閑話 兄と弟
九鬼たちが休憩を終え、海へと乗り出したあと。
転覆した船をゴーレムを使って引き上げ始めた帰蝶を、少し離れた場所で織田信長と雑賀孫一が見守っていた。
「……にぃに、どう思う?」
口数少なく問いかけてきた孫一の頭を、信長が乱暴に撫でる。
「はっはっはっ、孫一よ。人と会話をするときには伝わるよう言わなければならんぞ?」
「…………」
孫一は信長たちと出会ったばかりではあるが、それでも信長がその口数の少なさから帰蝶に苦言を呈されているところを何度か見てきた。――お前が言うな。という目を向けてしまった孫一の反応も当然と言ったところだろう。
しかし我ながら伝わらない物言いだったなと思い直した孫一は改めて問いかけ直した。
「捕まえた佐治水軍の連中、どうなると思う?」
「む、どうなるか、であるか……。九鬼は身代金をもらうと言っておったが、まず無理だろうな」
九鬼と佐治では交渉のための窓口があるかどうかも怪しいし、まんまと敵に捕らえられ船まで奪われた連中を、金を払ってまで取り返すとは考えがたい。
一旦引き取ってから見せしめとして……という可能性もないではないが、わざわざ身代金を払うまでのことでもないだろう。
そして。
人というのは生きているだけで食料を消費するし、糞尿を垂れ流す。佐治との交渉がまとまるまで九鬼が面倒を見るかと問われれば、ないと断言することができる。
良くて近くの奴隷商に売り払う。悪ければ……縛ったまま海に突き落とせばそれですべてが終わる。
「ねぇねは、気づいているかな?」
「あの様子では気づいていない……と思うが、帰蝶だからな。気づいてないふりをしているだけかもしれん。どちらであっても不思議ではないのが帰蝶の『怖さ』であろうな」
その者の性格を知れば思考を推測できる。
思考が分かれば行動も先読みできる。
だが、そもそも何も『分からない』人間は――どこまでが演技かまるで分からない人間には――怖い、という評価を下すしかないだろう。
「……とんでもない人の弟になった」
「はっはっはっ、弟ならまだマシだろう? わしなんぞ夫だぞ?」
口ぶりこそ嫌そうであるが、信長の目元は隠しきれないほどに緩んでいた。
そんな信長の様子を冷徹に見定めながら、さらに孫一が言葉を続ける。脳裏に浮かぶのは敵を一方的に無力化した雷魔法だ。
「ねぇねなら、城の一つくらい簡単に落とせる」
「で、あろうな。むしろ城一つで済めばいい方であろう」
「……どうするつもり?」
先ほどの注意したことを無視した孫一の簡素すぎる問いかけ。しかし信長が何を問われたか悩むことはない。
帰蝶の“力”のことなど、森可成たちとのやり取りの中でも散々出てきたし、父信秀との会話でも幾度となく話題に上った。
だからこそ信長は何度も思考を繰り返し、すでに結論は出してある。
「どうもせん」
「……何も求めないと?」
「で、あるな」
「ねぇねが協力すれば尾張統一も夢じゃないのに、それでも、何も頼まないと?」
「はっはっはっ、その程度で帰蝶を頼っていては、愛想をつかれて出て行かれるわ」
「利用、しないの?」
「あの女を利用できるものか。マムシですら手を焼こう」
「それでも、にぃになら……」
「利用せん。だからこそ帰蝶はわしの側におる。そういうものなのだ。……ふっ、孫一にはまだ早かったか?」
「…………」
信長であれば、たとえ利用しても『もう! しょうがないわね三ちゃんは!』と喜びそうなものなのだが……。孫一は、沈黙を選んだ。彼は空気の読める弟なのだ。
そんな孫一の気も知らずに。信長は港に泊められた鹵獲船たちを眺めながらため息をついた。
「しかし、厄介なことになりそうであるな」
「厄介?」
「うむ。佐治水軍から安宅船と関船が奪われ、そして織田家に安宅船と関船が現れる……。よほどの阿呆でもない限り、織田が奪ったと考えるだろう」
「それは、まぁ、そうなる」
「その辺は帰蝶に責任を取ってもらうとして、だ。……さらに厄介なのは、伊勢湾の制海権だ」
佐治水軍から安宅船一隻と関船二隻がいなくなり。織田家は船を手に入れたが、船を動かせる人員はいない。
伊勢湾の水軍戦力が激変した今。――今川の水軍が伊勢湾を跋扈することだろう。
「……ねぇねは、気づいているかな?」
「気づいておらんだろうあの『ぽんこつ』は」
今度はバッサリと切り捨てる信長であった。そろそろプリちゃんは信長に雑な現代言葉を教えるのを控えた方がいいかもしれない。