沸騰
18
まずい、と僕の全細胞が告げていた。もうぬるま湯に浸かれる猶予はない。ともすれば、アプローチを始めた彼に真琴さんが振り向いてしまうかもしれないのだ。それだけは、何としても避けたかった。
ので、僕は覚悟を決めて先手を打つことにした。
放課後。一年ぶりに再会した先輩たちとの挨拶も申し訳ないが早々に切り上げて、僕は真琴さんを連れて部室から抜け出していた。ちなみに、花凛さんの姿はなかった。
「古木君、手、痛いよ」
外に出て、病院までの帰路を二人で歩いている最中、真琴さんの不安そうな声が耳に入った。ここまで彼女の腕を掴んでいた僕の手に、無意識に力が入っていたようだった。彼女から手を離す。
「ごめん」
「ううん。気にしないでいいよ。ちょっとびっくりしちゃっただけだし」
「それだけじゃなくて、その、無理やり連れ出したことも」
「そっちも気にしなくていい。元々今日はお見舞いに行く日だったんだから、それが少し早まった程度のものだよ」
「……ありがとう」
真琴さんは、優しく笑っていた。ボブの髪が軽やかに揺れて、僕の心を暖める。少しだけ、危機感が和らいだ気がした。
「で、どうかしたの? 突然学校に来たことといい、こうして私を引っ張ってきたことといい。何か、焦っているように見えるけど」
「どうもしない、とは言えないんだけど……えっと、その、あー」
どもってしまう僕。馬鹿正直に君との関係を進展させないといけないとか、涼夜君と完全に恋敵になったとか言えるわけもなく、かと言って真琴さんをデートに誘おうにももう少しブレイクタイム的なのが欲しかった。
キョドる僕を見て不思議そうに首を傾げる真琴さん。何か取り繕える話題は無いかと模索して、一つ共通の話題が見つかった。
「か、花凛さんって今どうしてるのかな?」
「花凛さん? あぁ、なんか色々大変そうだよ」
自分の質問に答えられなかったことは特に気にも留めない様子で、真琴さんは憐れむように言葉を奏でた。
「まさか私と同じように、忽瀬さんから敵意を向けられるとはねー。ま仕方ないと言えば、仕方ないのかもしれないけど」
言葉が一つ、引っかかった。
「同じように? 日暮さんも華幽ちゃんに何かされているの?」
「されているっていうか、何も相手にされないんだよね。私が何を言ってもどんな接触を図っても、ただ睨まれるだけであとはフル無視。最悪だと死ねブスって言われるかな。流石に私もアレには傷ついたよ」
真琴さんは困ったように眉尻を下げて笑う。僕は声を出せなかった。そんな、そんなことを華幽ちゃんはしていたのか。僕の知らない華幽ちゃんは、そんなにも醜悪な人間だったのか。
「花凛さんの場合は、むしろ逆って感じだけどね。ひたすらに付き纏われている感じ。おかげで部活にも顔出せなくなってるみたいだし、私も最近は連絡取れてない」
「……僕の、せいなのかな。花凛さんも日暮さんも、僕と接点を持っているから。僕が、彼女の気持ちを今まで知らなくて応えなかったから」
思わず自責の念が浮かんでしまう。罪悪感が、重くのしかかった。
「それは違うよ。問題なのはやっぱり忽瀬さんだ。君のせいでも、責任でもない。誰だって、恋愛感情を持てない相手の気持ちに応えるっていうのは、簡単なことじゃないからね」
「うぐっ」
「ん? どうしたの?」
「ごめん、なんでもないよ」
真琴さんは僕をフォローするつもりで言ってくれたのだろうが、それは僕にも刺さる話だった。途端に、自信がなくなってくる。
「……でも、うん。どうにかは、しないとだね。これが続くっていうのは、僕も嫌だ」
「そうだねー。何とか、出来たらねぇ」
後ろで手を組んで天を仰ぎながら、情感のこもっていないような声を出す真琴さん。後ろ向きとも捉えられる言葉だった。現状で解決策と呼べる手立てがないからだろう。でなければ、一ヶ月もこの状態が続くわけがない。
実害が出ている。花凛さんにも、そして真琴さんにも。それはもちろん僕の是とするところではない。彼女が僕に偏愛を向けているというのなら、今のこの状況をどうにか出来るのは、きっと僕しかいない。
計画も進めて、忽瀬華幽の気持ちも諦めさせる。その方法が一つだけある。
決心は、もう出来ていた。
「――ならさ、今度僕と出掛けようよ」
大切に放った言葉。出来る限りの意志を持って伝えた言葉。のはずだったのだが。少々想いだけが先行してしまったようだった。
真琴さんは、ポカンと呆けた顔をしていた。
「あ! えっとその、ほら! 今こうなっているのって、華幽ちゃんが花凛さんや真琴さんに嫉妬しているからでしょ? なら、いっそのこと僕たちが付き合っているみたいな写真を華幽ちゃんに見せれば、諦めてくれるんじゃないかなぁって……。その、どう、かな?」
慌てて補足説明するも、次第に恥ずかしくなってきて言葉は尻すぼみしてしまう。
真琴さんの表情を窺う。あの屋上の苦い出来事が記憶から蘇り、また断られてしまったらどうしようと正直気が気でなかった。
「つまり、私に付き合うふりをしてくれってこと?」
「う、うん」
本当は、ふりなんかじゃない方がもちろんいい。けれど今は進展させられるのならばそれでも良かった。蜜月は、偽りだろうと十分に甘くなれる。
「……ふふ」
真琴さんは、愉快に目を細めていた。
「すごいなぁ。本当に、あの子の思惑通りだ」
また、いつかの日のように思案に暮れた声が奏でられる。けれどその旋律は、車や街の雑踏にかき消されるほどにか細いもので、僕には何を言ったのか上手く聞き取れなかった。
もどかしい気持ちのまま、彼女の言葉を待っていれば、
「うん。いいよ。お出掛け、しよっか?」
にっこりと花のように笑ってくれる。今度は、聞き逃さなかった。
「よ、良かったぁ……。断わられるのかと」
途端に、僕は間の抜けた声が出た。成功した安堵ゆえか先ほどまであった、緊張や焦りが一気に抜けていくのが分かる。
「あはは、花凛さんのピンチだもん。その提案を頭ごなしに反故には出来ないよ」
「うん、まぁ、そうだよね」
あくまで花凛さんのため、か。真琴さんの瞳に、僕はまだ映らないらしい。それが悲しくもあるが、しかし理由はどうあれきっかけを作ることが出来たのは嬉しかった。
そこから僕たちは歩きながら、日時だったり場所だったりというデートの詳細を決めていった。
一応真面目な話なので出来るだけ平静を装ったつもりだったが、真琴さんには「古木君、すごい楽しそうだね」と面白がられてしまい、自分の感情コントロールの下手くそさを実感した。事実、たまらなく楽しかったのだが。
「――うん、じゃあそういう感じで。当日、楽しみにしておくね」
全てを決め終えた頃には病院の近くにまでやって来ており、流石に病室まで一緒に来てもらうのは忍びないと思った僕は、そこで真琴さんと別れることにした。「じゃあねー」と愛らしく手を振る彼女に頬が綻びつつ、僕も手を振り返す。
一人になって、僕は大きく息を吐いた。達成感やら虚脱感やら、とにかく色んな感情が僕の心の中を駆け巡っている。
まだ、小さな一歩だ。真琴さんと付き合うという目標を立てて一ヶ月が経ったというには、牛歩にも思える一歩だ。涼夜君のことも、先手を打てたとは言え依然として安心出来るものでもない。何もかもの進捗が芳しくないと言わざるを得ない。
それでも。
「……よしっ」
小さくガッツボーズを取る。よくやったと、今日の僕を褒めてやりたかった。
浮ついた心に呼応するように、スキップでも踏めそうなぐらい軽い足取りで僕は病院を目指す。
いくら体が治りつつあると言っても、結局帰ってくるのは自分の家ではなく病室なのだと思うと少しばかり苛立ちもするが、今はもはやそんなことはどうでも良かった。
「おや、ちょうどいいところに来たね、古木君」
病院に着くと、ロビーには見慣れた大人がいた。白衣を着て、洒落たデザインの眼鏡が特徴的で、優し気な顔をしている四十代半ばの男性。要するに、僕の担当の医師さんだ。
「重野先生。ちょうどいいって、何ですか」
「あぁ、とりあえず診察室に来てくれるかな。そこで話すから」
「はぁ」
言われるがまま先生についていき、そうして到着した診察室で対面するように座る。一体何の話なのだろう。いつもの身体検査なら、この前したばかりだが。
「ひとまず、久しぶりの学校はどうだった?」
いきなり本題を切り出すつもりはないようだった。
「皆、変わりないようで安心しました。部員の面々とかは体が快復したって伝えたらすごく喜んでくれましたし」
「そうか、それは良かった。君の快復はこちらとしても驚異的なものだからね。全く不思議だよ。長年の医師をやってきたが、余命宣告からここまで快復したケースを見たことがない。本来なら、君はもう動くことすらままならないはずなんだが。これも、前例がない病気だからなのかな」
「さ、さぁ。なんででしょうね。僕にも分かりません」
僕は嘘を吐く。未来人から治す薬を貰っただなんて、言えるわけがない。
「まぁとは言っても、今日君に伝えたかったことというのは無論その病気が関連していることなのだがね」
「んで結局なんなんですか、それって」
勿体ぶらずに早く教えてもらいたかった。こっちだって絵の練習がしたいのに。
「心して聞いてもらいたい」
重野先生の顔が真剣さを帯びる。
「君の病気はこれまで、不治の病とされてきた。後天性蓄積不全症。いくら食べてもいくら寝てもいくら飲んでも、それらが一切蓄積されないなんて病気は今まで見たことが無かったからね。治療法も進行を遅らせる方法も、何も発見されなかった」
今更過ぎる話だ。何故、そんな分かりきったことを話すのだろう。
と、思っていると。
「――しかし、研究は行われていたんだ」
え。
「君の体をサンプルとして、各国の頭脳たちが集結した。君がこの病に侵されてから約十年間、研究は絶え間なく行われていたんだ。他でもない、君を助けるためにね」
「え、え? じゃ、じゃあなんで今まで……」
ふっと、悲しそうに重野先生は笑った。
「今まで伝えてこなかったのは、解決策が発見される見込みが薄かったからだ。夢を見せるだけで終わってしまうことほど残酷なこともない。現に、病院側がもう助からないと判断したからこそ君は余命を言い渡された。……けれどね古木君。どうやら、奇跡というのはあるみたいだ」
そう言うと、先生は僕の手をガシッと両手で覆った。眼鏡の奥にある瞳は、透明色の何かが滲んでいた。僕はまだ、理解出来ないでいる。
「古木君、朗報だよ」
先生は、僕に十年間以上心を砕いてくれた恩人は、震えていても力強い声でその先を紡いだ。
「君を治す薬が見つかった」
……………………は?




