妖精のイタズラ
『共に困難を乗り越えて、絆が深まるー』
『感動的だねー』
『ありがちだねー』
『リーリスなら、この辺で十分満足するんだろうねー』
『でも、妖精さんは満足しないー』
『もっともっと困難をー』
『乗り越えてこその人間だー』
『不可能を可能にしてこその人間だー』
『予想外こそ人間だー』
くすくす、くすくすと。妖精と名乗る存在たちが嗤う。人間に期待しながら、人間を心底馬鹿にするように。
『というわけでー』
『二名様、ごあんなーい』
『頑張ってねー』
『負けないでねー』
『死なないでねー』
『楽しませてねー』
「い、一体なにを――」
犬千代の言葉の途中で、視界がブレた。目眩にも似た感覚が襲いかかり、思わず二人は目を閉じて片膝を突いてしまう。
再び目を開けたとき。
眼前にいたのは……巨大なる存在であった。
見た目だけなら蜥蜴に似ているだろう。感情の読めない瞳。短い手足は折り曲げられ、四つん這いのような姿勢を取っている。
しかし、見慣れた蜥蜴には魚のような鱗など無いはずだし、狼にも似た牙など無いし、なにより――体高10尺(約3メートル)を越えるわけがない。高さだけでも10尺なのだから、頭から尻尾までの長さなど想像することすら難しい。
――土龍。
その存在を、犬千代たちが知っているはずもない。
飛竜のような翼はないし、多くの竜種が放てる竜の息吹も使えないが……それでも、鱗の固さと圧倒的な力、そしてなにより単純な身体の大きさで『ドラゴン』の名に恥じない強さを持つ存在だ。
『――ガァアアァアァアアアアァアッ!』
熊とも、狼とも違う咆吼が響き渡る。
その怒声だけで手足が震え、僅かながらに動きが、反応が遅れてしまう。
一瞬生じた隙。
それを見逃すことなくアース・ドラゴンが尻尾を振るった。
人間相手の戦いでは決して経験することのできない攻撃は、二人にとって完全なる奇襲となった。
「ぐっ!?」
慶次郎は間一髪避けることができたが、犬千代がその一撃を食らってしまう。それでも尻尾そのものを槍で受け止め、反射的に後ろへ飛ぶことで威力を減じたのは『槍の又左』の名に恥じない動きであったが……それだけでドラゴンの攻撃をいなすことができるはずもなく、犬千代は岩壁に叩きつけられてしまう。
「まったく! 巫山戯ておるな!」
慶次郎は考えるよりも前に駆けだして、衝撃で呼吸すらままならない犬千代を脇に抱えた。
ドラゴンが再び尻尾を振るう。
だが、一度『見た』攻撃であれば心構えもしやすいというもの。慶次郎は間一髪しゃがみ込んで尻尾の一撃を避け、そのままドラゴンの背後に回った。
「おぅらっ!」
犬千代を抱えていない方の腕で槍を使い、ドラゴンの脇腹を突く。
しかし、まるで鉄の壁でも突いたかのようにこちらの手が痺れてしまう。
「いくら片手とはいえ、はははっ、世界は広いのぉ!」
対抗より逃走を選んだ慶次郎はわずかに空いた壁の亀裂にその身を割り込ませた。人一人が何とか通れる程度の、亀裂にしては大きな空間。しかしドラゴンにとっては狭すぎるのか追撃はなかった。
何とか割り込ませた指先の爪で慶次郎たちを掻き出そうとしているので安心はできなかったが。まったく冗談のような大きさである。この爪だけでも人間の身長くらいはありそうだ。
「さて、どうしたものか……」
とっさの判断であったし、それしか道がなかったのは確かだが、亀裂に逃げ込んだのは失敗だったかもしれない。奥に道があるわけではないし、唯一の出口にはドラゴンが陣取っているのだから。
ドラゴンが諦めてどこかへ行ってくれるならいいのだが。相手がどれだけ執念深いか分からない以上、期待しすぎてもしょうがないだろう。
「ぐっ、……はぁ、はぁっ、はぁ……」
犬千代の呼吸は弱々しい。あれだけの勢いで岩壁に叩きつけられたのだから骨は折れているだろうし、内臓に傷を負っていても不思議ではない。
どうしたものか。慶次郎は努めて冷静さを保ちつつ自問する。
今は碌な装備もない。握り飯は先ほど食べてしまったし、水筒の水も残り僅か。あとは――
ふと思い出した慶次郎は、犬千代の腰に下げられた小袋から阿伽陀(ポーション)を取り出した。
ギヤマン(ガラス瓶)だというのに、あれだけの衝撃を受けながら割れるどころか傷一つついていない。
阿伽陀の蓋を開け、犬千代に半ば無理やり飲ませると――犬千代の呼吸が穏やかなものになった。理屈はよく分からないが、もう大丈夫なのだろうと直感が告げてくる。
「ちっ」
回復したらしい犬千代は舌打ちをしつつ肩を回したり屈伸したりして身体の調子を確かめている。
全力疾走くらいはできそうだなと判断した慶次郎は、一つ提案してみた。
「では、叔父貴。拙者があの……蜥蜴? を引き付けますので、その間にお逃げくだされ」
「……は?」
「元来た道を戻り、今までとは反対の道を行けば活路もあるでしょう。いえ、行き止まりの可能性もありますが、少なくともこのままここに留まるよりは――」
生き残れる可能性がある。
そう続けようとした慶次郎に犬千代が掴みかかる。
「……情けをかけるつもりか? わしが『叔父』だから、利久の弟だから逃がそうというのか?」
「まさか。拙者より叔父貴が生き残った方がいいからに決まっておりまする」
「情けではないなら、何だ!? どうやったらそんな判断になる!? 貴様の方が身体はデカいし、槍の腕前も上! 人を引き付ける魅力もある! 今日一緒に行動してみて――あぁ! 認めよう! お前は頼りがいのある男だ! 武将としてはどこをとってもお前の方が優れておる! そんなお前に、わしのどこが勝っておる!? わしが逃げて、どうなるというのだ!?」
一息に叫んだ犬千代の胸を、慶次郎は握り拳で叩く。
「叔父貴。拙者は関羽のような義将を目指せますし、張飛のような勇将にもなれましょう。……ですが、それだけ。しょせんは一個の将。劉備のような人を従える器はありませぬし、孔明のように大軍を指揮する才もありませぬ」
真っ直ぐに。
ただただ真っ直ぐに見つめてくる慶次郎の瞳を目の当たりにし、犬千代は胸ぐらを掴んでいた手を離してしまう。
「……わしには、それがあると申すか?」
「ありまする」
「なぜ、断言できる? 戦に出たこともまだ数回。部隊を率いたこともない儂のどこを見れば、そんなことを断言できるのだ?」
睨め付ける犬千代に呵呵と笑いかけ、慶次郎は自らの胸を軽く叩いた。
「拙者の心が、そう告げておるのです」
「…………」
理屈ですらない。
話にならない。
ただの直感。
ただの直感である、はずなのに……。なぜだか犬千代は『そういうものか』と納得してしまった。
慶次郎の真っ直ぐすぎる目が、彼の本気を伝えてきたのかもしれない。
「では、叔父貴。また会いましょう」
軽い調子で別れの挨拶を告げてから、慶次郎は手にした槍をドラゴンに投げつけた。
無論、その程度の攻撃でドラゴンが傷つくはずもなく。槍は鱗に弾かれ明後日の方向に飛んでいってしまった。
だがドラゴンを怒らせる効果はあったようで、ドラゴンは忌々しげな瞳で慶次郎を見下ろしてくる。
たとえ槍があっても、慶次郎に勝ち目はなかっただろう。
そして今、その槍すら手元にない。
「はははっ、これから死ぬというのに不思議と怖くない。これが無我の境地というものか? ――うむ、自分より優れた者を生かすために死ぬ。中々どうして得がたい最期であろうよ」
くっくっと笑いながら慶次郎はドラゴンに対して両手を広げた。
「さて。相撲でも取るかね、蜥蜴殿?」
煽るような慶次郎の言葉など理解できるはずもないが。咆吼に怒りを乗せたドラゴンはその巨大なる顎門を開いた。
一本一本が人の身長ほどもある牙。ぬめぬめと滴り落ちるよだれ。気味の悪い青色をした舌。鼻を突く悪臭。人生の最後に見るにしては最悪の光景であるなと慶次郎が皮肉げに口足を吊り上げていると――
「――この、ド阿呆がっ!」
大地が震えるほどの大声で叫びながら、犬千代が慶次郎の前に躍り出た。
その両手には唯一の武器となる槍が握られていて。迫り来る牙を恐れることなく犬千代はその槍をドラゴンの上顎に突き出した。
それは奇跡か。
あるいは、意志の勝利か。
犬千代の槍は柔らかい上顎の肉を貫き、頭蓋の内側の薄い部分を貫通し、――深々と。その一撃はドラゴンの脳へと到達した。
ドラゴンの鮮血が犬千代たちを濡らす。あまりの悪臭に二人が顔をしかめていると……ドラゴンの上顎が力なく落ちてきた。
たとえドラゴンが事切れていようと、その牙に当たれば胴体など両断されるだろうし、単純に口腔内で押しつぶされる可能性が高いだろう。
「こ、これは――」
まずい。
そう口にする瞬間、犬千代と慶次郎の視界がブレた。




