閑話 大阪本願寺
――大坂本願寺。
台風による大坂の水没後。
高台に避難民が集まるのはまだいい。
しかし、その民たちが本願寺に押し寄せてくるのは困りものだった。
着の身着のままで逃げてきた者たちに食料などあるはずもなく。なんとか持参できたとしても、他の人間に見られれば奪い合いになってしまう。戦国時代、しかも災害時ともなれば常識的な態度など望むべくもない。
長雨による身体の冷えと飢え。いつ水が引くかも分からない不安に、引いたあとも作物はダメになっているだろうという諦め。
そんな状況からの救いを求め、人々は台地上にあった大坂本願寺へと向かった。
今でこそ締め切られた門を叩く程度で済んでいるが、夜になって気温が下がるか、飢えが我慢ならなくなればもっと過激な行動を取るだろう。塀をよじ登るか、門を壊そうとするか……。
「何とも……いかにしましょう?」
僧の一人が茶々――後に本願寺顕如と呼ばれることになる少年に問いかける。
「…………」
茶々としては『放っておけ』と言い返したいところだ。
大坂本願寺には多くの米の蓄えがある。しかし、それは他宗派から攻め込まれたときのための兵糧米であるし、銭の代わりとなる資産でもある。たしかに備蓄の数は多いが、避難民に分け与えていてはすぐに底をつくだろう。
信者は助けないといけない。
と、考えられるほど茶々は甘い考えは持てなかった。そもそも避難民の中には信者以外も多く紛れ込んでいるだろうし……。信仰という名の下に富を吸い上げて成長してきたのが本願寺――いいや、宗教というものだ。今さらいい顔をしたところで死後の地獄行きは免れないだろう。
本願寺の次期法主(一宗派の長)は黙殺を選んだ。
しかし、彼はあくまで『次』であり、現在の法主ではない。
そして、現在の法主はというと――
「――門を開けよ」
本願寺法主にして、茶々の父である証如はそう命じた。
「し、しかし……」
周りの僧たちは戸惑いを隠せない。門を開ければ避難民がなだれ込んでくるし、いずれは蔵にため込んだ兵糧米も見つかるだろう。
そして、そんな避難民を武力で排除するようなことを……『門を開けよ』と命じた証如がするだろうか?
「ここで見捨てて、なにが仏の道であろうか」
「…………」
「我らが民から寄付を集め、年貢や地子を集めるのは何のためか。正しき仏の信仰を守るためである。そして、民を見捨てては、我らも仏から見捨てられよう」
かつての証如では考えられないことだ。『正しき仏の信仰』を守るために本願寺の内乱を武力で鎮め、一族すら粛正し、宗徒を動員して中央の政争に介入した男とは……。
……いいや、それも実質的な本願寺法主として権威を振るっていた外祖父・蓮淳の意志だったとしたら。蓮淳が隠居した今、自由に振る舞えるようになったのだとしたら……。本来の証如という男は、このように『優しい』男だったのかもしれない。
優しさ。
慈悲深さ。
それはとても素晴らしいのだ。
人間として、決して捨ててはならないものだ。
ただし、それは、天下太平の世の中であってこそ。
(……甘う御座いますぞ、父上)
茶々は口を開きかけたが、何とか耐えた。今の父に何を言っても無駄だと察したが故に。




