嫉妬
「また、残業っすか」
増井が不服そうに口を尖らせた。
「今日はみんないるからすぐに終わるわよ。この前みたいなことにはならないわ」
愛美はパソコンのキーボードを叩きながら増井に向かって言った。あれ以来、愛美の増井に対する言葉はやわらかくなった。
「この間は、ほんと、最悪でしたもんね」
増井は両手を後頭部に当て、椅子の背もたれに体を預けた。
最悪というのは、車のテールランプが割られたことも含まれているのだろうかと、愛美の気持ちが重くなった。
テールランプが壊された次の日に、愛美はコンビニでコーヒーとチーズケーキを買って増井に渡した。その時に車の修理の費用は弁償すると申し出たが増井は拒否した。受け取ってくれた方が少しは気が楽になるのだが、増井は出してもらうのなら係長に出してもらいたいと言ってきかなかった。
「増井くん、グチグチ言わないで、さっさと仕事して」
真中の眉がつり上がった。
「すいません」
増井は椅子の背もたれに預けていた体を起こして肩を竦めた。
「増井さん、頑張って少しでも早く終わらせましょ」
奈南が増井に向けて両手を胸の前で拳にして笑みを見せた。
「そうだな。よーし、奈南がそう言うなら頑張ろっかな」
増井は両手を上げてから腕捲りをした。
真中は愛美に視線を向けて「ハァー」とため息をついた。愛美は苦笑いを浮かべた。
この前のような急な依頼ではなく、朝から残業になることは予測できた。それに今日は真中も奈南もいるので、気分的には楽だ。たぶん、このペースなら八時までには終るだろう。
増井以外は口を開くことなく、オフィス内はキーボードを叩く音がカタカタと響いた。
たまに増井が愛美や奈南に話しかけてきた。その度に真中が「増井くん」とキツい口調で言うので、増井はすぐに口を閉じた。やはり真中がいるとオフィス内が引き締まるなと思った。
「さすがに四人いると、この前より早く終わりましたね」
増井は満足そうに笑みを浮かべた。
真中がいるから、みんなが仕事に集中していたせいもある。真中がいなければダラダラと遅くなったかもしれない。
「ほんとね。やっぱり佐々木さんは手が速いわ」
愛美は前に座る奈南に視線をやった。
「へへへ、ありがとうございまーす」
奈南は愛美に向かって胸の前でピースマークを見せた。奈南は愛美に向かってニコニコと笑みを浮かべている。最近の愛美に対する奈南の言動は馴れ馴れしくなってきている。愛美は奈南が自分に好意を持ってくれているからだと思い嬉しかったが、真中はそれをよく思っていないようで、その様子を見た時の真中の目はキッときつくなる。
「今日は全員、俺が送りますよ」
増井が車のキーを高く上げ振り回した。
「増井くん、ごきげんじゃない」
真中の顔も仕事が片付いてやわらかくなっていた。
「思ってたより、めちゃくちゃ早く終わりましたからね。俺、もっと遅くなるかと思ってました」
「確かに増井くんのペースでやってたらもっと遅くなったでしょうね」
真中がやわらかい表情で嫌みを言った。
「えー、俺ってそんなに手が遅いっすかね」
「手が遅いというより、増井くんはしゃべり過ぎなの。いつも口ばっかり動いて、手が止まってるのよ。今日だって増井くんが頑張ってくれてたら、もっと早く帰れたわよ」
真中の眉間に皺が入り、増井にピシャリと言った。さっきまでとは違い急に厳しくなる。
「はい、反省します。そのお詫びということで、美女三人を自宅まで送り届けます」
増井はそう言って、もう一度車のキーを顔の前で振った。
「じゃあ、今日は増井くんに甘えて送ってもらいましょうか」
真中は少し呆れた顔をしたが、すぐに表情はやわらかくなった。
駐車場まで行ってから、増井が車内を片付けている間、愛美が車の後ろに回り、テールランプを覗いて見ると、割れたままになっていた。それを見て愛美は重い気持ちになったが、増井はあまり気にしていない様子だった。
「さぁ、さ、早く乗ってくださーい」
車内を片付け終わった増井は明るい声を上げた。
「はーい」
奈南がそう言って躊躇なく助手席に体を滑り込ませた。
愛美はそれを見て違和感を覚えた。この場面では助手席は上座になるのではないか。普通はどこに座るか真中に確認するべきだ。一番後輩の奈南が先に乗り込むのはおかしい。
就業時間外なので、そこまで考える必要はないのだろうが、奈南が躊躇なく増井の助手席に座ったことが愛美の心に引っかかった。
愛美は後部座席のドアを開け真中を先に乗せてから隣に乗り込んだ。最後に増井が運転席に座った。
「じゃあ、帰りますか」
増井がそう言ってエンジンをかけた。
愛美は助手席に座って増井を見つめる奈南の姿に胸をざわつかせた。なぜ奈南が増井の隣に座るんだ。それも躊躇することなくだ。普通なら一番年上の真中先輩が助手席に座るべきではないのか。
奈南は助手席に座ってから空調などダッシュボードを勝手にいじっていた。増井の助手席に座ることに慣れているように見えた。
増井は車中でもごきげんで口が軽やかだった。助手席の奈南は相槌をうちながら手を叩き笑っていた。愛美は、前に座る二人がお似合いに見えることにまた胸がざわついた。
自分は何を考えてるんだと、ため息を吐いた。
「どうしたの、何かあったの」
隣に座る真中にため息を聞かれたのか、真中は心配そうに首を傾げ愛美の顔を覗きこんだ。
「い、いえ、な、なんでもないです」
真中に今の心境を勘づかれたくない。
「あの人とは、どんな感じなの」
真中が前で騒ぐ二人を一瞥してから、声を落として訊いてきた。あの人とは誰のことだろうと頭の中を整理した。
「あの人ですか」
「そう。この間結婚相談所で紹介してもらった男性とデートするって言ってたでしょ。その後どうだってるの」
時田の話題に気持ちが沈んだ。
「デートはしましたけどそれだけです」
前の二人に聞こえないように小声で言ったが、二人の様子を見ていると小声で言わなくても、こっちには興味がないようで二人で騒いでいた。その様子を見て愛美は一段と気持ちが沈んだ。
「そうなの」
真中はそれだけ言って、それ以降は口を開かなかった。
「真中先輩を先に送りますね」
増井は最初に真中を送ることを高い声で宣言した。住んでいる場所の順番を考えれば、奈南が一番で真中が二番、そして、愛美が最後になるはずだが、増井は先輩を優先して先に送るつもりなのか。それは先輩への配慮なのか。それなら納得はできるし不自然ではないと頭を整理した。
しかし、そうなると、真中の次に愛美を降ろして、それから増井は来た道を戻り奈南を送らなければならない。先に奈南を下ろして次に真中、最後に愛美の順番が増井の帰り道からするとスムーズだと思った。
「わたしを先に送ってくれるの。ありがとう。じゃあ、とりあえずこの道を大崎町の交差点までまっすぐね」
真中はそんなことを気にする様子もなく、嬉しそうに自分のマンションまでの道順を後部座席から増井に案内していた。
「じゃあ飛ばしますよ」
増井がアクセルを踏み込んだ。
それからも前の二人は騒ぎ、愛美と真中は外の景色を眺めていた。
「そこの信号の手前でいいわ、増井くん、ありがとう」
自分のマンションの近くの交差点の手前で真中が運転する増井に声をかけた。
「先輩、ここでいいんすか」
増井が車を路肩に寄せた。
「ええ、増井くんありがとう。助かったわ」
真中が鞄を手に持った。助手席の後ろに座る愛美は一旦車から降りた。
「真中先輩、お疲れさまです」
愛美は車から降りてきた真中に向かって頭を下げた。
「愛美、お疲れさま」
真中が愛美の肩に手をやって、愛美を見つめた。キラキラと輝くきれいな瞳から視線をそらしてしまった。
次に真中が助手席の窓から車のなかを覗きこんだ。奈南が助手席の窓を開ける。
「増井くん、佐々木さん、お疲れさま」
真中が運転席と助手席に座る二人に向けて笑みを浮かべた。
「お疲れさまです」
奈南が真中に向かってペコリと頭を下げた。
「真中先輩、お疲れさまっす」
増井が馴れ馴れしく人差し指と中指を立てこめかみの辺りに当てた。
「じゃあ、お先に」
真中は踵を返して帰っていった。
「お疲れ様でした」
愛美は真中に頭を下げてから車に乗りこんだ。
「篠原先輩とこは、ここからすぐっすよね」
増井が体をひねって後ろ座席に座る愛美の方を見た。
「そうね、でも、意外とかかるのよ。ぐるっと回らないといけないから十分くらいかかるかな」
「えっ、そんなかかります?」
増井が素っ頓狂な声をあげた。
「うん、車だとこの先一方通行が多いのよ。だから、一旦さっきの大通りに出てもらわないといけないの。だから、ここからだと歩いて帰るのと車で帰るのとあまり時間が変わらないの」
愛美のマンションは住宅街の入り組んだところにあるので、ここからだと車で行くのは不便だ。
「確かに篠原先輩のマンションの辺りって、なんかごちゃごちゃしてましたもんね」
「えーっ、直哉くん、何で篠原先輩のマンションの場所知ってんのよー」
奈南が増井の左手を揺すった。問い詰めるような口調になっていた。
直哉くん? 奈南が増井のことを直哉くんと呼ぶのをはじめて聞いた。
「こないだ、お前が有給とって、真中先輩が出張の日だよ。前も話したじゃねえか」
増井は助手席に座る奈南に向かって言ってから、愛美の方を見た。
「あの日は係長の認知症のせいで、先輩と二人めちゃくちゃ遅くまで残業になったんすもんね」
増井がルームミラーで後ろに座る愛美を覗き見た。
お前? 増井は奈南のことをお前と呼ぶ仲なのか。
「増井くん、あの時はありがとう」
ルームミラーから見える増井に笑みを向けた。
「フン」
奈南がすねたように鼻を鳴らした。奈南は歩いても変わらないなら、ここから歩いて帰ればいいのにと思ってるのかもしれない。奈南には嫌われたくはない。
増井はいつの間にあの日の残業のことを奈南に話していたのだろうか。車のテールランプが植木鉢で壊されたことも、増井は奈南に話しているのだろうか。
『キィーッ』
愛美が考え事をしていると増井が急ブレーキを踏んだ。
「篠原先輩、着いたっすよ。最後は飛ばしたっす」
増井が真中のマンションからここまで車を飛ばしていたようだが全く気づいていなかった。
真中が抜けて三人になった途端、車内の空気が重たく感じたのは愛美だけではなかったのかもしれない。三人になった車内で、増井と奈南は愛美を邪魔に感じていたのかもしれない。
「ありがとう、気を付けてね」
後部座席のドアを開けて車を降りる前に礼を言った。
「先輩、お疲れさまでした」
奈南が後ろを向いてペコリと頭を下げた。奈南の笑顔がいつもとは違う気がした。
「篠原先輩、お疲れさまっす」
増井が真中の時と同じように人差し指と中指をこめかみの辺りに当てた。
「じゃあね」
愛美は後ろ髪を引かれるような思いだった。これから増井と奈南を二人きりにしたくない。そう思うがどうすることも出来ず車から降りた。ドアを閉めてから助手席に座る奈南を見た。
「先輩、お疲れ様でした」
奈南はペコリと頭を下げてから手を振った。
「お疲れ様」
愛美も胸の前で小さく手を振った。
車が走り出すと同時に奈南の顔は増井の方に向いているのがわかった。増井と奈南が二人っきりになり、走り去っていく車をむなしい気持ちで見送った。すぐの信号で止まったが片方のテールランプしかついていない。壊れている箇所が痛々しく見えた。
信号が青に変わり車が角を曲がり見えなくなってからマンションへと歩き出した。
エントランスに入って右側にある集合ポストに視線を向けた。この間のことがあるので恐る恐るポストの口を覗いた。ハガキサイズの白い紙が一番上に見えた。
一瞬蓋を開けるのを躊躇したが、開けるしかない。白い紙の下に重要な郵便物があるかもしれない。ポストを開けて中に入ってるもの全てを鷲掴みにして取り出した。一番上にある白い紙だけ抜いてひっくり返すと、また赤い文字が書いてあった。
『おそい』
見てすぐにグシャグシャに丸めてゴミ箱へ放り込んだ。
急いでエレベーターで七階へ上がり、部屋まで走った。部屋の近くまできたところで異変に気づいた。ドアノブに何か白いものが引っ掛かっている。ドアの前まで来てそれがコンビニの袋だとわかった。白い袋にはあのハガキサイズの白い紙が貼ってあった。
『どうぞ、たべて』
赤い文字が書いてある。
ドアノブから袋を取って中を覗いたら、愛美のお気に入りのチーズケーキとペットボトルの紅茶が入っていた。袋を握りしめて部屋に入り、袋のままゴミ箱に投げ捨てた。バッグを投げ出しベッドに崩れるように横になった。
バッグから漏れる音で自分が眠っていたことに気がついた。起き上がりバッグの中からスマホを取り出した。画面を見ると、また『公衆電話』となっていた。出るべきか悩んだが、覚悟を決めて通話ボタンを押した。
「はい、もしもし」
恐怖心を押し殺し、強い口調で言った。
「オツカレサマ」
「あなたは誰なんですか。いいかげんにして下さい」
「コウエンノベンチミテ」
「公園のベンチ?」
前に時田が夜を明かしたベンチだろうか。
「ソウ、ミテ」
「なんで見なきゃいけないの」
「フタリハ、デキテルカラ」
そこで電話は切れた。
愛美はカーテンを少し開けて公園を覗いた。公園の片隅にある電話ボックスから人が出ていったように見えた。明かりが少ない上にクスノキが邪魔してはっきりとわからない。
そこから視線を右にずらすと公園の植え込みの向こうに車が路駐しているのが見えた。増井の車に似ている。公園のなかに視線を移した。ブランコと滑り台が見える。その脇にベンチがある。そこに人影が見える。よく見ると、抱き合ってキスしているようだ。愛美の体は熱くなった。ベンチに座っているのは増井と奈南にちがいない。増井と奈南が目の前で抱き合っている。
愛美はそれを見てその場に崩れ落ちた。