閑話 木曾氏
「うぅむ……」
信濃国伊那郡の国人 (地方領主)である木曾義康は書状を読みながら唸り声を上げた。
「殿、斎藤義龍殿からの書状には何と?」
「うむ。苗木が兵を動かすかもしれぬとある」
「まさか、同盟を結んだばかりで裏切りを?」
「いや、他の遠山の領地を狙うつもりらしい。一番危ないのが明智と」
「……なんとまぁ、愚かな」
木曾と苗木遠山氏が同盟を結んだのは、あくまで武田晴信 (信玄)対策のため。だというのに、武田と対峙する真後ろ (美濃東部)が不安定になっては何の意味もないではないか。
いざ戦となれば同盟相手であるこちらも兵を出すのが筋というものだろう。が、今回の同盟はあくまで不可侵を確かめたものであり、しかもこちらには何の相談もない出兵なのだからそこまでする義理はない。
「義龍殿はさすが耳が早いですな。しかし、なぜわざわざこちらに教えてくだされたのでしょう?」
「うむ。斎藤と明智は血縁。もし苗木が明智を攻めれば斎藤は後詰め (援軍)の兵を出すとある。その際、騒がしくなるかもしれないがご容赦願いたいと。不安であれば峠を封鎖しても構わないと」
「なんと」
峠で仕切られているとはいえ、木曾と苗木の領地は隣り合っている。そんな場所に斎藤の大軍がやってくれば、『次はこちらが攻め込まれるかもしれない』と不安になってしまうのが人情というもの。なにせ木曾と苗木は(不可侵のみとはいえ)同盟関係なのだ。
逆に、斎藤からすれば、木曾が防衛のために兵を動かせば『横やりを入れられるかもしれない』と考えるだろう。
それを理解し、前もってこちらに断りを入れ、しかも峠を封鎖するための兵を動かしていいと申し出てくるとは……。
「次代の美濃国守殿が、ずいぶんと気を遣ってくださるのですな」
「うむ、斎藤道三の息子であるからどのような人物かと思えば、なかなか話が通じそうではないか」
「……そう演じている可能性もありますが」
「だとしても、武田よりは増しであろうよ」
信濃攻略を目指す武田信玄の横暴は目に余るものがある。敵対した城主の妻を家臣に与えたり、降伏した兵士を奴隷として鉱山で強制労働させたり、捕虜の首を並べて晒したり……。さらには占領された地での略奪は凄惨の一言に尽きるという。
あのような男とは、共に歩む道はない。
いくら戦国の世とはいえ、人として守るべき道を踏み外したあの男とは……。
であるならば、たとえ『裏』があるかもしれないとはいえ筋を通してくれる斎藤氏の方が信頼できる。
「……斎藤との同盟、考えるべきか」
「しかし、我らは苗木と同盟を結んでおりますが……」
苗木と同盟を結んでいれば、美濃方面は十分だ。むしろわざわざ斎藤とも手を結ぼうとするのは余計な憶測を呼ぶだろう。
だが、木曾義康は迷わない。
「苗木程度が、あの斎藤に勝てると思うか?」
「…………」
現代においては最期に息子に討ち取られたことや残された資料の少なさもあってイメージしにくいが、斎藤道三とはとにかく戦が強いのだ。勝てぬはずの兵力差をひっくり返したこともある。
まぁ、成り上がり者が権力を維持するには戦に勝ち続けなければならないのだから、強くて当たり前と言えるかもしれないが。
「もし戦になれば、それは苗木が勝手に起こしたこと。たとえ苗木から援軍を求められてもこちらは出さぬ。義龍殿にはそう返事を書いておこう」
「……そうですな。そもそも武田対策を考えれば容易に兵は動かせませぬしな」
「苗木め。余計なことをしてくれたものよ」
木曾義康は面倒くさそうに自らの顎髭を撫でた。




