小豆坂の戦い・11
信長は上腕に僅かな手傷を負い、義元は鼻背を斬られた。
どちらも軽傷。戦いに支障はない。
そうして二人は改めて刀を構えて――
「――若様! 太原雪斎が動きました!」
腰に二つの首をぶら下げた森可成が報告してくる。
未だ義元と対峙する信長には小豆坂を仰ぎ見る余裕はないが、可成が言うのだから間違いはないだろう。
考えるまでもない。
もはや、時間切れだ。
「――退くぞ!」
目くらましのため、信長が手にしていた刀を義元へと投げつけた。
走って逃げようとする信長の鎧を玉龍が咥え、自らの背中に乗せる。
そのまま脇目も振らずに駆け出す玉龍。
信長の馬廻衆たちも、置いて行かれたことを恨むでもなく、たとえもうすぐ敵の首を取れる状況であっても即座に踵を返し、信長の後を追う。
今川義元の首を、取れないまま。
あるいは。
これが『史実』の桶狭間の戦いのように、12年後に起こったのならまた別の結果をもたらしただろう。
12年後の信長の元には幾度も激戦をくぐり抜けて鍛え上げられた数千人の馬廻衆がいて。今川義元の肉体的全盛期はとうに過ぎ去り……。そのような状況であれば、あるいは今川義元を討ち取ることもできただろう。
しかし今川義元は生き延びて。
ここで今川義元を討ち取れなかったことにより、信長の天下統一は加速することとなる。
「お、追え!」
今川の馬廻の一人が命令を下すが――
「――よい。追うな」
義元の言葉に目を白黒させる。
「は? し、しかし……」
逃走する敵ほど追い打ちを掛けやすいものはない。今ここで兵を動かせば戦果拡大できるというのに、追うなとは……?
「あいつらの鎧を見ろ。粗末なものだが、その分軽い。重装備なこちらが追撃しても、とてもではないが追いつけぬ。……弓も馬も使い物にならぬしな」
再び強くなったこの風では矢などまともに飛ばないし、そもそも大雨を避けるため弓は弦を外した状態で革袋にしまってある。
突如として始まった乱戦の影響か、それとも雷鳴のせいか今川方の馬は興奮状態にある。この状態の馬を乗りこなすのは少々ことであろう。
それでも何人かの馬廻が追撃しようとして――そのうちの一人が『手裏剣』によって絶命する。
「忍びがいるぞ!」
「追うな! 追うな!」
「殿をお守りしろ!」
馬廻衆たちが周囲を警戒しつつ義元の元へ集まってくる。
その様子を他人事のように眺めながら、くくっ、と義元は笑ってしまう。
「しかしまぁ、なんとも思い切りの良い男よな。あれだけの手勢で突撃してきたくせに、雪斎が来ると知ればすぐさま引いてみせる。あと少し粘れば儂の首も取れたかもしれぬのに……。織田三郎信長。あれが兄上の危惧する男か」
本陣を滅茶苦茶にされ、少なくない犠牲を出し、鼻に傷を負わされたというのに義元の顔には清々しさすら感じられた。
◇
信長という男は天候を味方に付けているのか、と太原雪斎は呆れてしまう。
小豆坂を下りきった雪斎は当然撤退する信長方を確認していたし、追撃しようとした。だというのに、再び霧が出て信長方を見失ってしまったのだ。
(天気を味方に……。あるいは、ああいう男が後の世に『絵巻物』となるのであろうか)
そんなことを考えてしまった雪斎は自らの愚考を戒めるように首を横に振った。
雪斎としてはこのまま小豆坂へと戻り、織田信広を攻め立てるということも考えたが……。どうやら坂の向こうでは信秀が砦から打って出たらしく、敗走した朝比奈泰能隊が小豆坂を下ってくるところだった。
朝比奈としては急に退いた雪斎に不満を抱いていたのだが、乱れに乱れた義元の本隊を見てそんな不満も吹き飛んだ。
「雪斎殿。これは……」
「尾張のうつけが突っ込んできたらしい」
「尾張の……。たしか、信秀の嫡男でしたか?」
「うむ。何とも無茶な男であるが、その無茶にこちらは乱されてしまった。――この戦、こちらの負けであろう」
「……はっ、岡部隊ももうすぐ信広を討ち取れそうなところに行ったのですが。さすが機を見るに敏、砦から信秀が打って出まして。おそらくは……」
「是非も無し。殿が無事であったことをまずは喜ぼう」
「……そうですな」
勝敗は兵家の常とはいえ、岡部真幸からすれば雪斎から梯子を外された格好になった。
(恨んでくれなければよいが)
そんなことを考えながら、朝比奈泰能は義元の元へ駆けつけた。




