閑話 今川の忍び・1
――男は、今川家に仕える忍びであった。
今川家の家督争いにおいて早い時期から今川義元に付いたため、義元の信頼厚い忍びであった。
そんな男がはるばる美濃にまでやって来たのは、二つの噂の真偽を確かめるため。
一つは、薬師如来の化身と噂される斎藤帰蝶の調査。
もう一つは、斎藤帰蝶と織田信長の婚約の噂。
さすがに万病を治すと伝わる『阿伽陀』など噂でしかないだろうが、奇跡にも似た優れた医療技術を持っているなら放置はできない。場合によっては斎藤家との同盟も考えられるだろう。
そして、帰蝶と信長の結婚。
つまりは、濃尾同盟の成立。
ただでさえ三河をめぐる戦いでは今川が劣勢に立たされているというのに、同盟によって後顧の憂いがなくなれば織田信秀はかなりの戦力を三河に向けることができるだろう。
もちろん、尾張国内で信秀と対立する織田大和守を支援して、信秀が全力を投入できないようにはしているが、大和守が当てになるかというと……。
岡崎城の松平広忠にも不穏な動きがある。もしもこれが、美濃と尾張の同盟を察知してのことだったならば……。
ことの重要性を認識している男は、慎重に行動していた。忍びの中で病に冒された女を妻に仕立て上げ、その治療のために美濃へやって来たという筋書きを組み立てた。
幸い、今の美濃にそのような人間はあふれかえっており、男と女が疑われることはなかった。
阿伽陀についてはまだよく分からない。非常に効果が高い薬が実在するのは確からしいのだが、庶民のふりをしている男が手に入れられるような代物ではなかったからだ。
だが、帰蝶の広めているという治癒術は本物であった。男の『妻』である女の病が、たちどころに癒えてしまったことから疑いようがない。
取り急ぎ治癒術の偉大さを義元に報告した男は続けて美濃に滞在し、何とか治癒術を習えないかと狙いつつ婚姻の噂を調査した。
斎藤帰蝶の婚約相手については、織田信長はもちろんのこと、尾張守護斯波氏、美濃守護土岐氏、他にも浅井の嫡男や、武田氏への嫁入りの噂まで流れていた。
噂の強さや幅広さからして、おそらくは斎藤道三が故意に流しているのだろう。
そうまでして真偽を隠したい婚約であるのだから、織田信長が相手の可能性が高いと男は踏んでいるが……直感を頼りに今川義元に報告するわけにもいかないだろう。
男が調査を続けていると……衝撃的なことが起こった。
稲葉山の山頂に燃えさかる火の玉が落下し、城が吹き飛んだのだ。
当然、城下の者たちはその出来事に恐れおののいた。中には主君である土岐氏を蔑ろにしたから仏罰が下ったのだと噂する者もいた。
あまりにも稚拙だったため調査する必要すらなかったが、その噂は、土岐頼芸自身が流したものだった。
頼芸はあの天災をきっかけに反道三の勢力をまとめ上げようとしていたのだろうが……結果としてそれは失敗した。
いつの間にか――それこそ、再建開始から一日も経たず、稲葉山の上に巨大な城が姿を現したからだ。
日の本にあるどんな城よりも大きな、城壁。
山頂から城下を睥睨する、極大の櫓。
夢か、幻か。
もしも現実であるとするならば――あれだけの城を即座に再建してみせた道三の権勢はいかほどのものなのか。どれほどの資金を投入し、どれだけの人足を使えば実現できるのだろうか?
城下にいれば否応なしに目に入ってくる新しい稲葉山城。その偉大さに民草は土岐頼芸の存在を忘れ、ただただ斎藤道三を称えていた。男でさえ、今川を離れて斎藤家に付くべきかと考えたほどだ。
そんな男をさらに驚かせる事態が起こる。
きっかけは、城下町の大通りに掲げられた一つの高札。
いわく、稲葉山の城を広く民草に解放するのだという。




