閑話 男の決意
――恨めしかった。
苦しかった。
抵抗すらできなかった。
縄で縛られたまま海に落とされ、どんなに藻掻いても沈み行く身体を止めることはできなかった。
俺を突き落とした男は、経を唱えながら嘲るような目で俺を見下していた。
下間のガキは興味なさそうに目を逸らした。
そして、あいつは、――申し訳なさそうな目でこちらを見つめていた。
ふざけるな。
中途半端な同情が何になる?
お前の立場なら止められるだろう?
なのに、止めないのがお前だ。
お前も同罪だ。
いいや、お前こそが最も罪深い。
――呪ってやる。
たとえ怨霊になろうとも。たとえ天魔に身をやつそうと。必ずや。かならずや貴様らに復讐してやる。思い知らせてやる。
――我が恨み、忘るるな。
身体が沈む。
光が遠のく。
息が苦しい。
飲み込んだ海水が喉を容赦なく痛み付ける。
意識が遠のく。
死ぬ。
死ぬ。
死ぬ。
――殺す。
この苦しみを、あいつらにも。
あいつにも。
必ず、味わわせてやる。
……………。
そうして俺の意識は遠のいていき。
気づいたとき。俺は――俺たちは、海の上にいた。
いくつもの船が行き交う。
だが、その船を止めることもできない。
動くこともできない。
声すら出せない。
他の二人も、同じく殺された二人も、動けないようだった。
なんだ、これは?
大坂が目視できる場所にいながら。大坂へ向かう船がこんなにも近くを行き交っているのに。俺たちは、見ていることしかできないのか?
大坂が見える。
寺が見える。
――本願寺だ。
大坂本願寺だ。
憎き相手はあそこにいるというのに。俺は動くことすらできず、声を発することすら叶わない。
ずっとこのままなのか?
恨むことしかできないのか?
怨念を飛ばすことしかできないのか?
――いずれ、それすらできなくなったら。
この恨みを晴らせぬまま、消え去るしかないのなら。
あぁ。
ここはなんて地獄だろう。
なんという地獄だろう。
怨敵の住まう場所は目視できているのに。どうやってもこの場から動くことができない。
これが罪だというのか?
俺の犯した罪の、償いだというのか?
あいつらはのうのうと生きているのに。
大坂本願寺は今もなお信者を騙して金をせしめているというのに。
俺は、俺たちは、ずっとこのままなのか……?
――誰か。
誰か、助けて欲しい。
ここから動かして欲しい。
恨みを晴らす機会を与えて欲しい。
何でもするから。
お願いだから。
誰か――
「――『力』には、代償が必要です」
鈴を鳴らしたような。どこまでも響いていきそうな、声。
「――君が望むのなら、与えよう。ただし、試練を乗り越えてもらうけどね」
軽快でありながらも、なぜだか神秘性を感じさせる、声。
海の上に、人がいた。
いいや、海の上に立つことができる存在を、『人』と呼んでいいのだろうか?
縄が解ける。
死したあともなお俺たちを捕らえ続けていた縄が。
「あなたの恨みが本物であれば、」
銀色の髪をした女が笑う。
「きっと試練も乗り越えられるでしょう」
金色の髪をした女が笑う。
銀の女には見覚えがあった。火起請を不思議な術で邪魔した、あの女。捕らえられたあとは見張りから散々話を聞かされた。いわく、薬師如来の化身。いわく、奇跡としか思えない術を使う女。
人でなくなった今なら、分かる。
目の前の存在は、人ではない。天魔などという生易しいものではない。あれは、きっと……ほんとうに、薬師如来の化身に違いない。
ならば。
そんな女の隣にいる存在は。人ではあり得ぬ金の髪と金の瞳を持つ女は。背中から純白の羽根を生やした女は……きっと、薬師如来そのものに違いない。
薬師如来と、その化身。
二人の間に、何かが浮かんでいる。光り輝く、赤い、何か。
見たことなど無いはずなのに。男には、それが高熱で溶けた鉄――『熱鉄』であると分かった。分かってしまった。
「神通力を得るには、試練を乗り越えなければなりません」
「試練を乗り越えれば、『力』を与えましょう」
どんな試練なのか。
どんな力を得られるのか。
一切の説明もなく差し出された熱鉄。
落ちることなく空中に留まっている熱鉄。
飲めということなのだろう。
それが試練なのだろう。
溶けた鉄を飲めばどうなるのか?
口の中は焼け、喉も焼け、臓腑すらも焼けただれるだろう。
人であれば死んで終わりだ。
だが、幽霊であればどうだろう?
死ぬこともできず、溶けた鉄は体内を焼き続け、それでもなお意識すら失えないとしたら?
まさしく、地獄だ。
動けないことなど、声を出せないことなどそれに比べればなんと生やさしいことか。
このまま恨みを忘れ、何もせず、考えるのを止めてしまえばいずれ意識も消えるだろう。消えることができると分かる。
死ぬときですら苦しかったのだ。
これ以上、苦しみを受けることはない。
このまま恨みを忘れ、何も考えず、時が過ぎ去るのを待てば……少なくとも、苦しむことはないはずだ。痛みに悶えることはないはずだ。
――だが。
男は、迷わなかった。
自由になった腕を伸ばし、熱鉄をすくい上げる。手の皮膚が焼き爛れ、肉の焼けるニオイが鼻腔をつき、骨すら見えてしまうが……かまうものか。
男はそのまま、躊躇うことなく、熱鉄を飲み干した。
「――ならば『力』を与えましょう」




