閑話 撤退
次々につむじ風が起こり、信者が宙を舞っている。
常識外の光景を目の当たりにして、しかし一揆を率いる坊官――下間頼言は冷静であった。
「……証如様も不思議な宝印(お札)をお作りになられる。件の『吉兆』が妖術使いであっても不思議ではないか……」
今ある戦力と、未知の妖術。どうするべきかと頼言は悩み……決断した。
「――撤退だ」
「て、撤退で御座いますか?」
「うむ。あの妖術がどのくらい連発できるかは分からぬが、分からぬままに突撃を繰り返すのは危険だろう」
坊官たちは信者を死地に送るのは躊躇わないが、それが犬死にとなる可能性があるなら話は別だ。今回連れてきたのは特に信心厚い者たち。無駄に浪費していいものではない。これ以上被害が出ぬうちに撤退し、改めて忍びを使って『吉兆』について調べるべきであろう。
なにより。
今回の堺攻めはあくまでついで。本来の目的である吉兆教の焼き討ちに成功し、堺を易々と攻め落とせないとなれば……撤退するのが一番『賢い』選択だ。
もちろん食料や財産を奪えなかったのは痛いが……それも信者の浪費をしてまで推し進めるべきものではない。そんなものは本願寺までの道中の村々から奪えばいいだけなのだから。
「し、しかし、信者どもをどう止めるおつもりで?」
「……我らの信仰心に恐れをなし、堺に逃げ込んだ吉兆教徒は改心した。これからは一向に南無阿弥陀仏を唱えることであろう」
「は、はぁ……?」
「異教徒を改心させたのだ。我らの目的は果たした。――もしも改心が嘘だった場合、また攻め込めばいい」
堺にいる異教徒は改心した。
つまり、もう堺に仏敵はいない。
仏敵がいないのなら、攻める必要もない。
改心が嘘であったと本願寺が判断したとき、堺は再び戦渦に巻き込まれるだろう。
何とも自分勝手な理屈であるが、それが許されてきたのが本願寺と一向一揆であった。戦国時代は『力』こそがすべて。どんな非道であろうとも、『力』さえあれば許される。
そして、『力』はより強い『力』によって打ち倒されるのが戦国の常であった。
「ははぁ、そういうことでありますか……」
戦を始めるのにも、止めるのにも、必要なのは大義名分だ。
これが例えば斎藤道三や帰蝶であれば謀略の限りを尽くして大義名分を用意するのだが……この坊官は大義名分をねつ造することを選んだ。
こうして。
下間頼言の指示により一向一揆は堺から撤退していった。
もちろん天狗による追撃もあったのだが、彼の目的はあくまで堺の防衛。堺から離れれば離れるほど追撃は弱まっていった。
それでも多大なる被害だ。
あと少し判断が遅れれば、壊滅的な被害となっていただろう。
「……吉兆か」
また攻め込めばいい、と副官には説明したが、それは危険であると下間頼言は判断した。あのつむじ風が『吉兆』の仕業であるとするならば、むしろ和睦をするべきだろうと。
無論、一方的に攻め込んだ一向一揆と簡単に同盟を結んでくれるなどと甘く考えてはいないのだが。吉兆も一向一揆の恐ろしさを知ったことだろう。
なにせ、たった5,000人でこれだけの力なのだ。本気を出して10万の信者を動員すれば、いくら妖術を使おうと勝てぬ勝負だと理解することだろう。
しかし、本願寺とて10万もの信者はそう簡単に動員できるものではないし……なによりまた錯乱し、法主様が頭を下げるような事態となってはならない。10万の動員はできるが、最後の手段とするべきだ。
蓮淳様を何としても説得しなければ。
どうやって説得したものかといくつか筋立てをしていた頼言は――、見た。
一向一揆が打ち破った土塀。
その周辺に残された信者の死体を興味深そうに観察する、白銀の髪の少女を。




