時田の笑顔
こんな遅い時間でもコンビニの駐車スペースには十台くらいの車が駐車している。駐車場の空いたスペースに立ち何度も深呼吸して息を整えたが、欲しいだけの酸素がなかなか肺に行き渡らない。さっきの恐怖からか、これから時田に会わなければならないからなのか、それとも久しぶりに走ったからなのか足がガクガクと震えた。
コンビニから出てくる男たちが物珍しそうに愛美に視線を向けてくる。愛美はその視線を避けながら深呼吸を繰り返した。
息が整う前に時田の黒いミニバンがコンビニの駐車場に入ってくるのが見えた。時田が思ったより早く到着したので少し慌てた。
ミニバンのフロントガラスに時田の四角い顔が見えた。時田はすぐに愛美の存在に気づいたようで、愛美に視線を向けてペコリと頭を下げた。愛美は深々と頭を下げた。ミニバンが空いた駐車スペースにバックで入っていく。ライトが消えエンジン音がとまると同時に勢いよくドアが開いて時田が降りてきた。時田はすぐに愛美の方へ小走りでやってきた。
「篠原さん、大丈夫でしたか」
時田は眉をハの字にして心配そうな表情を浮かべていた。
「はい、大丈夫です。わざわざ来ていただいて、ありがとうございます」
愛美はまた深々と頭を下げた。
「いいですよ。それよりあんなに走ったら、喉乾いたでしょう。ここで飲み物でも買いましょうか」
時田がコンビニの明るい店内の方を指差した。時田は紺のブレザーにスラックス、そしてネクタイをしめ革靴を履いていた。愛美が電話した時、時田はまだ自宅に帰っていなかったのだろうか。時田がコンビニへ入って行ったので、時田の大きな背中の後を追った。時田の革靴の音がさっき聞いた靴音に似てる気がした。
愛美はペットボトルの紅茶とお気に入りのチーズケーキを手に取った。時田はすごい勢いでお茶やコーヒー、おにぎりにスナック菓子、菓子パンなどを買物カゴに放り込んでいった。時田が愛美の買った物も一緒に会計をすると言って、愛美の手にしていた紅茶とチーズケーキを愛美の手から取り買物カゴに入れた。わざわざ来てくれた上に支払いまでしてもらうなんて申し訳ないと思いながらも、愛美は時田の好意に甘えた。
「どうぞ、乗ってください」
コンビニを出ると、時田がホテルのボーイのように先に助手席のドアを開けて優しく声をかけた。
一瞬、車に乗り込むことを躊躇した。このまま歩いて帰ろうかと思った。
「どうぞ」
立ち止まる愛美に向かって時田がもう一度、さっきとは違う強くて低い口調で言った。
愛美は、その声に少し怯んでしまい断ることが出来ず、そのまま助手席に乗り込んだ。時田が助手席のドアをゆっくりと閉めた。閉まったあと窓からニッと口を横に広げるいつもの笑みを愛美に向けた。
時田は運転席側へとまわろうと車の前を横切っていった。フロントガラスから時田の横顔を見ていると、時田が立ち止まり助手席に座る愛美に視線を向けて、また口を横に大きく広げた。愛美はペコリと頭を下げた。それを見てから時田は運転席側へと歩きだした。心配して来てくれた時田には申し訳ないが少し気味が悪かった。
シートベルトをしめて、コンビニで買ったペットボトルの紅茶をカラカラになった喉に流し込んだ。
『あんなに走ったら……』
さっき時田が車から降りてきた時に、愛美に言った言葉を思い出した。なぜ、愛美が走っていたことを知っていたのだろうか。不審者に追われてるから、走って当たり前だと思ったのだろうか。それにしても『あんなに……』という表現は、その場で見ていたような口ぶりだ。そんなことを考えているとペットボトルの紅茶をいくら口に含んでも愛美の口の中はすぐに乾いた。
時田が運転席のドアを開けて車に乗り込んできた。時田と目が合った。細い目を大きく見開いている。それを見て愛美の背筋には冷たいものが走った。
「じゃあ、帰りましょうか」
「こんな遅くに申し訳ありませんでした」
遅い時間に呼び出してしまって恐縮する気持ちと恐怖から愛美は肩をすぼめた。
「なに言ってるんですか。私と篠原さんの仲じゃないですか。遠慮しないでください」
そう言って時田は車のエンジンをかけた。
「でも、時田さんも、まだ自宅に帰ってなかったんですよね。遅くまでお仕事でお疲れだったんじゃないですか」
運転席に座る時田の服装や足元に視線をやった。
「ええ、まあ。でもこれくらい平気ですよ。体力には自信がありますんでね。去年、うちの生徒が家出した時なんて一晩中捜しまわって一睡も出来ませんでしたからね」
時田は前を向いたままニコニコと笑みを浮かべていた。
その横顔を見ていると優しくて心の広い人にも見える。教師をしているし、信頼できる人のはずだ。愛美は自分にそう言い聞かせた。
「大変なお仕事ですね」
「どんな仕事でも大変ですし、そしてやりがいがあって楽しいものです。篠原さんもお仕事大変でしょうけど、やりがいがあって楽しいんじゃないですか」
時田はハンドルを握りながら、ちらっと愛美に顔を向けて笑みを浮かべた。
「ええ、まあ、そうですね」
やっぱり、教師らしくていい人だとも思った。
車の中ではお互いの仕事の話をした。そこで愛美は、あることに気づいた。時田は愛美のマンションの場所を知らないはずだから、道案内をしなければいけないのだ。次の信号を左に曲がらないといけない。そう思って口を開こうとした瞬間に、時田が左折のウインカーを出して左車線へ入り赤信号で停車した。時田を見るとエアコンの温度を調節して首を回していた。
「わたしのマンションの場所はご存じでしたか」
「えっ、あっ、あー、住所教えてもらいましたからね」
時田は右手で首を揉みながら言った。少し慌てているのがわかる。
住所を教えたおぼえはないのだが、結婚相談所が勝手に教えたのだろうか、個人情報なので、結婚相談所が勝手に教えることは考えにくい。引っかかるが、あまりしつこく訊くのも失礼だと思い、これ以上訊くのはやめた。
信号が青に変わり車はゆっくりと走り出し左折した。そこからは口を開くことが出来なくなった。
「はーい、着きましたよ」
時田は迷うことなく、愛美のマンションの前で車を停車させた。
「ありがとうございました」
時田に向かって頭を下げ、車から降りようとした。
「ちょっと待ってください」
時田の大きな手が愛美の肩へ伸びてきた。肩が痛くなるくらいの強い力でつかまれた。
「は、はい」
愛美の体は恐怖でかたまった。肩にのる時田の手を振りほどきたかったが、失礼だと思いグッと堪えた。
「な、なんでしょうか」
恐る恐る時田の方へ振り向いた。
「このまま私が帰って、篠原さんを一人にするのは心配ですので、今晩は篠原さんの部屋に泊めてもらうことにします」
時田がそう言った後に、細い目を見開いて口角を上げた。その顔を見て、また背筋に冷たいものが走った。
「えっ、いや、それは、ちょっと困ります」
愛美は首を激しく横に振った。この人は何を考えているのだろう。
「恥ずかしがらないで、せっかくだから、いいじゃないですか」
時田が愛美の体を力ずくで引き寄せようと、肩にのせた手に一段と力を入れた。時田の指が肩に食い込む。時田と目が合ったので、無言で首を横に振った。
時田の視線が愛美の顔から胸元へ移動するのがわかった。愛美は胸元を手でおさえた。時田の視線は愛美の顔へ戻り覗きこんできた。愛美は愛想笑いを浮かべて身体を背けた。今度は時田の視線がスカートから覗く太股へと移動していくのがわかった。今度は手でスカートを押さえた。
肩をつかむ時田の大きな手が愛美にノーと言わせない威圧感を感じさせるが、愛美は力一杯その手を振り払い激しく首を横に振った。
「それは、絶対に無理です。いい加減にしてください」
恐怖から声が大きくなった。
「なぜですか。もしかしたら篠原さんを狙っている男がまだこの近くにいるかもしれないんですよ。私は篠原さんが心配でこのまま帰れませんよ。私が帰ったあと、あなたの身に何かあったら、私は悔やんでも悔やみきれません」
時田はそう言いながら、四角い顔を愛美の顔にじわりと近づけてきた。
「いえ、も、もう大丈夫です」
愛美は両手のひらを大きく広げて近づけてくる時田の顔へ向けた。
「なぜですか」
時田は顔を歪めた。
なぜですかと訊いてくる意味がわからない。
「わたしの部屋に時田さんと二人きりで一晩いるというのはやっぱりおかしいと思います」
「私と部屋で二人きりになるのはダメですかね」
この男は教師のくせに、なぜそれがわからないのだろうか。
「いや、時田さんがダメとかではなくて、やっぱり男女が同じ部屋で二人っきりで一晩過ごすのはね、まあなんていいますか、そういうのは特別なことですし……」
「はい、そういうことですか。よくわかりました。篠原さんは私との男女の関係を想像してしまったということですね。ハハハ、あなたのそういうところも大好きですよ。じゃあ、今日のところは諦めましょう」
「す、すいません」
答えるのも嫌になってきた。
「そのかわり、私は一晩、この車を近くのコインパーキングにとめて、篠原さんのマンションの前の公園のベンチにいます。もし、何かありましたら電話してください」
「そんなことしてもらわなくて大丈夫です。時田さんも明日はお仕事でしょうから、帰って自宅でゆっくり休んでください。呼び出しておいて勝手なことを言いますが、本当にそうして下さい」
「ハハハ。どうせ今から自宅に帰っても篠原さんのことが心配で眠れませんよ。だから今夜は公園のベンチで寝ます。今夜はずっと篠原さんの近くにいさせて下さい。私のワガママですから、篠原さんは気にしないでゆっくりと休んでください。できれば、今夜篠原さんの夢に私が登場してくれると嬉しいですけどね。ハハハ」
体中汗がタラタラと滝のように流れた。この男が夢にまで登場してほしくない。
「わ、わかりました。でも、外は冷えますけど、大丈夫ですか」
「大丈夫です。これがありますから」
時田は体ををひねり後部座席から大きなバッグをとり、その中から何かを引っ張りだした。
「これにくるまって、公園のベンチから篠原さんを見守りますから」
「そ、それはなんですか」
「これは、シュラフです」
「シュ、シュラフですか?」
愛美は首を傾げた。聞いたことない言葉だ。
「ああ、寝袋のことですよ。私の趣味はアウトドアなんです。いつか篠原さんと一緒にこれを使ってアウトドアが出来れば最高です」
時田がシュラフをポンポンと叩いた。
「あっ、はあ」
「では、私は公園から篠原さんを見守っています」
これ以上言っても帰りそうもなかったので、公園のベンチから見守ってもらうことを承諾することにした。とりあえず早く自分の部屋に帰りたい。
「時田さん、ありがとうございました。本当に助かりました」
助手席のドアを開けながら礼を言った。
「いえ、ゆっくり休んでください。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
車から飛び降り助手席のドアを閉めた。運転席に向かって会釈をした。時田は愛美に向かって口を横に大きく広げて右手を上げてから、正面を向き車を発進させた。車がゆっくりと愛美から離れていった。車のテールランプが小さくなり左折して見えなくなったのを確認した。その瞬間に体の力が抜けた。
マンションのエントランスに入り、郵便ポストを覗くと宅配ピザのチラシや不動産屋のチラシなどが入っていた。ペラペラとめくり、必要なものがないか探してみたが、結局、そのまま全て備え付けのゴミ箱へ捨て、エレベーターで七階まで上がった。
部屋に入り着替えを済ませてから気になるので、カーテンを少しだけ開けて前の公園を見るとベンチに座る大きな人影が見えた。ペットボトルを傾けて飲料を口に流し込んでいた。
本当は自分のことを心配してくれて、ありがたいと思うべきなのだろう。愛美は時田を気味悪く感じてしまう自分に少し罪悪感を覚えた。深く考えないようにして、とりあえずシャワーを浴びてすぐにベッドにもぐり込むことにした。
ベッドに入り、目を閉じて何も考えないようにと思うが、時田の四角い顔が瞼の裏に浮かぶ。帰り道で聞いた『ズシズシッ』という靴音が耳の奥で響く。
一晩中何度も寝返りをうった。気がつけばカーテンの端から光が差し込んできていた。目覚まし時計を見る。結局、眠ったのか眠っていないのかわからないまま朝を向かえてしまった。
時田はどうしているのかと、ベッドから立ち上がり窓へと向かった。カーテンを少しだけ開けた。カーテンの隙間から朝日が射し込んで視界が奪われる。
右手でひさしを作り公園のベンチに視線を向けた。そこに時田の姿はなかった。時計を見ると六時を過ぎている。時田は仕事に行ったのだろう。愛美も急がないと遅刻してしまう。
『ピーンポーン』
そこでチャイムの音がした。
こんな早い時間に訪ねてくる人物などいないはずだ。嫌な予感がした。恐る恐るドアホンの画面を覗くと、時田の大きな顔が画面いっぱいに見えた。
「は、はい」
愛美はドアホンに向かって答えた。
「どうも、おはようございます。篠原さんよく眠れましたか」
「あ、はい、なんとか」
「それなら、よかった。さっきコンビニで朝ごはん買ってきましたので、ご一緒にどうですか」
時田がコンビニの袋を持ち上げて見せた。
「すいません。今、出社の支度をしてますので」
愛美はやんわりと断った。
「少しくらいダメですか。とりあえず部屋に入れてくださいよ」
ドアホンの画面いっぱいに時田の笑顔が見える。
「時田さん、わたしもう出ないといけませんので」
「そうですか、じゃあ職場まで車で送りますよ」
「時田さん、ごめんなさい。今日は一人にしてください」
愛美は悲鳴のような声を出してドアホンを切った。