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閑話 明智光秀の決意



 とある夜。

 明智光秀は自らの屋敷で貴重なエゴマ油を燃やしていた。この時代の夜は根本的に暗いものであり、夜の帳が落ちたならば眠りにつくのが常識だ。その常識に打ち勝つためには高価な油を燃やして明かりとするしかない。


 そんな明かりを灯しながら。光秀は白濁とした酒を啜っていた。この時代にも清酒らしきものは存在しているが、いまだ立身出世しているとは言いがたい光秀には手の届かない一品だ。


 すぐ近くで酌をするのは妻である煕子。夫である光秀の様子をどこか楽しそうに、嬉しそうに見つめている。光秀はただ黙って酒を飲んでいるだけだというのに。


 光秀の視線。その先にあるのは帰蝶から下賜された火縄銃がある。

 明かりを反射して煌めく地金を眺めながら、光秀は火縄銃の元の持ち主に想いを馳せていた。


 幼い頃。帰蝶と遊んだ記憶がある。

 とはいっても帰蝶は(名跡を継いだばかりとはいえ)美濃守護代の娘。『遊ぶ』というよりは『付き従う』と表現する方が近かったのだが。


 帰蝶はよく笑う娘だった。からからと。まるでこの世界には楽しいことしかないと言わんばかりに。


 ……十年ほど前。帰蝶が誘拐された末に行方不明となり。事情を知る者は帰蝶の生存は絶望的だと考えていた。帰蝶を『療養』扱いにした道三にしてもすっかり意気消沈してしまうほどに。


 あの後。道三からときおり発せられていたマムシのような恐ろしさは身を潜めた。霧散したと言ってもいい。それが良いことなのか悪いことなのかは分からないが、もしも道三が『マムシ』のままだったとしたら……。美濃はきっと今よりも混迷を極めていたはずだ。


 帰蝶という少女と共に『美濃のマムシ』から毒牙が消えた。


 そして、帰蝶は帰ってきた。母親譲りの美貌に磨きをかけて。あのときの笑顔はそのままに。


 光秀も帰蝶の探索に駆り出され、帰蝶が落とされた崖を何度も目にした。助かるはずのない高さ。最初はよく似た別人ではないかと疑ったものだ。


 しかし、帰蝶の笑顔は記憶にあるものと同じであったし、何よりあのような『魔法』の使い手であれば生きて帰ることもできるだろう。


 姫らしからぬ言動。なのは仕方がない。こことは異なる世界で、異なる地位を生きてきたのだから。いきなり姫らしさを要求するのも酷というものだ。


 事情が事情なので光秀としても基本的には好きなようにさせている。けれど、小姓として、止めなければならないこともあった。その一つが戦傷者の保護だ。


 たしかに戦傷者を養うのは尊いことだし、光秀としても美濃のために戦ってくれた者を見捨てるようなことはしたくない。

 しかし、健常者ですら餓死しかねない現状において、戦傷者をどうにかする余裕などないのも事実なのだ。


 善人が悲劇をどうにかしようとして、失敗し心を折られた場面を光秀も見たことがある。帰蝶にはそんな思いをして欲しくなかった。あの笑顔を曇らせたくはなかった。だからこそ光秀は止めたというのに……帰蝶は何とかしてしまった(・・・・・・・・・)


 父道三の力を借りるでもなく。一方的に救うわけでもなく。きちんと職業を与え、賃金を支払い、あくまで雇用するという形で救済してみせた。


 日々の食事。雨風を防げる住居。彼らの目には明日への希望があり、日々を精力的に過ごしている。


 …………。


 帰蝶はここで終わるだろうか?

 彼らを救っただけで満足するだろうか?

 光秀にはとてもそうとは思えなかった。


 あのときの帰蝶の言葉を思い出す。



『――難しいことは明日考えればいい!』



 帰蝶は迷うことなく断言した。



『――明日になれば、見かねた誰かが助けてくれるかもしれない』



 思わず光秀が呆れたあと。彼女は続けた。

 彼女の師匠の言葉を。

 彼女自身の口から発した。



『――私たちには“力”があります。たとえすべての人を救うことができなくとも、せめて、“縁”があった人くらいは助けてあげましょう』



 そういうことなのだろう。

 彼女がしきりに“縁”と口にするのは。

 “縁”があった人を助けようとするのは。

 師匠からの教えを。彼女自身の志としているからなのだ。


「煕子」


 光秀が酒を置き、居住まいを正しながら愛する妻と向き合った。


「はい」


 煕子はどこか見守るような目。


「私は、仕えるべき主を見つけたよ」


 美濃の()国主・土岐頼芸は自身が守護であることにばかり固執し、民のことを顧みない人物だった。


 斎藤道三は民のことを思い、洪水被害や冷夏による不作の際には相応の対応を取っていた。他国においては『マムシ』と呼び恐れられているようだが、少なくとも美濃の民にとっては良き国主(・・)だ。


 できることならこのまま道三に仕えたいのが光秀の本音。だが、すでに高齢である道三は近々隠居するだろう。出家するとの噂もある。


 となると次の主は斎藤義龍ということになるが……。

 彼はマムシの息子と呼ぶにふさわしく深謀遠慮で抜け目がない。軍の指揮もうまいし国人への支配も申し分ない。


 だが、民を顧みているかというと疑問を呈するしかない。もちろん今の段階での当主は道三であり、義龍が何らかの政策を主導できるわけではないが……。それでも、義龍の口から民のためになるような発言が出たことはない。


 ならば、今現在も民のために行動している帰蝶に。実家の力を頼ることなく戦傷者を救ってみせた帰蝶に。――光秀は、仕えたいと思ったのだ。力になりたいと思ったのだ。


 帰蝶が女であるとか、帰蝶についていっても出世が見込めないとか、そんなことは関係ない。

 だが、もしかしたら妻に迷惑を掛けるかもしれない。だからこそ光秀は真っ先に煕子に話をしたのだ。煕子がたしなめるのなら、光秀としても諦めるしかない。


 そんな光秀の想いを理解しているのだろう、


「私の顔を治してくれたから、仕えて恩を返さなければ、とでもお考えで?」


 問うた煕子は笑みを浮かべている。


「それもある。だが、私個人の気持ちとして、お支えしたいと思ったのだ」


「ふふ、ならば道三様にお許しをもらいませんとね」


「……むぅ、お館様は許してくださるだろうか?」


「妻に迎えたい、となれば絶対に許さないでしょうね。話を聞くだけでも帰蝶様を大切にしていることが分かりますし」


 光秀は刀を差しだしてきた道三の姿を思い出し、苦笑してしまった。近づいたり色目を使っただけの男すら切らせようとしたのだ、娶りたいなどと口にすれば問答無用で切り捨てられるだろう。


 いやそもそもこの時代は親が結婚相手を決めるのが普通であり、自分から結婚相手を見つけることなどしないのだが。


 苦笑いする光秀の様子を見て煕子もついつい笑ってしまう。


「ですが、二心なく仕えたいという気持ちが伝わればお許しいただけるでしょう」


「……真正面から頼むしかないか」


「それがよろしいかと」


 光秀の奮戦を期待するかのように灯火が大きく揺らめいていた。





 後日。


 斎藤道三と明智光秀は道三の私室で向き合っていた。光秀の顔から深刻さを察した道三が人払いをした結果だ。


「……帰蝶に仕えたい、と?」


「はい」


「おぬしはいずれ明智家の当主となり、明智城の城主となるだろう。しかし、帰蝶に仕えるとなればその道も絶える。明智家を出奔し、城持ちとなる未来を捨てる覚悟があるのか?」


「明智一族の長。明智城の城主。少し前のそれがしであれば決して手放さなかったでしょう。しかし、今のそれがしの目にはさほど魅力的には映りません」


「それほどの人物か」


「それほどの人物かと」


「……惜しいな。女性にょしょうでなければ美濃を任せているところだ」


 心底残念そうな道三。だが、光秀は首を横に振る。


「彼女であれば、そのような常識すら破壊するやもしれません」


「……で、あるか」


 小さくつぶやいた道三は一本の酒を取りだした。


「光秀が当主となったときに開けようと思っていた酒だ。少々早いが、今こそ飲むべきだろう」


 そのような酒をすぐに取り出せたのだから、道三は今日このような話になると予想していたのだろう。


 やはりこの人には敵わないな。光秀は苦笑しつつ琥珀色をした酒を楽しんだ。




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