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暗黒の戦い(1)

灰色の空が広がり、どこか遠くで雷鳴が低く唸っていた。腐臭漂う風が森を揺らし、木々の間に張り巡らされた黒い影が、まるで自らの意思を持つかのようにうごめいている。その中を一人の男が、足元を気にすることなく進んでいた。


彼の名はアレス。見るからに疲れ切った顔には、深い皺が刻まれている。旅の果てにたどり着いたこの異世界は、かつて彼が知っていたどの場所とも異なる、絶望と狂気に満ちた場所だった。


周囲に広がる森は、不気味な静寂に包まれていた。葉の擦れる音も、動物の鳴き声も聞こえない。ただ、遠くからかすかに感じる冷たい視線だけが、彼の神経を鋭く刺激していた。何かがいる、確かに感じる。だが、その正体を確かめる余裕など、彼にはなかった。


アレスは目の前に広がる黒い大地に目を凝らした。地面はかさぶたのようにひび割れており、そこから漂う煙は、魂をも焼き尽くすかのような毒々しいものだった。この世界に来てからというもの、彼の身体は徐々に蝕まれていった。肌は灰色に変わり、手足は冷たく硬直していた。それでも、進まねばならなかった。そうしなければ、この世界に取り込まれ、永遠に抜け出すことはできないのだから。


「ここが、終わりか...」


アレスの声は、かすれた囁きのように森に溶け込んだ。その声には、自らへの嘲笑が込められていた。彼はここに来るまでに、何人もの仲間を失ってきた。信じていた者、愛していた者、すべてを失い、残されたのはこの荒廃した世界と、終わりのない苦痛だけだった。


不意に、森の奥から何かが現れた。黒い霧の中から姿を現したそれは、歪んだ笑みを浮かべた異形の者だった。巨大な体躯に無数の触手が絡みつき、全身に刻まれた紋様が不気味な光を放っている。アレスはその姿を見て、かすかな恐怖を感じた。しかし、同時にそれが何であるかを知っていた。


「また、貴様か...」


異形の者は、まるでアレスの心を見透かしたように笑った。声なき声で囁くように、彼の頭の中に言葉が響き渡る。


「お前は何も学ばない。何度この地に来ようとも、結果は変わらないのだ」


アレスは剣を抜き、静かに構えた。その剣は、かつて彼が人間であった頃から共にあったものだったが、今ではその刃は鈍り、輝きを失っていた。それでも、彼はそれを手放すことはなかった。どれほど無意味であっても、それが彼にとって唯一の希望の象徴だったからだ。


「俺は、決して諦めはしない」


アレスは低く呟き、その瞳にわずかな決意を宿した。異形の者が目の前で蠢くたびに、空間がねじれ、現実がゆがんでいく。彼の体を取り巻く空気は重くなり、呼吸すら困難になっていた。それでも、彼は一歩前へ進んだ。


異形の者は笑みを深め、その巨大な触手をアレスに向かって振り下ろした。触手が地面を叩きつける音が響き、土が激しく飛び散る。アレスはそれを紙一重でかわし、逆に剣を振り上げた。だが、その一撃は異形の者の硬い体表をかすっただけで、致命傷には至らなかった。


「無駄だ」


その声が響くたび、アレスの心は少しずつ蝕まれていく。無力感が心に巣食い、闇が広がる。それでも、彼は剣を握りしめ、もう一度攻撃を試みた。だが、すでに彼の動きは鈍くなり、力を失っていた。


異形の者は悠然と彼の前に立ち、次の一撃を待っているかのようだった。アレスはその様子を見て、息を荒げながらも再び構えた。だが、彼の視界は徐々にぼやけていき、全身に力が入らなくなっていた。


「ここで...終わるのか」


その言葉が口をつく前に、アレスの膝が地面についた。剣が手から滑り落ち、地面に転がった。彼の目の前に広がるのは、ただただ暗闇だけだった。冷たい風が彼の頬を撫で、その身体から最後の熱を奪い去ろうとしていた。


しかし、その時だった。遠くから微かな光が差し込み、アレスの瞼に暖かさが伝わった。それは希望の光か、それとも死の間際に見る幻か。彼にはもう、それを確かめる力も残ってはいなかった。ただ、最後の力を振り絞り、その光に手を伸ばした。


異形の者の笑い声が、遠くで響いていた。すべては無意味だと嘲笑うかのように。しかし、アレスの心には、まだ小さな炎が残っていた。その炎は、どんなに小さくても、まだ消えてはいない。


そして、その瞬間、世界が暗転した。光がすべてを覆い、アレスの意識は深い闇の中へと沈んでいった。だが、その闇の中で、彼は何かを感じた。それは、彼が失っていたもの、いや、失われたと思っていたものの欠片だった。


---

--

-


夜が明ける気配はなかった。厚い雲に覆われた空は黒く染まり、闇はさらに深まるばかりだった。アレスはゆっくりと意識を取り戻し、重くなった瞼を開けた。身体は鉛のように重く、どこかで燃え上がる炎のような痛みが全身を蝕んでいた。しかし、最も苦しいのは、喉の奥に湧き上がる強烈な渇きだった。


彼は周囲を見渡した。あの異形の者は姿を消していたが、その気配はまだこの地に残っていた。腐敗した大地に倒れ込んだ彼の手は、冷たく湿った土に沈んでいた。その感触は、死の冷たさを思い起こさせるものだった。


「ここは……どこだ」


かすれた声が唇から漏れたが、その答えは誰も返してはくれなかった。暗闇が彼を包み込み、何かが遠くでうごめく音が聞こえてくる。それは、この世界の住人たち、否、捕食者たちだった。


アレスは歯を食いしばり、無理やり身体を起こした。足元はふらつき、今にも崩れそうだったが、彼は前に進むことを選んだ。このままここに留まれば、死が確実に彼を迎えに来ることは分かっていた。彼の心には、あるひとつの思いが浮かんでいた。それは、この世界に引きずり込まれた理由を知りたいという欲望だった。なぜ、こんな地獄のような場所に来なければならなかったのか。何が、彼をここに呼び寄せたのか。


森の奥から微かな光が見えた。冷たい風に混じって、かすかな暖かさが彼の頬を撫でた。それは、まるでかつての人間の世界の名残のように、懐かしさを感じさせるものであった。アレスはその光に引き寄せられるように、ふらつく足を前へと進めた。


一歩、また一歩。地面はぬかるみ、足元に絡みつくような泥が彼の進行を阻む。それでも、彼は前に進むことを止めなかった。光の先に何が待っているのか、それを確かめるために。


やがて、アレスは森の切れ目にたどり着いた。その先には、石造りの古い祠が佇んでいた。長い年月を経て崩れかけてはいたが、その姿は今もなお厳かで、何か神聖なものが宿っているかのようだった。祠の中央には、淡い青い光を放つ石碑が立っていた。その光は、まるで彼を誘うかのように揺らめいていた。


アレスはその石碑に近づき、手を伸ばした。その瞬間、彼の頭に鋭い痛みが走った。まるで何かが彼の脳を突き刺し、無理やり記憶を掘り起こしているような感覚だった。彼は呻き声をあげ、その場に崩れ落ちた。視界がぐるぐると回り、意識が朦朧とする。


記憶の中に、朧げな映像が浮かび上がった。それは、かつての彼の世界、そしてそこでの出来事。戦い、裏切り、そして――家族。すべてが混ざり合い、彼の頭の中で渦巻いていた。


「アレス……」


突然、誰かの声が聞こえた。優しくもあり、どこか悲しげなその声は、彼にとってあまりにも馴染み深いものであった。彼はその声に向かって手を伸ばしたが、何も掴むことはできなかった。声は遠ざかり、再び暗闇に沈んでいく。


「誰だ……お前は、誰なんだ……!」


叫んでも、その声は虚しく闇に吸い込まれるだけだった。アレスは息を荒げながら、必死にその記憶を追いかけた。しかし、思い出せるのはほんの一瞬の断片だけであり、それが何を意味しているのかは、彼には理解できなかった。


石碑の光は、次第に弱まり始めた。それと共に、彼の意識もまた薄れていく。アレスはその場に膝をつき、肩で息をするしかなかった。どこからか、風が吹き抜け、冷たさが彼の心臓を締め付けるようだった。


「このまま……終わるのか……」


彼の呟きは、静かに夜の闇に消えていった。再び訪れる絶望が、彼を襲おうとしていた。しかし、その時、ふと彼の手に何かが触れた。冷たく硬い、それでいて力強い感触。アレスはその手に力を込め、意識を失う寸前にそれを握りしめた。


祠の中に響く、静寂。風が木々を揺らし、再び夜がその静けさを取り戻していた。しかし、そこには確かな変化があった。アレスの手に握られたそれ――古びた石碑から伸びた小さな欠片。それはかすかに輝き、彼の手に微かな温もりを伝えていた。まるで、それが新たな道を示すかのように。


アレスは、その温もりに微かに安堵の息を漏らした。闇の中で初めて見出した、微かな希望の兆し。しかし、それは同時に、新たな闘いへの道でもあった。


彼は再び立ち上がり、祠を背にして闇の中へと足を踏み出した。全身に走る痛みを押し殺し、彼は再び前へと進んでいった。この世界の真実を知るために、そして失ったすべてを取り戻すために。


---

--

-


アレスは祠を後にし、足を引きずるようにして再び森の中を進んでいた。あの石碑から受け取った微かな温もりは、まだ彼の手のひらに残っていたが、それだけでは彼の身体を支えるには十分ではなかった。暗い森の中で、冷たく湿った風が吹きつけ、彼の体温を奪っていく。疲れ切った足取りは、今にも折れてしまいそうなほど脆かった。


森は不気味な静寂に包まれていたが、アレスはそこに隠された危険を本能的に感じ取っていた。木々の間には見えない何かが潜んでおり、彼の一挙手一投足を監視しているように思えた。葉の擦れる音も、獣のうめき声も聞こえない。まるで、この世界自体が彼を飲み込もうとしているかのような錯覚に陥る。


彼は再び手に握った石碑の欠片を確かめた。それは滑らかで冷たく、ほのかに光を放っていた。その光は、どこか懐かしさを感じさせるものであったが、同時に深い悲しみをも帯びていた。アレスはその光に頼るようにして、足を前に進めた。だが、その先に待ち受けるものが何であるかは、彼自身も分かってはいなかった。


「この欠片が導く先に、何がある…?」


アレスは自問自答しながらも、答えの出ない問いに苛立ちを覚えた。彼の記憶は、依然として霧に包まれており、何か重要なものが欠けているように感じていた。過去の断片的な記憶が時折浮かび上がるが、それらは決して鮮明なものではなく、まるで夢の中の映像のようにぼんやりとしていた。


その時、不意に森の中からかすかな音が聞こえた。乾いた枝が踏み砕かれる音だ。アレスは反射的に剣に手をかけたが、そこには何も感じられなかった。振り向くと、暗闇の中からゆっくりと姿を現したのは、巨大な狼のような影だった。赤い瞳が彼を睨みつけ、鋭い牙が露わになっていた。


「…来たか」


アレスは無意識に呟き、構えるように後ずさった。狼の唸り声が低く響き渡り、空気が一層緊張感を増した。彼は手にした剣を握りしめ、次の動きを見極めようと集中した。


しかし、狼はすぐには襲いかかっては来なかった。彼をじっと見つめ、まるで彼の内面を覗き込むように動きを止めていた。その赤い瞳には、ただの獣には感じられない知性が宿っていた。


「お前は何者だ?」


アレスは問いかけたが、当然のように返事はなかった。だが、その問いかけが引き金となったかのように、狼は低い唸り声を発しながら徐々に距離を詰めてきた。その動きは無駄がなく、完璧な狩りの動作だった。アレスの身体は緊張で硬直し、冷や汗が背中を伝う。


「…やるしかないか」


彼は心を決め、剣を構え直した。だが、その瞬間、足元にあった石碑の欠片が一層強い光を放ち始めた。青白い光が狼を包み込み、その影をさらに長く引き延ばした。狼は一瞬立ち止まり、鋭い視線を石碑の欠片に向けた。


「これは…」


アレスは何かが起こるのを感じたが、その正体を理解する前に、狼が突然吠え声を上げ、飛びかかってきた。彼は咄嗟に剣を振り下ろしたが、狼の動きはそれを上回る速さで、鋭い爪が彼の肩を引き裂いた。


「くっ…!」


激痛がアレスの身体を貫き、彼はその場に倒れ込んだ。目の前で揺れる光景がぼやけていく中で、彼は必死に意識を保とうとしたが、その努力は次第に無駄になっていった。狼の唸り声が近づき、アレスの喉元に牙が迫る。


その時だった。石碑の欠片が、彼の手の中で眩しいほどの光を放ち始めた。アレスの身体を包むように青白い光が広がり、彼の傷口を覆った。狼の牙が彼の肌に触れる寸前、光が爆発的に広がり、周囲の闇を一瞬にして払った。


「な…何だこれは…?」


狼は光に圧倒され、後退した。アレスはその光に包まれながら、信じられないような感覚を覚えていた。身体の痛みが和らぎ、傷口からは暖かさが広がっていた。まるで、彼の内なる力が目覚めたかのようだった。


「これが…俺の力なのか?」


アレスは自らの手を見つめた。その手のひらには、まだ石碑の欠片が輝いていたが、その輝きは次第に弱まり、再び静かな光へと戻っていった。


狼はその光に怯えたように森の奥へと逃げ去った。アレスは立ち上がり、まだ信じられないような顔をしていた。彼は再び石碑の欠片を握りしめ、その力を確かめるように感じ入った。


「俺にはまだ、この世界で成すべきことがある…」


アレスの中に、新たな決意が生まれた。彼は祠で見た光景、そしてその記憶を手がかりに、この世界の真実を解き明かすための旅を続けることを決意した。闇は再び彼を包み込んだが、その心には確かな光が灯っていた。


次の一歩を踏み出すアレス。その足取りには、わずかながら力強さが戻っていた。彼は森を抜け、新たな道を進むことを決意した。その先に待つものが、希望か、それともさらなる絶望かはわからない。しかし、彼には今、前に進むための理由があった。


---

--

-



空が再び暗黒に染まり、森はその奥深くに潜む影をさらに濃くしていった。アレスは息を整え、狼の襲撃を乗り越えた後の疲労感を振り払おうとしたが、身体はまだ重く、痛みが全身に残っていた。だが、その痛みすら、今や彼の意思を揺るがすことはなかった。石碑の欠片が放った光、その暖かさが、彼に確かな目的を与えていたからだ。


「この道の先に、何があるのか……」


彼は独り言のように呟きながら、森の中を進んでいった。歩みはゆっくりとしたものであったが、その一歩一歩には、以前よりも強い決意が込められていた。今や彼の心には、ただの生き延びるという目的だけでなく、この世界の真実を知るという新たな使命が刻まれていた。


その時、突然、遠くから耳をつんざくような悲鳴が聞こえてきた。それはまるで、人間のものとは思えない、苦痛と絶望が混ざり合った声だった。アレスは立ち止まり、音の方向を確かめた。彼の身体は自然とその方向へと向かっていた。


「何が……?」


足音を忍ばせながら、アレスは音の発生源へと歩みを進めた。森の中はさらに暗く、木々が生い茂り、その隙間から漏れる光すらもわずかだった。だが、音の方角は確かで、彼はその声に引き寄せられるように歩を進めた。


やがて彼は、木々の間に開けた小さな広場にたどり着いた。そこには奇妙な光景が広がっていた。地面には古い紋様が刻まれており、その中心には黒い煙が立ち込めていた。その煙の中には、何かが蠢いているように見えた。よく目を凝らして見ると、それは人間の姿をしていたが、その身体はねじれ、歪み、恐ろしい形に変貌していた。


「……これは」


アレスは、言葉を失った。その姿は、かつて彼が知っていた人間のものではなかった。異形の者たちが、人間だった頃の記憶がかすかに残っているかのように、彼に助けを求めるかのような目をしていた。しかし、その表情は苦しみに歪んでおり、明らかに常軌を逸していた。


その時、アレスの耳に、かすかに囁くような声が聞こえた。低く、呪いのようなその声は、彼の頭の中で直接響いているかのようだった。


「……助けを……求めているのか……」


アレスはその声に応じるように、無意識に剣に手を伸ばした。だが、その時、異形の者たちは突然、狂ったように動き始めた。まるで苦痛から逃れようとするかのように、身体を激しく捩じらせ、叫び声を上げた。黒い煙が広場全体に広がり、アレスはその場から後退した。


「やめろ……!」


アレスは叫んだが、その声は異形の者たちに届くことはなかった。彼らは苦しみ、もがきながら、その身を次第に闇へと溶け込ませていった。まるで、その存在自体が闇に吸い込まれていくかのように。


「これは……一体何が……」


アレスは後退しながら、その異常な光景を見つめ続けた。彼の目の前で、かつて人間だった何かが闇に飲み込まれていく。彼の心は、無力感と恐怖に押しつぶされそうだった。だが、それでも彼は、目を逸らすことはしなかった。この世界の狂気に対峙する覚悟を持っていたからだ。


やがて、異形の者たちは完全に闇に飲み込まれ、広場には再び静寂が戻った。だが、その静寂は不気味であり、森全体がその瞬間を飲み込んだかのように感じられた。


アレスは、広場の中央に立ち尽くし、深い息をついた。その胸には重いものが残り、彼の心に新たな疑念が浮かび上がっていた。この世界で何が起こっているのか、そして彼は何をしなければならないのか。


その時、彼の手に握られていた石碑の欠片が、再びかすかに光を放った。その光は暖かく、彼の手に微かな力を与えた。それは、まるで彼に前へ進むよう促すかのようだった。


「……まだ終わってはいない」


アレスは呟き、再び歩みを進めた。彼は広場を離れ、再び森の奥へと進んでいった。この世界の真実を知るために、そして今度こそ、失われたものを取り戻すために。彼の心には、さらに深まる闇の中で、決意が一層強く燃え上がっていた。


---

--

-



森の奥へ進むにつれて、空気はますます重く、冷たさが骨の芯まで染み込むようだった。アレスは自らを奮い立たせるように、手に握った石碑の欠片を確かめた。その光は弱々しいながらも、彼に微かな希望を与え続けていた。しかし、その希望すら、この世界の終わりなき闇に飲み込まれそうな気がしてならなかった。


「ここが……最後かもしれないな」


アレスは小さく呟き、荒れた道を歩き続けた。周囲の木々は次第に低くなり、地面は乾き切った砂漠のように変わり始めていた。森を抜けると、目の前には荒廃した大地が広がっていた。そこには、かつて街だったであろう廃墟が点在していたが、それらは風化し、もはや人の住める場所ではなかった。


アレスは目を細め、廃墟の中に佇む一つの建物に目を留めた。それは他の建物よりも比較的無傷で、何かに守られているように見えた。彼は本能的にその場所が重要であることを感じ取り、足を進めた。


建物の入り口は重く、古びた鉄扉が彼の前に立ちはだかっていた。錆びついた扉を開けるには相当な力が必要だったが、アレスはなんとかそれを押し開け、中へと足を踏み入れた。


中は薄暗く、ひんやりとした空気が漂っていた。古びた家具が散乱し、壁には無数の傷跡が残されていた。かつてここで何かが起きたことを、静かに語っているようだった。


「……ここに、何があるんだ?」


アレスは周囲を見回しながら、奥へと進んでいった。やがて、彼の目の前に一つの大きな扉が現れた。そこには複雑な紋様が刻まれており、微かに光を放っていた。彼はその扉に手をかけ、ゆっくりと押し開けた。


扉の向こうには広い部屋が広がっており、中央には巨大な石の祭壇が据えられていた。その祭壇の上には、かつて見たことのないほどの美しさを持つ水晶が浮かび上がっていた。水晶は不気味なほどに澄んでおり、まるでその中に世界のすべてが封じ込められているかのように感じられた。


「これが……」


アレスは祭壇に近づき、その水晶に手を伸ばそうとしたが、その瞬間、部屋全体に激しい衝撃が走った。彼は反射的に後退し、剣を抜いて構えた。部屋の中に黒い霧が立ち込め、次第に形を成し始めた。


「またか……」


霧が渦巻き、その中から現れたのは、異形の者だった。だが、これまでのものとは異なり、その姿はまるで人間のように整っていた。黒いローブを纏い、冷ややかな笑みを浮かべたその者は、アレスに向かって歩み寄った。


「ようこそ、アレス。待ちわびていたぞ」


その声は低く、深い響きを持っていた。アレスは剣を握り直し、相手の動きを見逃さないように警戒を強めた。


「貴様は何者だ?」


アレスの問いかけに、異形の者は冷たく微笑んだ。その笑みには、底知れぬ邪悪さが込められていた。


「私は、この世界の管理者の一人に過ぎない。そして、君をここに導いたのも私だ」


アレスは一瞬言葉を失ったが、すぐに反論するように声を荒げた。


「俺を……導いた? 何のために?」


異形の者は手を広げ、まるで世界のすべてを見渡すかのように目を閉じた。


「君には、この世界の真実を知る権利がある。君がここに来た理由、それを伝えるために、私はここにいる」


その言葉に、アレスはわずかに胸の奥で何かが揺れ動くのを感じた。だが、それが希望か、恐怖かは分からなかった。


「真実……?」


アレスは剣を構えたまま、相手の言葉に耳を傾けた。異形の者はゆっくりと頷き、静かに話し始めた。


「この世界は、君が思うよりもはるかに複雑であり、君がかつて住んでいた場所とはまったく異なる法則に支配されている。君がここに転移してきたのも、すべては計画の一部だ」


アレスは眉をひそめ、相手の言葉を疑った。しかし、その胸の奥でくすぶっていた疑問が次第に形を成していくのを感じた。


「計画……? それは誰の計画だ?」


異形の者は再び微笑んだ。その笑みは冷たく、何かを楽しむかのような不気味さを帯びていた。


「それを知るためには、まず君自身がこの世界の一部となる必要がある。そしてそのためには……」


その言葉と同時に、異形の者が手をかざすと、部屋の中に再び黒い霧が渦巻いた。アレスは剣を振りかざし、霧を切り裂こうとしたが、その刃は虚しく空を切るだけだった。霧は彼の身体にまとわりつき、視界が徐々に暗転していく。


「……くそっ、離れろ!」


アレスは必死にもがき、霧を振り払おうとしたが、その力は次第に奪われていった。彼の視界は完全に闇に包まれ、意識が遠のいていく。


「アレス、真実を知りたければ、闇に身を委ねよ。そして、新たな力を得るがいい……」


その声が、最後に彼の耳に届いた。闇がすべてを覆い尽くし、アレスの意識は完全に途絶えた。彼の身体は祭壇の前に崩れ落ち、静寂が再び部屋を包んだ。


やがて、部屋の中央に浮かぶ水晶がわずかに輝き始めた。その光は次第に強まり、部屋全体を照らし出した。その光の中で、アレスの身体がわずかに動き始めた。彼の手が再び石碑の欠片を握りしめ、その輝きが彼の身体に力を与えていく。


「……まだ、終わらせるわけにはいかない」


アレスはゆっくりと立ち上がり、再び剣を握り直した。彼の目には、今までになかった強い決意が宿っていた。この世界の真実を知り、そしてすべてを取り戻すために。


アレスは祭壇に向き直り、再び歩みを進めた。その先に待ち受けるものが何であれ、彼はそれを受け入れる覚悟を決めていた。闇の中で、彼の旅はまだ始まったばかりだった。

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