小豆坂の戦い・5
小豆坂、頂上付近。
容赦なく打ち付ける雨風に不快そうな顔をしながら、兵の配置を終えた太原雪斎は背後を振り返った。
雨風のせいで視界は悪いが、それでも藤川の高台に陣を張る今川本体の旗と陣幕くらいは目にすることができた。
……昨晩。今川義元は幽霊を見たという。
とっくの昔に首を落とした兄・恵探が化けて出たという。
それだけなら『悪しき夢を見ましたな』だけで済んだ話なのだが、どうやら恵探は幽霊のくせに、義元の部屋から出て廊下を進む姿を目撃されていたらしい。
恵探の姿に驚いた忍びや警護番は義元の元へ駆けつけ、そんな彼らを落ち着かせるために義元は恵探の幽霊が出たと話したという。
その噂は一日もしないうちに広まり、兵の中に動揺が広まってしまっている。
それはそうだろう。戦の前日に、戦に敗れた男の幽霊が出るなど縁起が悪すぎる。僧侶としての厳しい修行を積み重ねても幽霊が見えず、結果として幽霊などまるで信じていない雪斎ですら『縁起が悪い』と感じたのだ。他の者の心境は推して知るべしだろう。
縁起が悪い。
不吉だ。
地獄の底から、道連れにするためやって来たのだ。
そんな兵の動揺を少しでも抑えるため、義元は本陣を前に進めた。本来であれば防御力が高い城か砦に篭もっているべきなのに。大将が前線のすぐ近くにいた方が兵の士気は上がるからと。
戦など雪斎にすべて任せて、自分は今川館で報告だけ聞けばいいのに。わざわざ前線まで出張ってしまうのは義元の良いところであり、悪いところでもあった。……割と今川家の血である可能性も否めないが。
兵のことを思う、大将としての立派な行動だと言えるかもしれない。が、前線に近づけば近づくほど、義元が危険にさらされる可能性は高まる。
「……恵探め。意趣返しのつもりか?」
その恵探は、織田と戦ってはならぬと言ったという。
織田信秀。疑いようのない傑物であるが、恵探が口走ったのはその息子・信長だという。
うつけであるはずだ。
集めた情報を精査しても、うつけとしか言いようがない。
だが、それがもしも誤りだとしたら?
敵を欺くための演技だったとしたなら?
齢十にも満たない頃から先を見据え、うつけの演技を続けていたとしたら……。なるほど確かに危険な男だ。十全の警戒をしなければならないだろう。
けれど、今この戦場に信長はいない。那古野城の守りにつき、今川と繋がる清洲衆からの襲撃に備えていることだろう。
いるのは、猪武者。
義元との決戦を期し、小豆坂に近づく信広隊の動きを雪斎は睥睨する。
「……判断が速い。それに、部隊の動きも俊敏だ。将来は良き武将となるだろう。――生き残ることができれば、な」
ただでさえ高所に陣取る敵への襲撃は避けるべきなのに、今日は暴風雨によって足場が悪く、坂の上では満足に動くこともできないだろう。
負けるはずのない戦いだ。
そうなるように、仕向けた。
さらには信広隊に横やりを入れられるよう伏兵を配置しているし、準備は万端。あとは勝ちという結果を回収するだけでいい。
いい、はずなのだが。
言いようのない不安に襲われた雪斎は、再び振り返り今川本陣を視界に収めた。
今川家の誇り。旗印である足利二つ引両紋は、大風に揺られながらも堂々と立っていた。




