幕引き
賞に応募して二次選考落ちした拙作です。よろしければお目汚しください。
1
「日暮真琴さん。君が好きです。僕と付き合ってください」
「えっと……ごめんなさい」
ぺこりと、真琴さんは頭を下げる。僕の差し出した手が、ただただ虚空を掴んだ。
季節は秋。月明かりが照る夜中。病院の屋上にて。いきなり出鼻を挫くようで申し訳ないが、この通り、僕は見事にフラれた。
別に告白するようなムードでもなかった。なんてことのない日だった。いつも通り真琴さんが僕のお見舞いに来てくれて、適度に雑談していただけ。それだけだった。ずっと続けばいいと思っていた、かけがえのない平凡な時間というだけだった。
だというのに、僕はやってしまった。昂る気持ちに歯止めが効かなくなってしまった。
「理由を、訊いてもいいかな。僕はそんなにダメだったかな」
しがみつくような声が出る。
「ダメじゃないよ」
僕の告白を予想していなかったのか、真琴さんは未だ戸惑いを露にしつつそう答えた。
「君と話すのは楽しいし、誠実な人なんだって分かる。付き合ったら、私もきっと大切に想えるんだってどこかでそう思ってる」
「じゃ、じゃあ――」
「でも」
遮る彼女の声は、震えていた。
「それで君を大切に想えば想うだけ、いなくなった時が辛くなる。君の命が零れる瞬間を、張り裂けるような気持ちで見ることになる。私は、それが怖い」
「あ……」
僕の喉から湧き出るのは、ただただ萎んだ声だった。彼女の言葉に「そんな時は訪れないよ」なんて男らしい台詞を、僕は紡げなかった。紡げるわけがなかった。
無理だった。彼女の不安を取り除くことが、僕には。余命が、残り三ヶ月であるこの僕では。
だからさ、と真琴さんは少し困ったように笑って。
「友達のままでいよう? そっちの方が、きっと私たちは苦しまないで済むから」
「……そう、だね」
彼女の顔を見ていた僕の視線は、勝手に下を向く。零れた言葉とは裏腹に、僕は諦めきれないでいた。
分かってはいたんだ。こういう結末があることくらい。僕だって、もう少しで死んでしまうからなんてお情けで付き合って欲しいとは思っていない。僕の気持ちのために、真琴さんを利用するようなことはしたくない。真琴さんもそれが分かっていたから、しっかりと混じり気なく答えてくれたのだろう。
でも、それでも。やっぱり、心にくる。
気まずい空気が、辺りに充満していく。
「ごめんね。私も器用じゃないからさ、はっきりとしか言えなかった」
君が謝るようなことじゃない。僕が、僕の人生がそうさせたんだ。つくづく、僕は僕を呪う。
何も願いが叶わない人生だった。何も、思い通りにいかない人生だった。願っても、祈っても、望んでも、求めても、欲しても、希っても、全ては棄却される。この不治の病のせいで、諦めなければいけなくなる。
「ごめん。先帰るね」
いたたまれなくなったのだろう。真琴さんは僕を追い越して扉へと向かっていく。僕は、彼女の背中しか見ることは出来ない。
再度、思い知らされる。僕を、僕の命を今まで繋ぎとめてきた想いがここで崩れてしまったのだと。生きる力を、失ったのだと。手を伸ばしても、もう彼女には届かない。
ゆえに。
人間というのは単純なもので、自分がもう生きてはいけないと思えば体はそれに準ずるものらしい。ドクンと、心臓が嫌な音を鳴らした。呼吸が荒くなる。視界がぐらつく。頭痛がする。吐き気がする。体の言うことが利かなくなる。立つことすらままならなくなり、地面は急激に僕に近づいた。自分の身に何が起きたのか、僕にはすんなりと分かってしまった。
あぁ。どうやら、これで僕は終わるようだった。
もう何だかどうでも良くなった。次はもっと普通に生きていけるようになりたいな、とか来世のことを考える始末だった。
「古木、君?」
慌てた真琴さんが僕の名前を呼んで駆け寄る。そうだ。僕は真琴さんが名前を呼ぶ時の声が、たまらなく好きだったんだ。
鼻腔を擽る彼女の柑橘系の爽やかな香りは、もうしなくなっていた。
自分の舌の感覚も消えていく。
僕が今、彼女に触られているのすら分からない。
「……はは」
掠れた枯れ木みたいな声で、僕は笑う。こんな最後の最後で、思わぬ発見があった。
人が事象を忘れていく時、聴覚、視覚、感覚、味覚、嗅覚の順番らしいが、どうやら今際の際ではそれは逆になるみたいだ。
「古木君! 嘘でしょ、嘘だよね!」
視界も霞んでいっている。かろうじて、真琴さんが必死な表情で僕の体を揺らしているのが分かった。彼女の問いかけに答えられるほど、もう体は猶予を待ってはくれないようだった。
本当に、僕ってやつは情けない。想い人を励ますことも、出来はしないのだから。
せめて、さようならくらいは言いたかったなぁ。
「嫌だ! 嫌だよ! 死なないで! 古木君!」
瞼がゆっくりと、落ちていく。そうして僕は、眠るようにこの命を――。
「すみません日暮さん。少し、そこを譲ってはくれませんか?」
瞬間。誰かの声がした。
「……ぇ? あ、あなたは」
「私のことはとりあえず今はどうだっていいんです。単なる通行人とでも思ってください」
会ったことのない声だった。けれどその声は、どこか真琴さんに似ているような気もする。もはやほとんど何も見えない視界で、うっすらと声の主を探る。
顔は見えない。服装も分からない。性別がどちらかも判断は出来なかった。ただ、髪だけははっきりと分かった。その声の主の髪は、鮮血にも似た赤色をしていた。
「……ありがとうございます。さて、それじゃあ古木君。古木暁人君」
真琴さんは赤髪に応じたのか、急にその馴染みのない声は僕に近づいていた。僕の名前を知っている。真琴さんの名前も知っていたし、一体何者なんだ。こんな死に際で、混乱するようなことは起きないで欲しかったというのに。
けれどそんな僕をまるで嘲笑うかのように、赤髪は直後、あり得ないことを口走った。
「あなたを、助けてあげようか?」
「っ!?」
僕の代わりに反応する真琴さん。赤髪は全く意に介さない。
「分からない? あなたの病気を治してあげるって言ってるんだよ、私は」
なお、す? 僕を? 幻聴でも聞いているかのようだった。僕は不治の病で死の淵。何もかもが、手遅れなはずだ。
だのに、さらに続ける赤髪は、見透かしたように。
「信じるも信じないもお好きにどうぞ。私は事実として、あなたを確実に助ける術を持っているとしか言えない。まぁつっても? 何も無償で行いますとは、いかないけどね。それで、どうする? この蜘蛛の糸に、縋ってみるつもりはない?」
「…………」
何を、言っているんだろう。この人の言葉は、妄言でしかない。僕に対する医術が確立していない現状では、一縷を望むことをもう諦めた僕にとっては、何も響くわけのない言葉だ。僕は死ぬ。もうそれでいいじゃないか。死ぬなら死ぬで、次に期待するから。だから、それで。
――だけど、僕は。
「なん、でも、するよ」
血反吐を吐くように、そう紡いでいた。
朧気な視界の中で赤髪を見る。ほのかに、にやりと笑っている気がした。
「オーケー。最高だよ古木君。これで交渉は成立だ。それじゃあ、要件の提示といこう」
世界は闇に覆われる。そうして鮮血は、僕が身構える間もなく。
「私の自殺を、手伝って」
その言葉を最後に、僕は意識を失った――。