愚痴
「えっとー、それからですねー……」
中途半端に混んだ車内で佐々木奈南の愚痴が止まらない。車内の男たちの視線を気にしながら奈南の話に耳を傾けた。
「確かにそれは何とかしないといけないわね。ルールは守ってもらうように、わたしから係長に話しておくわ」
先輩の真中詩織が奈南の愚痴を遮るように口を挟み、奈南の肩を二度三度軽く叩いた。
「大変だったわね」
真中は奈南に向けて口角を上げた。奈南はまだ気が収まらないのか口を尖らせていた。
「あそこは、男子立ち入り禁止にしませんか。あの人たち、どうせ散らかすばっかりで片付けないし、たぶん係長に言ってもムダだと思います。係長だって怪しいですもん」
奈南が愚痴を続けて最後に紅い頬を膨ませた。
「そうかもしれないわね」
真中はそう言って苦笑いした。
奈南が愚痴を言い、真中がなだめる。いつもの帰宅途中の車内での光景に篠原愛美は口を挟むことは出来なかった。
真中と奈南は愛美と同じ職場で正社員として働いている。真中は愛美より二歳上で、奈南は二歳下になる。帰る電車の路線が同じなので、三人はこうしてつり革につかまり一緒に帰ることも多い。つり革につかまっている短い時間に奈南が愚痴をこぼしてストレスを発散し真中がなだめるのはいつものことだ。
そして愚痴のターゲットになる人物もほとんどが職場の男性社員たちで、特に係長の恩田仁と若手社員の増井直哉がターゲットになることが多い。
今日の奈南の愚痴は仕事に直接関係ないことだったが、確かに腹の立つ内容で改善してもらいたいことだった。
今日、掃除当番にあたっていた奈南が出勤して給湯室に入ると、コーヒーの缶や菓子パンの袋などが散乱していたので、奈南は仕方なくそれらを片付けて綺麗に片付けた。
にもかかわらず、昼休みに奈南が給湯室に入ると、今度は食べ残しのカップ麺がシンクに放置されてあった。
給湯室は禁煙のはずなのに煙草の臭いがした。そして汁だけが残ったカップ麺にはタバコの吸殻が二つ浮かんでいた。
同じフロアで喫煙者は恩田と増井の二人だけだ。この二人のどちらかの仕業にちがいない。給湯室でこっそりカップ麺を食べて喫煙スペースの一階まで降りるのが面倒臭かったのか、そこで煙草を吸っていたのだと、奈南は顔を真っ赤にして怒っていた。
真中が係長の恩田に報告して男性社員に注意してもらうということで一応おさまったが、張本人が恩田の可能性が高い。
奈南は二十分間の帰りの車内で、ひたすらそのことを訴え続けた。最後はたまっていたすべてを吐き出せたようで、「ハァー」と長い息を吐いてから口角を上げた。
「真中さん、篠原さん、お疲れさまでした。お先に失礼します」
奈南は少しスッキリした表情に変わっていた。電車のドアが開いたのと同時に目一杯口角を上げ挨拶をした。
奈南の自宅が会社から一番近いので、まず最初に奈南が電車を降りていく。
「奈南、お疲れさま」
愛美は奈南に軽く笑みを返した。真中も横で手を振りながらにこやかな表情を浮かべていた。
ドアが閉まった向こう側で真中と愛美に向かってペコリと頭を下げて笑う奈南の姿に若さを感じる。
愛美と二歳しか変わらないのだが、奈南とは、それ以上の歳の差を感じてしまう。奈南には女の子らしさというか、少女のような可愛らしさが、まだまだ残っている。愛美はいつの間にそれがなくなってしまったのだろうか。いや、なくなったのではなく、愛美には生まれながらに奈南のような可愛らしさを持ち合わせていなかった。奈南の可愛さに憧れる。
奈南を見送って真中と二人並んでつり革につかまっていると、車内の男たちの視線が愛美たちから離れていった。男たちは、奈南がいなくなった愛美たち二人には興味が無いようだ。
「この間、奈南が篠原さんが目標ですって言ってたわよ」
真中が走り出した電車の車窓から遠ざかっていく奈南の姿を目で追いながら言ってきた。
「わたしなんて目標にならないですよ」
「そうかな、わたしも愛美はいい先輩だと思うよ。わたしなんかより、ずっといい先輩だと思うな」
真中が愛美の方に顔を向けた。
「そんなことないですよ。真中先輩が、わたしの歳の頃って、今のわたしなんか、比べ物にならないくらいバリバリ仕事してたじゃないですか。わたしはあの頃からずっと真中先輩が目標です」
「ありがとう。でも、愛美はわたしのせいで悩むことも多いんじゃないかな。さっき奈南が話してた件も、わたしがしっかり男性社員に注意しなければいけない立場なのに」
「なに言ってるんですか。その件は男性社員の問題ですよ。特に係長です。真中先輩が悪いわけじゃありません。わたしは真中先輩のおかげで、毎日楽しく安心して仕事が出来ています。奈南だって同じ気持ちだと思います」
愛美がそう言うと真中が潤んだ目で愛美をじっと見つめてきた。あまりにじっと見つめられたので、愛美は体が熱くなった。愛美は真中から視線を外しつり革を持つ自分の手に移動させた。
「愛美が入社してもう三年目か。あっという間だったね」
「そうですね、日が経つのが早すぎてあせります」
「今は、奈南が二十三歳で、愛美は二十五歳、わたしが二十七歳だから、ちょうど二年前は、今の奈南と愛美の関係がわたしと愛美の関係だったわけね」
関係という言葉にギクリとした。
「でも、今のわたしは二年前の真中先輩には到底及びません。これからもっと頑張らないといけないです」
愛美は口角をきゅっと引き締めた。
「相変わらず愛美は真面目ね。そういうところが愛美の魅力よね」
真中が目を細めて愛美を見た。
「いえ、真面目じゃないです。真中先輩に迷惑かけないように、ただ必死なだけです」
「愛美、駅着いたら、虎次郎に寄ろうか」
虎次郎とは愛美と真中がよく利用する居酒屋だ。価格は安いわりに料理の味はそこそこいける。お互い独身の一人暮らしなので、たまにここで夕食を済ませる。
そこで職場の男性社員たちの体たらくぶりを愚痴ってスッキリしてから帰宅する。奈南と三人でいる時は奈南のストレスを発散させるために、奈南が中心になって愚痴を話しているが、奈南の前では話せないことも、真中と二人きりになるといろいろと話すことができる。
恩田係長は物忘れが多くて、報連相が出来ないし男の社員に甘すぎるとか、若い増井はノリが軽くて中途半端だとか、課長は部長の顔色ばかり見て部下に目を向けていないとか、会議ばかりしているわりにはなにも決まらないとか、言い出したらキリがないので、いくら愚痴を話しても真中との話のネタはつきない。
しかし、どれをとっても、愛美にとって、さほど深刻なものではないので、愚痴をいい終えると奈南同様すっきりして家路につくことが出来る。
男性社員たちはルーズなところはあるが、良い人ばかりでパワハラやセクハラといったことは皆無だし、楽しくやりがいを持って仕事をさせてもらっている。愛美はこれも真中のおかげだと思っている。
今日もたいしたことない愚痴を話すことになるが、愛美はそれ以外に真中にどうしても話しておかなければならないプライベートな話題があった。
居酒屋『虎次郎』に入って一時間が過ぎた。今日も一通りの愚痴を言い終えてスッキリした。真中もそんな様子だ。仕事の愚痴が一段落すると、愛美たちの会話はプライベートな話題へと変わっていく。
「愛美、今度の日曜日空いてる?」
真中がビールジョッキを手に持ったまま訊いてきた。
「今度の日曜日ですか、すいません、予定が入ってしまいました」
愛美は小さく頭を下げた。
「あー、そうなんだ」
真中はビールを一口飲んでから、愛美に視線を戻した。
「めずらしいわね。どこかに行くの」
真中が口を尖らせて訊いてきた。
「あ、は、はい」
愛美はテーブルに並ぶ焼鳥に視線を落とした。少し言いにくい雰囲気だったが、真中に話しておくべきことを話すにはいいタイミングだと思った。ごまかして隠してもいつかは話さなければならない。
「実は、ちょっと言いにくいんですけど、わたし婚活をはじめちゃったんです」
真中に目を合わすことが出来ず、焼鳥を見たまま言った。
「うそー、本気なの?」
真中が下を向く愛美の顔を覗きこんで訊いてきた。
「あっ、はい。先月、結婚相談所に登録しまして、それで先週男性を紹介してもらったんです。その男性と今度の日曜日に会うことになっています」
顔を上げたが、真中に目を合わすことが出来なかった。
「へぇー、そうなんだ。全然知らなかったわ」
真中の顔を見ると口元を歪めているのがわかった。
「そうなんです。すいません」
愛美は両手を膝について頭を下げた。
「謝ることないわよ。良かったじゃない」
真中はそう言ってジョッキに残るビールを一気に飲み干して、店員を呼び生ビールを二つ注文した。
「愛美も飲みなさいよ。愛美に彼氏ができたお祝いをしましょうよ」
真中は少し投げやりな風に見えた。愛美の前にある半分ほどビールが残ったジョッキを顎で指した。真中の口調はお祝いという感じには聞こえなかった。
愛美は目の前のジョッキを手に取った。真中の顔を覗き見てからジョッキを口に当て残っていたビールを一気に飲み干した。
「でも、まだ、お祝いとかいうところまではいってません。相手の方にすぐに断られるかもしれませんから」
飲み干したビールジョッキを持ったまま真中に向かって苦笑した。
「でも、デートまでこぎつけたんでしょ。愛美なら絶対いけるわよ」
真中は焼鳥を一本手に取って、焼鳥の先端を愛美の方に向けた。
「相手の方と一度お会いしただけで、わたしの気持ちもまだ決まっていませんし、とりあえず日曜日に会ってから考えようかなと思っています。なので、……」
「で、お相手はどんな人?」
真中が愛美の言葉を遮った。少し苛ついている。
「えっ、えーと」
言葉を遮られて戸惑ってしまった。
「お相手の年齢とか職業とかさー」
真中が両肘をテーブルについて串だけになった焼鳥を愛美に向けた。真中は無理に笑みを作っている。
「年齢は三十五歳で中学校の教師だと聞いています。外見は真面目で誠実そうに見えますけど、まだ一度しかお会いしていないんで何ともいえません」
「学校の教師で誠実で真面目そうか。収入は安定していて、浮気もしない。家庭を大切にする。それって最高じゃない。あとはルックスね」
真中がテーブルに前のめりになった。嬉しそうに口角を上げて愛美の顔をじっと見た。
「残念ながら、イケメンではないですね。目は糸みたいに細いですし、鼻は横に広がっていて唇は厚くて顔は四角いです。柔道をやっていたらしくて、体が大きくてがっちりしてるので、頼りがいはありそうに見えます。よく言えば優しい熊さんみたいな人ですかね」
「へぇー、その優しい熊さんは愛美にぞっこんなんじゃないの」
「いえ、相手の気持ちはまだ何もわかりません」
愛美は俯きながら答えた。
「そっかなー。愛美がイエスなら決まりそうな気がするけどな。あーあ、愛美が結婚しちゃうのかー。わたし取り残されちゃうわ」
真中はタバコに火をつけて天井に向けて煙を吐いた。
「結婚なんて、まだ付き合うかどうかも全然決まっていませんから」
「でも、デートしてみるわけでしょ。結婚相談所で見つけた相手と結婚する気がなかったら、普通デートなんてしないでしょ」
「でも、お相手の方はいい人だとは思うんですけど、やっぱり、まだ恋愛対象ではないんです」
「恋愛対象かー」
真中はそう言ってからビールジョッキを持ち上げて一気に飲み干した。
「それから、もし結婚しても仕事は続けたいんです」
「そう、そりゃ良かった」
真中の口角が最後にキュッと上がった。