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平家物語 -忠盛-

長きにわたり都に君臨し、「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われる存在となった平氏も、始まりはごく小さな地方豪族に過ぎなかった。


平家のルーツをたどると、血筋は遠く桓武天皇にまでさかのぼる。桓武天皇の第五皇子、葛原親王という人物が、平氏の始祖となった。親王の孫にあたる高望王は、藤原氏による専制政治に嫌気が差し、「父のように名もなく死ぬのは御免だ」と臣籍に降りる決意を固めた。彼は、乱れた中央の政治から距離を置き、田舎で己の武芸を磨き、独自の道を歩み始めた。


それから六代にわたり、高望王の子孫たちは地方の領主として地位を固め、武士の家柄としての名声を築き上げた。平氏の評判は、良望から正盛に至るまでの間に、私腹を肥やすための地位ではあったが、名を轟かせるものとなったのである。


平家が都において頭角を現したのは、正盛の代だ。白河法皇に仕え、誠実な働きぶりが信頼を勝ち取った。そして、彼の息子・忠盛はさらに鳥羽院に取り入り、都での勢力を広げるべく、父の道を引き継いでいった。


だが、いくら忠盛が努力を重ねても、受領職という立場では、都で重んじられる「昇殿」を許されるには至らなかった。当時の京において、殿上人と肩を並べることは、武士にとっては夢のような栄誉であり、中央で権力を得るための絶対条件でもあった。地方の出身で、田舎の武士に過ぎない忠盛にとって、「昇殿」の夢は到底かなわぬものかと思えたが、その律儀さと賢さが次第に評判を呼び、彼の心には密かな野心が芽生えていた。


――平家として、いつの日か、この都で誰にも負けぬ存在になるために。忠盛の静かな決意が、彼を新たな道へと導いていく。




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昔の権力者たちは、地位が安定してくるとお寺やお墓を建てる習慣があったらしい。それは、目に見えぬ神仏の力に頼り、自分の権力を永遠に安定させようという心の表れだった。鳥羽院も例外ではなく、三十三間堂を建てることを長らく願っていた。この堂を完成させたのが忠盛だったのだ。


堂の完成を知った鳥羽院の喜びようは並ではなかった。鳥羽院の信頼を勝ち取った忠盛は、備前守の地位に加えて但馬国の国司に任ぜられ、ついに念願だった昇殿が許されることとなる。この時、忠盛は三十六歳――まさに人生の脂が乗った年齢であり、その感激はひとしおだった。


だが、忠盛の成功を快く思わない者もいた。今まであてがい扶持でのんびりとしていた公卿たちが、突然に反対運動を盛り上げ始めたのである。


「忠盛という男、どうもただの田舎者ではなさそうだ。今のうちに潰しておかねば、我々の頭を押さえつける存在になりかねんぞ」と、権力の世界に生きる公卿たちの中にも、冷静に状況を読み、警戒心を募らせる者が現れたのだった。





***作風を変えてみる(version2)***


平家が「平家にあらずんば人にあらず」との強大な権勢を誇るようになるまでには、二十余年の歳月と、数代にわたる努力があった。だが、その源は地方に根を下ろした一族に過ぎなかった。都から見れば、平氏の地位はまだまだ「田舎豪族」の域を出ないものだったのだ。


その系譜をたどれば、平氏の先祖は遙か遠く、桓武天皇の第五皇子、一品式部卿葛原親王まで遡ることになる。この葛原親王の孫である高望王は、藤原氏が牛耳る都の権力闘争に嫌気が差し、「父と同じく、無位無官のまま終わりたくない」という思いから臣籍降下を願い出る。そして武を磨き、地方で一族の地盤を築き始めたのである。


彼の子孫である良望よしもちから正盛まさもりまで六代にわたって、平氏は地方官(受領職)として地方支配に精を出しながらも、名を上げるべく武士としての勢力を蓄え、家名を響かせていった。正盛は、白河法皇に忠義を尽くし、信任を得て都での足場を固めることに成功する。その子・忠盛ただもりはさらに鳥羽院に取り入り、少しずつ平氏の影響力を拡大し始めた。


だが、所詮は地方豪族の出であり、受領職にある身に過ぎない。都の栄誉、昇殿は許されぬ身分であった。武士にとって、昇殿の栄誉とは自らが殿上人と肩を並べ、天皇に近侍することを意味する。それは武士の階層にとって夢のまた夢ともいえる大きな壁であった。


忠盛は、そのことをよく理解していた。しかし、それでも彼の心には「いつか平氏が昇殿し、都で名実ともに認められる一族になるべし」との夢が秘められていた。その想いが彼を田舎育ちの無名な武士から一歩ずつ都に近づけ、後に平家が栄華を誇る道を拓く一歩となるのだった。






***作風を変えてみる(version3)***



かつて「平家にあらずんば人にあらず」と威勢を張った平氏も、もとは地味な一地方の豪族に過ぎなかった。


遡れば、そのルーツは桓武天皇の第五皇子・葛原親王という御方に行きつく。なにせ皇子の末裔、とはいえ、親王の孫である高望王がどうにも政治の世界にうんざりして、京都を後にして地方で生きることを決めたのが、この一族の転機となった。


「父のように一生、位も官職もないまま世を終えるなんてまっぴら御免だ」と、思い切って武士の道を選んだ高望王。こうして、彼の子孫たちは中央を離れて武芸を磨き、良望から正盛まで、六代かけて次第に武門の名を轟かせていったのである。


特に、六代目の正盛は、白河法皇のお側に仕えて信頼を得るようになり、その勢いに乗じて徐々に家の勢力を広げていった。続く忠盛も、京都へと上り鳥羽院に近づいてさらに地位を築き上げようとするが、ただの「受領」職の身ではどうにも限界がある。「昇殿」して名実ともに中央の一員となるには、まだまだ届かない。だが、そんな栄光が遠いと知りつつも、田舎育ちの忠盛は夢を抱き始めたのだった。


「俺だっていつかは昇殿してみせる」


質実で律儀、決して頭の切れる方ではない忠盛の心に、その日以来、じわじわと一つの野心が芽生え始めていた。






***作風を変えてみる(version4)***



彼らが「平家にあらざるは人にあらず」と呼ばれるようになる前、平氏はただの地方豪族にすぎなかった。まして、その栄華は、一代や二代の話ではなく、遡れば遡るほど、不遇な立場の小さな武家だったことがわかる。


その起源をたどると、桓武天皇の第五皇子、葛原親王かずらはらのしんのうまでさかのぼる。親王の血を引く孫、高望王たかもちのおうは、ある日、決心する。「父のように無位無官のまま朽ち果てるのは御免だ」と。中央の藤原氏による専制にはうんざりし、臣籍に降下し、都から背を向けた。


その後、六代にわたり平氏の血筋は地方で武名を高めていった。特に正盛は、白河法皇に仕え、その信頼を得たことで平氏の勢力を徐々に拡大していった。しかし、地方豪族が中央で出世するには限界があった。どんなに功績を重ねようと、殿上人と肩を並べる「昇殿」は簡単には許されなかった。


そこで登場したのが正盛の息子、忠盛である。彼は、鳥羽院に接近し、中央の権力者たちの間に平氏の名を響かせようと腐心した。しかし、それでも忠盛の地位はまだ一介の受領に過ぎず、中央の有力貴族に比べれば微々たるものだった。


「いつか、平氏が堂々とこの国を歩む日が来る…」


忠盛はそう誓った。地方豪族としての限界に挑むべく、彼は律儀で賢い一介の武士から、中央に食い込むべく策略を巡らせる。正攻法だけではない。時には大胆な行動に出る勇気も必要だと悟っていた。いつか、堂々と中央の殿上で平氏の名を轟かせるために、忠盛の静かな闘志は燃え上がり始めていた。

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