閑話 煕子と早苗
帰蝶と光秀が退室したあと。
光秀の妻・煕子と、未だ立場が曖昧な早苗は正座した状態で向き合っていた。
早苗としては冷や汗の流れる状況だ。
いくらこの時代が側室を許されているとはいえ、それはあくまで『筋』を通した場合。今の早苗は本妻の居ぬ間に光秀籠絡を企んだようなもの。しかも煕子からすれば『夫が死亡し、自らの保身のため』光秀に近づいたようにしか見えないだろう。
だが、早苗に引くつもりはない。ゆえにこその『熱い夜』発言である。
正妻と側室の戦いはいつの時代も、どんな国でも変わらない。どちらが夫の寵愛を受けるか。どちらが先に嫡男を身ごもるか。どちらの子供を後継ぎに据えることになるか……。状況によっては正妻と側室の立場が逆転することも珍しくはない。
本来、正妻と側室は敵対するもの。互いの邪魔をすることはあっても、協力し合うことは滅多にない。
だというのに。
煕子は、深く深く頭を下げた。
この場にいるのは早苗だけだというのに。側室候補であり、敵候補である早苗だけだというのに。
「帰蝶様からお聞きいたしました。熱にうなされる光秀を看病してくださり、その上、右も左も分からぬあの人を手助けしてくださったとか……」
「い、いえ、放っておけなかったと言いますか……」
いきなり出鼻をくじかれてしまい、たどたどしくしか答えられない早苗。そんな彼女を、煕子が顔を上げ、じっと見つめてくる。見極めるように。敵か味方かを判断するかのように。
「……帰蝶様のこと、いかがお考えでしょう?」
「帰蝶様、ですか……」
目の前にいるのは、光秀の正室。光秀は帰蝶の家臣。うかつな発言は自らの首を絞めることとなる。
だというのに、早苗は正直な感想を述べてしまっていた。
「――恐ろしい御方でございます」
「えぇ。恐ろしい御方です」
同意した煕子が憂鬱そうなため息をつく。
「帰蝶様のお力は、まさしく神と呼ぶべきもの。ですが、ゆえにこそ、和御魂にも荒御魂にもなるでしょう」
和御魂とは、優しさや慈悲などが強調される、神の一側面。
荒御魂とは、荒々しく猛々しい一側面。
和と、荒。
まったく異なる二つの側面を有してこその、神。
「…………」
「そして、あの人はそのことに気づいていないのです」
「…………………あぁ、」
甘いというか、うかつというか。早苗は『天然ボケ』という言葉を知らないが、もしも教えられたら喜んで使うことだろう。
「私には政務を手助けすることも、戦働きを手伝うこともできません。できることと言えば、家を守り、家で待つことだけ。……ですから、帰蝶様の怖さを理解している早苗様には……あの人の側で、あの人を支えてやって欲しいのです」
「な、なんと……」
本来であれば敵同士となるはずの早苗に、そのような頼みをするとは……。これが正妻の器であるか。これが明智光秀の妻たる女か。敵対することばかり考えていた自分の、なんと小さなことか。
…………。
今ここに、早苗は決意した。
影ながら明智光秀を支えよう。
そして、煕子もまた支えよう、と。
後にプリちゃんが『爪の垢を煎じて飲め』と口にする出来事である。




