか、加速している。治る様子も見せずにただただ、流れる血液の量が、増えていく。


「初めてそのことに気づけたのは」

 僕の様子なんて、全く気にしないで彼女は話す。

 最悪を。

「――あなたを殺した時だった」

「っ!?」

 僕を、殺した……?

「ねぇ、あなたは変だと思わなかったわけ? たかが万引きや窃盗をした程度の人間が、命を考慮されない実験体に選ばれたことに。違和感を覚えなかったわけ? たかが軽犯罪者が、殺人未遂なんて重大な罪を犯している人間と同じ牢屋に入れられたってことに」

「……な、何が、言いたいんだよ」

 分からなかった。彼女が豹変したことも、この状況も。何もかもが、理解の外だった。

「ほんと察し悪いなぁ。あなたも、私も。……そんなんだから、お母さんの苦しみにも気づけなかったんじゃないの」

「……………………は?」

 うそ、だろ? なんだ、なんだよそれ。それじゃあ、そんな言い方じゃあ、まるで、まるで僕が――。


 花凛さんは、僕を押し飛ばす。衝撃で尻もちをつく。止まらない血が、加速する血が、床を生き物みたいに広がって這っていく。眩暈が、鼓動が、絶え間ない。

 彼女は嘲笑するように僕を見下ろして。

「――お前だよ!」

 怒号が上がる。

「お前が、全ての元凶だよ! お前こそが! お母さんに私を孕ませた男だよ!」

「はぁ……はぁ……」

 呼吸が、浅い。心臓が、響いている。

「お前は死ななかった! 無事に生きて、お前はまた性懲りもなく告白をして、今度は成功してしまう! 一度は抱いた罪悪感も、全部忘れて! その先に自分の本性が現れることなんて、知りもしないで!」

 彼女は僕の胸元を乱暴に掴む。

「お前は本当に最低だった。自分を不幸な人間だって言い募ってさぁ、だからこれからはもっと自由に生きるべきだとか調子づいてさぁ、いい年こいてずっと好きなことにかまけて生きた。家庭を持った人間のくせに、大層な夢を語ったくせに、お前は、ずっと娯楽にばかり手を出した。お前なんか、この病気で死んでしまえばよかったんだ。そっちの方が、皆が幸せになれた」

 殺意や怨恨以外の何も感じないような声が、僕の首を絞めていく。


「……僕を、騙していたのか」

 かろうじて回る頭で、僕は問う。

「そうだよ。最初からね。お前とお母さんを付き合わせる気なんて端からない。連絡が途絶えた時もそのあとも、裏側では涼夜君とお母さんを付き合わせるように私は動いていた。あの人が私を邪魔しに来るのだって、予定調和だ。彼女の逆鱗に触れるように、あえて見えるように振舞っていた。お前にやむを得ない事情で空白が出来たと思わせるためにね。……流石に、表の計画を看破して一ヶ月も邪魔するってとこは、計算外だったけど」

 言って、彼女は僕を投げ捨てるように胸元から手を離す。憎らしいような視線を僕じゃない誰かへと向けていた。


「僕は、死んでるんじゃなかったのか」

 のっそりと立ち上がる。目の前が眩む。まだ、血は止まっていない。

「だから死んでないって言ったばっかだろ。つーかそこは気づけよ。二ヶ月前に薬発見されてんだからさぁ。こっちはそれバレた時のために話用意してきてんだよ」

 つまらなさそうに話す彼女。暴力的な言葉には、もはや優しさの一かけらもなかった。

 少し後ずさりする。扉の近くへと移動する。僕は、さっきまでの花凛さんの言葉なんて信じていなかった。僕が、僕が最低なクズであると、信じられるわけがなかった。

 だって。

 だって僕は、誰よりも苦しんできたんだから。痛みを、誰よりも理解しているはずなんだから……。


「っていうかさ」

 冷え切った瞳が僕の喉元に刃を向ける。

「お前がとびっきりに不幸な人間なわけないでしょ」

 また、僕の心を見透かして、彼女は言う。

「なんで今まで誰も家族の話してこなかったか分かってんの? 必要ないからだよ、お前の不幸を語るのに。お前の家族は、どこにでもいる普遍的な優しい人間たちだ。物語の端役にすらなれないような、一般的な人間たちだ。そんな人間たちの下でお前は育ち、医療費も入院費も何もかも払ってくれるほどに愛されてきた。欲しい物をねだれば買ってくれるほどに、甘やかされてきた。……分かってんの? お前は別に誰しもに同情されるような人間じゃない。嫉妬だってされる対象だよ」

「…………」

 心に波が立つ。違う、違う。僕は、不幸な人間だ。何も幸せを手に入れられなかった人間だ。当たり前を知れなかった人間だ。そうじゃないはず、ない。だってこんなに苦しんだんだぞ?

 津波が、押し寄せてくる。


「そして極めつけにお前は病気が治る。治って祝福されて、恋も叶う。……十分幸運でしょ。それ以上を望むのは、傲慢でしかない。苦しんだからなんだよ。悲しんだからなんだよ。見返りは、もうもらってるだろ」

「…………」

 濁流となった波が、僕を掻き立てる。うるさい。うるさいうるさい。そんなのどうでもいいだろ。一般人の尺度で僕を語るなよ。僕はこの病気になった時からマイナスなんだ。プラスを享受しようとして何が悪い。

「夢が叶わない人間だっている。失意のままに死んでいく人だっている。だけどお前はそうじゃない。報われてんだよ、運は収束してんだよ、お前はもう」

「……黙れよ」

 奔流は、僕の口を動かした。

「僕を、僕を否定するな」

 誰かに、こんな敵意を向けたのは初めてだった。

 しかし、赤髪は。

「そう! それだよそれそれ!」

 まるで予測していたかのように、奇怪に笑った。

 僕は怯む。

「やっぱお前はそんな反応するよねぇ! どこまでも独善的で、独りよがりで、自己中心的だ! ……何にも変わってなくて安心したよ。全てを欲しがる人間で、諦めることをしない人間で、本当に良かった」

 これで、心置きなく――。


 彼女が放ったその言葉を聞いた瞬間。恍惚とした表情で、鋭い眼光が僕を捕らえた瞬間。

 ゾクッと、全身が粟立つ。

 恐怖だ。僕は怒りよりも悲しみよりも悔しさよりも、恐怖が先行した。言いようのない恐怖。まるで化け物と相対しているような、そんな感覚。

 殺される、と。魂が告げていた。

 血が流れる手首のことなど気にもしないで、僕は走って扉をこじ開ける。

 ――はずだった。

「あ、開かない!?」

 いくら力を込めてもビクともしなかった。何故だ!内側だぞ!?

「無理だよ。開くわけないよ」

 ケタケタとブリキみたいに笑う彼女の声が聞こえる。慌てて、僕は向かい合う。


「忽瀬さんにある人物が来るまで、抑えててもらってるからね。あぁ誤解しないでね、抑えてもらってるのはこっちの忽瀬さんだから」

 こっちの。つまり、二十五年後のか。いや、今はそんなことどうでもいい。問題なのは、僕が閉じ込められたことだ。

「君は……僕を殺すのか」

 背中に冷や汗が流れる。射し込む陽光までもが、僕の不利になっているような気がしてくる。

 何とか、何とか逃げ出せる方法はないか。

 なんて思考すら、彼女は覆す。

「殺すっつうか、もうした?」

「え」

 突如。

 ――すとん、と。


 僕の体は制御を失った。その場に力なく倒れこむ。手先が痺れている。思考が視野が、朦朧している。心臓がバクバクと馬鹿みたいな速度で鼓動している。力が、入らない。

「な、何を、した」

 鼠の死体でも見るかのように見下ろす彼女に、僕は出せる限りの声量で訴えた。

「いやだから、そのリスカだって」

 鬱陶しそうに彼女は答える。

「は……? 致命傷になるくらい、切ったってことか」

「ちげぇよ。深さは、死にたいとか嘯く奴らがこぞってするぐらいの深さだよ。その程度じゃ、お前は絶対に死なない」

「じゃあ、どうして――」

 僕の言葉を聞くよりも先に、彼女はにいっと気味悪く口を歪ませる。


「お前が健康体って話ならね」

「……は?」

「は? じゃねぇよ。お前だってさっき伝えられたはずだろ? 完治したわけじゃないって、後遺症が現れるかもって。あるんだよ、後遺症が」

 なんだ、なんだよそれ。何が、あるって言うんだよ。 

 僕の感情が昂るにつれて、手首の血がさらに加速していく。ドクドクと、血が止まらない。

 ……血が、止まらない? 待て。いくら何でもおかしい。もしこの人間の言う通りなら、浅傷なら、とっくに止まっていてもおかしくはない。止まらずとも、血の量が収まりぐらいはするはずだ。一般人の感覚を忘れた僕だってそれくらいは分かる。だのに、僕の手首は。


「気が付いたみたいだね」

 僕の意識は、また彼女へと戻る。

「そうだよ。お前の蓄積不全は完治していない。まだ、蓄積出来きっていないものがある」

 それは。

「――血だ。お前は常に輸血されながら生きてきた。それで何とか賄ってきた。だからその分、外された時の血の総量は他者よりもまだ少ない。血液凝固に必要な血小板も、足りない」

 彼女はふらふらと歩きながら、語るように話す。

「もちろん日常生活を送る上では、問題はなかった。擦り傷程度の軽い傷なら、支障はきたさなかった。だから見落としていた。それ以上の場合を、明らかに自傷行為でしかつかないような傷がついた場合を」

 僕の体は、もうほとんど動かなかった。逃げることも、抵抗することも、出来なかった。

「ねぇ分かった?」

 犯罪者は慈愛のような表情を浮かべて、僕の髪を掴む。

「つまり、お前が私にリスカさせることを許した時点で、私の殺人は終了している。私の自殺は、完了している。後はゆっくり待つだけなんだ」

「ど、どうして、こんなことを……」

 喘ぐように、僕は声を出す。

「どうして? それは何に対してかな? お前を騙したこと? お前を殺すこと? それとも、リスカでなおかつこんな回りくどい方法を取ったこと?」

「全部だ……」

 だろうねと、殺人鬼は空っぽに笑った。


「ありきたりな理由だよ。物語だったら何の捻りもない理由だよ。ただお前を苦しめるためだ。幸せの絶頂から、最高から、どん底へと叩き落とすためだ」

 鈍い声が、僕の頭を軋ませる。結局花凛さんは、僕を恨んでしかいなかった。そういう、ことだった。

 途端に。僕の想いは破裂する。

 嫌だ。嫌だいやだイヤだ! 死にたくない! 死にたくない! やっと治ったんだ。これからを生きていけるんだ。幸せになれるんだ。こんな、こんなとこで、僕が死んでいいわけない!

 そう、思っていても。

 体は止まっていて。寒気が出始めていて。血は止まらなくて。呼吸も浅くなって。眩暈もして。もやもかかって。吐き気もして。頭痛もして。気だるさもして。感覚もなくなって。

 意識が、飛んでいきそうになって。


「……うん。この時間も、そろそろで終わりだね」

 赤髪は、僕の髪からぱっと手を離して満足気な声を上げる。

「忽瀬さーん。扉もう閉めてなくていいよー。どうせ逃げらんないし」

 廊下に言葉を投げる。が、反応はなかった。

「ありゃ、もう帰っちゃったか。ってことは……あの人がやってきたってことか」

 にやりと、シニカルに笑っている。僕には、既に声を出す力すらなかった。誰がやってくるのかも、何も分からなかった。

「ね、まだ生きてるよね?」 

 それでも、分かったことがあるとすれば。

 僕の意識が遠のくにつれ、彼女の体が段々と透けていっているような気がした。僕の命と、彼女の命が繋がっている。それが意味すること、ぐらいなものだった。


「最後だから伝えてあげるよ」

 無邪気な表情を浮かべる鮮血。まるで、悪戯が成功した子どもように。

「私が連絡を再度取れるようになったのは、実はこっちの忽瀬さんのおかげなんだよね。忽瀬さんが、邪魔をしていたこの時代の忽瀬さんを説得して身を引かせた。……だけど無償でとはいかなくてさ、私はある対価を要求された」

 廊下から、誰かの足音が近づいてくる。決して冷静とは思えないような、興奮した足音。

「それは、この時代の忽瀬華幽に、お前を――古木暁人を殺させてというもの」 

 ……え? どういう、ことだ? なんで、華幽ちゃんが僕を殺しに? っていうか、僕はもう、君に殺されそうになっているじゃないか。何を言ってるんだ?

なんだ、なんだ。何が起きようとしている? この人間は、何をしようとしている?

 逃げたい。逃げ出したい。死にたくない。救われたい。助けてくれ。誰でもいい。誰か、誰か僕を――。

けれど、声は出なくて。体は、ピクリとも動かなかった。


「そういえば、親殺しのパラドックスの解決方法について、まだ話してなかったね」

 赤髪が、次第に消えていく。体が、透けていく。

「何も難しい話じゃない。物語の起点はいつだって未来よりも現実だ。そしてあなたを殺すという現実は、確定した。なら私の存在はどうするか。あなたを殺しに来た私の矛盾はどうするか」

 足音が、すぐそこにまで来ていた。僕の命が、終わりかけていた。

「簡単なことだ。物語に役者がいなくなったのなら――代役を立てればいい。私の代わりに、あなたを殺しに来る人間がいればいい。それの障壁は、もう幸せの彼方だ」

 廊下から声が聞こえる。この声は、僕の幼馴染のものだった。

「条件は揃った。私の計画は、ようやくこれで本当の完遂だ。物語は、ハッピーエンドでクランクアップだ」 

 扉は開かれる。

 彼女は、にっと笑って。

 そうして。

「それじゃあまた、地獄で会おうよ。お父さん――」

 とすり、と。


 日暮花凛(ひぐらしかりん)の姿は、僕の心臓に恍惚な表情でナイフを突き刺す忽瀬華幽(ゆるがせかふか)へと、変身していた。

 ――あぁくそ。ふざけるな。こんなの、こんなの。

 バッドエンドじゃないか。


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