閑話 ドレイクと
ドレイクの生まれは、特に秀でていたわけではない。飢え死にはしない程度の農家の長男であり、将来的には農地を継ぐことを期待されていた。
しかし、ドレイクとしては農家というものが性に合わなかった。種を植え、収穫できるのは数ヶ月先。しかも天気や病気次第で収入が大きく左右される。
そんな農家よりは、すぐに結果が出る漁師の方がいいように思えた。
最初は近所の年老いた漁師の元で小遣い稼ぎをしていたが、やがて見慣れぬ人種の男性の元に入り浸るようになった。
なんでもその男は世界を一周したらしい。
酒場での与太話だし、村の人間は誰一人として信じなかった。
だが、その男の口から語られるおとぎ話のような冒険譚に、ドレイクはすっかり魅了されてしまった。
男は語る。世界一周は偶然だったと。
男は語る。名誉など、簡単に奪われると。
船員たちに次々に襲いかかる病、飢え、悪天候……。とてもじゃないが憧れるようなものじゃなかったし、きっと男もドレイクの胸に宿った『夢』を打ち消すために厳しい話をしたのだろう。
だが、ドレイクの『夢』は消えなかった。
香料諸島への航路開拓を目指す男の船に密航し、アジアまでやって来てしまうほどに。ドレイクは『夢』の虜になっていた。
まぁ、そんな子供の浅知恵による密航など早々にバレてしまうのだが。
男――エンリケはドレイクを殺さなかった。ただでさえ食糧が不足しがちな長期航海で、力仕事も任せられない子供を養う余裕などないはずなのに。
暇なときに、エンリケはよくドレイクを部屋に招き、色々な話をしてくれた。航海のこと。海戦のこと。かつての主の勇ましい最後など。
それは長い航海における精神の安定――簡単に言えば暇つぶしに過ぎなかったのだが、学校にすら通えなかったドレイクにとっては貴重な時間だった。
エンリケは語る。いくら名声を得ようが、生まれ持った自分の『分』をわきまえなければならないと。
信義には信義で応え、|恩を仇で返す《return evil for good》ようなことをしてはならないと。
そうすれば、きっと神様はお前を見放さないと。
その教えは、ずっとドレイクの心に残り続けることになる。
◇
エンリケは新たな航海に出る前、ドレイクを帰蝶に預けると言った。
それは仕方のないことだ。そもそもドレイクは密航者だし、船に乗ったところで、子供である彼では碌な仕事ができないのだから。
しかしエンリケは約束してくれた。
ドレイクが大人になったら、一緒に世界を回ろうと。
子供を宥めるための方便かもしれない。
年齢からして、ドレイクが大人になる頃には、もうエンリケは世界一周などできないだろう。
だが、ドレイクはその言葉に頷いた。
早く大人になって、必ずエンリケを世界一周の旅に連れて行くと。
そう、自分が、エンリケを連れて行くと。
そのためには、何もかもが足りない。経験。船。資金。船員……。どれもこれもドレイクからは縁遠すぎるもので、どうすればいいのか見当すらつかなかった。
そんなドレイクを、あの女は誘った。
何もない空中から取り出された地図は、世界のすべてが記されているという。
「はい、ここが欧州と、イングランドね。エンリケさんはかつてこっち周りで大西洋を渡り、太平洋を征き、アジアへと到達したの。ちなみに日本がここね」
「…………」
生まれ故郷の、何と小さなことか。
生まれ育った国の、何と小さなことか。
「将来的にはフィリピンは欲しいし、インドネシアも欲しいし、インド、中東へと勢力を拡大したいわよね。オーストラリアの資源は欲しいし、ハワイは必須。南米の鉱山も欲しいし、アメリカにも今のうちから橋頭堡を築いておきたいわ」
次々に地図上の国を指差していく帰蝶。日の本やイングランドと同じくらいの大きさの国もあれば、数倍――いいや、数十倍はあろうかという国まである。
何という大きさか。
何という大きな『夢』であろうか。
「知識はある。時間もある。けれど、それ以外がまるで足りないのよね」
帰蝶も足りないという。
ドレイクの『夢』の実現に何もかもが足りないように。帰蝶の『夢』のためにも何もかもが足りないという。
「――私が、世界一周の出資者となりましょう。その代わり、私に協力してくれないかしら?」
帰蝶が湊を指差す。
その先にあるのは―― 一隻の、この国の人が南蛮船と呼ぶ船。
いいや、はたしてあれは南蛮船なのだろうか?
確かに和船と比べれば南蛮船の方が近いだろう。だが、船体の形も、大きさも、まるで違う。
――あの船ならば。きっと、世界一周にも耐えられるだろう。
ドレイクの予想を読み取ったかのように帰蝶が笑う。にっこりと。
それは慈悲深き神の微笑みか。あるいは、人を騙す悪魔の笑顔か。
「……帰蝶様は、」
ドレイクは、問わずにはいられなかった。
「いったい、何をするつもりなのですか?」
帰蝶の答えは、決まり切っている。
「――環太平洋連合帝国!」
織田による戦争。
織田による平和。
それを、太平洋すべてに広げるという。
その触手は環太平洋に留まらず、インドや大西洋、いずれはヨーロッパへと至るだろう。
「時代を進めましょう! 人類をさらに強く! さらに遠くへ! いずれ来たる“運命”に負けないように!」
「…………」
彼女には『夢』がある。
ドレイクにも『夢』がある。
夢の実現には、お互いの協力が必要なのだという。
帰蝶はドレイクを信じた。
信じて、『夢』を語ってくれた。
ならば。
ドレイクが、迷うはずがなかった。




