小豆坂の戦い・8
突風の影響か、帷幕が柱ごとなぎ倒され、幾人かの馬廻が幕の下敷きになった。
無論、大きいとはいえしょせん布であるから圧死するようなことはない。が、ただでさえ雨を吸って重くなっている上、甲冑を着ているから思うように脱出できないようだ。
そんな彼らを気にも留めずに白馬が駆ける。今川義元に向かって。
「――今川義元っ!」
「ぬぅ!」
義元が反応できたのは半ば奇跡であった。幸運にも白馬が向かってきたのが正面からだったこと。相手が『今川義元っ!』と叫んでくれたこと。そして、恵探を斬るために刀を手にしていたこと。すべての要因が重なり合って、義元は反射的に腕を動かすことができた。
白馬に乗った若武者が、白刃を振り下ろす。
その刀を、義元は名刀左文字の刃区(刃元)付近で受け止めた。
腕が痺れる。
そんなはずはないだろうが、それでも兜が一刀両断されそうなほどの一撃だ。両手が痺れ、思わず刀を取り落としそうになってしまう。
それだけで、相手が十全の鍛練を積んできた武士であると知れる。
見たことのない若武者だ。
義元と呼び捨て、義元に斬りかかってきたのだから、少なくとも味方ではないだろう。
「我が諱を呼び捨てるとは、良き度胸じゃ! 若造! 名を名乗れ!」
「おう! 織田三郎信長じゃ!」
「――尾張のうつけか!」
義元が腰を低く落としてから刀を構え、対する信長は玉龍から飛び降りた。
騎馬が有利なのは、その機動力・突進力を活かすからこそ。ほぼ止まったこの状況では、むしろ細やかに動けない騎馬武者の方が不利になってしまう。いや玉龍ならば何とかしてしまうだろうが、信長は武士としての常識で馬から下りた。
対峙する信長と義元。
そんな二人に対し、義元の馬廻衆が加勢しようとすると――もう一人。騎馬武者が乱入してきた。
信長の乗っていた白馬(玉龍)も感嘆するほどの名馬であったが、この武者の乗る馬もそれに劣らない。
騎馬武者、平手五郎右衛門は槍を振り回しながら、信長の背後を守るような位置についた。
そして――
「――武者同士の一騎打ちを邪魔立てするか! 今川義元の馬廻衆には、武士が一人もおらぬのか!?」
五郎右衛門の一喝に馬廻衆の動きが僅かに止まった。
奇襲をしてきた方が何を、という話なのであるが、それでもやはり『武士の恥』を持ち出されると弱い。足軽や下級武士ならとにかく、それが誇りある義元の馬廻衆であれば尚更に。
馬廻衆たちに生じた一瞬の隙。一瞬の間。
それは、時間稼ぎには十分であった。
「「大将首じゃぁあぁあああぁああぁああっ!」」
やっと追いついてきた信長の馬廻衆たちが帷幕の中に突撃してくる。
さらには、丘の上には収まりきらず周囲に配置されていた今川本隊の武士たちも異変に気づいて突入してきた。
敵味方入り乱れる大乱戦。
そんな混乱の中、織田信長と今川義元は言葉を交わすでもなく静かに対峙していた。




